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【ニルヴァーナへの道】ツミスクイ 脱ノ章

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【ニルヴァーナへの道】ツミスクイ 脱ノ章

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chapter.11 躊躇との決別 


 結局、地下二階にも千住やお華の姿はなく、彼らは地下一階まで上っていた。
 階層を上がってすぐの頃だった。
「安倍……だいぶ汚れたな」
 早川 呼雪(はやかわ・こゆき)が、近くを歩く晴明に声をかけていた。
「事を解決させて帰ったら、すぐにでも風呂に入りたいんじゃないか? 俺は入りたい」
 晴明ほどではないにしろ、綺麗好きな呼雪もこの溜まりに溜まった汚れは歓迎すべきものではないようだった。
「……ああ、俺もシャワー浴びたいよ」
 晴明から返ってきた言葉を受けて、呼雪はふとなんでもない疑問を聞いてみた。
「でも、思ったんだが、それほど潔癖症だったら、公共の入浴施設とかは使えないんじゃないか?」
「うん? ああ、そうだよ。だから温泉とかは入ったこともない」
 あっさりと言ってのけた晴明に、呼雪は苦笑いを浮かべた。
「温泉も、良いものなのにな……」
「あぁ、良いよねえ。葦原には、檜の露天風呂とかあったりするのかなぁ」
 パートナー、ヘル・ラージャ(へる・らーじゃ)が呑気な口ぶりで、帰還後のことに思いを馳せる。呼雪はヘルのそんな様子にも苦笑しつつ、晴明に対して気にかかることがあった。それは今の会話でも明白だったが、彼の潔癖さである。汚れを嫌ったり、親しくない者に触れられたくなかったりというのはまだ理解できる。しかし、彼は誰に対してもそうなのだろうか?
「なあ、ひとつ聞きたいんだが」
 心に浮かんだ疑問を、呼雪は尋ねずにはいられなかった。
「あの四人にも、触らせることを拒んでいたのか?」
 呼雪の問いに、晴明は小さく頷いた。その理由を知ろうとしても、晴明は頑なに「きれいでいなきゃいけないから」としか返さない。呼雪は我慢できず、彼に思いを吐露した。
「でもそれって、相手からしたら傷つくかもしれないよな。自分は、汚れてるのかなって」
 決して責めるような口調ではなく、むしろ穏やかに語りかける呼雪に、晴明は耳を傾けた。
「……俺も以前そうだったから思うんだが、安倍が本当に汚いと思っているのは、もしかしたら自分自身なんじゃないか?」
 それはどことなく、晴明がこの階に来る少し前に感じていたことに近かった。彼は「信じよう」と綺麗であろうとする一方で、他の感情も持っていたのだから。
 そんな晴明を見て呼雪は思う。
 晴明の事情を理解しているつもりでも、四人は壁を感じていたのではないかと。同時に、だからといって晴明の性質を治すことが容易ではないことも分かっていた。けれど、何も出来ないわけではない。
「安倍。何が起こっても、お前だけは信じてやれ。長い付き合いだったんだろう」
 今までよりも強めの口調で、呼雪が言った。それが、晴明に出来ることだと思ったのだ。
「もちろん、今だって信じて……」
 言いかけて、晴明は口をつぐんだ。千住とお華のことが脳裏をよぎり、どうしても自信を持って言い切れなかった。呼雪は、それを察して言葉を紡いだ。
「だが、信じることと疑わないことは、まったく別物だ」
「え……?」
「もし彼らの中に、敵にくみする者がいたとして、本人にとってはそうしなければならないだけの理由や事情があったはずだ。それも含めて、信じ抜いてやってくれ。本当の友情は、何があっても揺らがない」
「……だよな。理由も聞かないであれこれ疑うなんて、きれいじゃない」
 呼雪の言葉を聞いて、晴明は自分に言い聞かせるようにそう言った。
 ややもすると説教めいたようにも聞こえる呼雪の言葉であったが、今の晴明には逆にそれくらい明確に言われた方が有難かった。それを、動機のひとつと出来るからだ。
 とはいえ呼雪に誤解を生じさせないために、フォローも必要だろう。そう思ったヘルは、呼雪から離れ前を歩き出した晴明に追いつくと、小声で言った。
「さっきの話だけど、呼雪は、小さい頃にご両親を亡くしてから大分苦労してきたみたいなんだ。だから……ね?」
 悪く思わないで、とまでは押し付けがましくて口にしなかったが、晴明には伝わったようだ。彼は小さく手を左右に振って、「大丈夫」という仕草をした。
 そんなやり取りを見ていたのは、ヘル同様呼雪のパートナーであるタリア・シュゼット(たりあ・しゅぜっと)ユニコルノ・ディセッテ(ゆにこるの・でぃせって)だった。
「それにしても、人と触れ合えないって難儀ね」
 タリアがぼそっと呟いてから、続けて言った。
「スキンシップで得られる人の温もりって、大事なのよね。親愛の情を伝えたり、安心させることも出来たり。晴明くんも、小さな頃はお母様やご家族にそうして貰わなかったのかしら?」
 言いながらタリアは、ユニコルノの髪を梳いていた。そのユニコルノが、視線を上に向けて言う。
「どんなに綺麗に見えても、目に見えない汚れの素はどこにでもあるのですから、気にしていてはキリがないと思うのですけれど。生きていれば自然と、汚れは付着します」
「まあ、心の問題って難しいものだから。晴明くんに良い解決方法が見つかっても、焦らずにゆっくり進んでほしいわ」
「心の持ちようで洗い流せる、という強さも必要なのかもしれませんね」
 ふたりの会話は晴明に届くことはない。しかし、彼女たちが口にしたことも、またひとつの真実に違いはなかった。



 人を信じるとはどういうことなのか。
 晴明は多くの生徒と話し、また様々な局面に遭遇し、そんなことを深く考えるようになっていた。
「晴明くん、きっと今、色々考えてる……」
 そんな彼の様子を、七瀬 歩(ななせ・あゆむ)は心配そうに見つめていた。
 人を信じる。
 それはまぎれもなく美徳である。そう感じつつも、歩は何を晴明に話せば彼の心を軽くできるか、悩んでいた。
 どんな言葉をかけたとしても、あの四人のことを知っているのは自分たちではなく晴明なのだ。歩は自分の身に置き換えて、じっくりと考えてみた。
 もし百合園で、仲良くしている人たちから裏切られたら。
 歩は思う。
 たぶん、本当に信じていた人でも信じられなくなって、それから自分が悪かったところがないか悩んで、悩み続けて、心が痛くなってもどっちかに割り切れたりはしない。信じたいって気持ちはあるけれど、しっかり確かめないと心の楔は外れてくれない。
 歩はもう一度晴明に視線をやった。それは同時に意を決したということであり、彼女は晴明へと足を運ぶと話しかけた。
「晴明くん」
「ん?」
 外見は、幼く小さな少女。そんな歩が、悲しげな表情でかけてきた声を晴明は無視できなかった。
「晴明くんは、他の皆をきれいって思う?」
「……全員かどうかは知らないけど、きれいな人ばかりじゃないだろ」
 その返事は、概ね彼の潔癖症を良く表していた。歩はそんな彼に告げた。
「でも……人って、誰でも汚れてるところがあると思う」
 それは、あたしも。歩はそう付け加えた後、自分の考えを話した。
「あたしにとって、戦いは怖いし、色々なものがなくなっちゃう。だから、あたしは仲良くしようって色んなところで耳触りの良いこととかきれいごと言ってる。でも、あたしの言葉は誰かがあたしの代わりに戦ってくれてるから言えること。あたしにとって戦いは汚れ、でもその汚れを嫌でも引き受けてくれてる人がいて、その人はきっとあたしよりきれい」
 切々と紡がれていくその言葉は、晴明の中へするりと入っていく。彼女はさらに続けた。
「だから、汚れを避けるより、その汚れと向き合って、それを受け入れられる人は……きっと他の人の汚れた部分も受け入れられる。そういう人が本当にきれいな人なんじゃないかな?」
「そう、かもな……」
 ただ頷くしか出来ない晴明。汚れるきれいさがあるということを、彼は目の前の少女によって初めて知らされた。いや、本当は心のどこかで知っていたのかもしれないが、それを表に出させたのは紛れもなく歩の言葉だった。
「汚れと向きあって、受け入れる……」
 彼は今聞いたばかりの言葉を反芻した。そこに、紫月 唯斗(しづき・ゆいと)も話しかけてきた。
「なあ晴明。今まで他のヤツらが、色々お前に話したろ?」
 唯斗の言葉に、晴明が頷いた。
「だったらあとはもう、なるようにしかならないさ。お前らが望む形で決着をつけろよ」
 力強いその言葉は、晴明の背を押した。何人もの生徒たちが与えてくれた言葉は、晴明から躊躇を奪い決断する力を与えていた。
「どんな無理無茶無謀でも、まずは望み、決断し、行動することから始まるんだ。そうやって、みんな頑張って少しでも自分の望む結果になるようにしてるんだ」
「そう、かもしれないな」
「かもじゃないんだよ。晴明、もっとわがままに生きていこうぜ?」
 まだなにか――おそらく自分に対する謙虚さを覗かせた晴明に、唯斗は語気を強めて言った。彼は、その言葉通りの実直さで、晴明を信じている。もちろんその結果が悪く出たとしても、それが自分で決めたことである以上彼は後悔しないだろう。
「俺はお前を支持してやる。全力で手伝ってやる。だから、どうしたいか。何を、どんな未来を望むのか言ってみな?」
 唯斗の言葉に、晴明はゆっくりと声を発した。
「俺は……俺は、確かめたい。あいつらと俺はなんだったのか。話して、もっと知りたい」
 それはおそらくここに来て初めて晴明が告げた決意だった。唯斗はそれを聞いて、目を細めた。