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リアクション
(ジャファル?)
塔の扉が開かれたのを感じて、シャディヤは横になっていたディヴァン(寝椅子)から身を起こした。
壁に備えつけられた脚付チェストの上に置いてあったミニクッションに、ガラスの鍵が戻っている。思わず駆け寄って、幻などでない、本当にガラスの鍵だと確認して、ああと顔をおおった。
「また……来てしまったのね……」
これを使ったということは、彼女をここから連れ出しに来たということだ。まだ彼女を想ってくれているということ。
そのことを喜ぶ気持ちと、また今度も彼は失敗するに決まっているという暗澹たる気持ち、そしてこれを渡しさえしなければ、彼だけはこの無限ループから抜け出せるのだという迷いがあった。
けれど、分かっていた。自分はこれを渡すだろう。塔にやってきた彼をひと目見たいという誘惑にも勝てない、弱い自分。
また失敗する、彼を絶望に突き落としてしまうことになると分かっていながら……彼を失いたくないというわがままに、負けて。
「ごめんなさい……ジャファル。ごめんなさい……」
シャディヤは震える手でガラスの鍵を取ると、ぎゅっと胸に押しつけ、そのまま部屋を出て行った。
塔に入った一行は、その人一倍臆病な性質ゆえに探知能力に優れた褐色の肌の超人見知り少女禁書写本 河馬吸虎(きんしょしゃほん・かうますうとら)を先頭に歩いていた。
「…………っ……」
「ほら、いいからしゃんしゃん歩きなさい」
すぐ足を止めて振り返ってくる河馬吸虎に後ろからリカインがせっつく。いつもならとなりに並ぶか前を歩いてあげるのだが、それでは一向に河馬吸虎のびくびくおどおどしたところは治らないと気づいたのだ。ちょっとスパルタになってしまうが、これくらいから始めるべきだろう。いきなり人ごみのなかへ突き落とすよりはるかにマシだと河馬吸虎には思ってもらいたい。前方には人は1人も見えないのだから。
(後ろを振り返る方がよほど人の姿が目に入ると思うんだけどねえ)
河馬吸虎はリカインの服のすそを握ることもできず、しかも初めての場所で、どこに何があるとも知れなくて、まるでちょっと驚いただけでショック死してしまいそうな、生まれたてのヒナのような危うさでブルブル震えながら歩いていく。
「それにしても、ここは不思議な場所ですね」
周囲を見渡してエルデネスト・ヴァッサゴー(えるでねすと・う゛ぁっさごー)がつぶやく。
「私たちが入ったのは塔のはずです。せいぜいが直径100メートルがそこらしかなかったでしょう。ですがここは……貴族の邸宅です」
天井部からはクリスタル製の豪華なシャンデリアが釣り下がっていた。アラベスク調のモザイクで作られた壁、透かしの入った柱、黄金でできた彫像たち。床は足首までめり込んでしまいそうなふかふかの赤じゅうたんが敷かれており、これもまた、緻密なアラベスクとカリグラフィー模様となっている。
「稀代の魔術師が生み出した場所だ。常識で考えても意味はないだろう」
グラキエス・エンドロア(ぐらきえす・えんどろあ)が答えた。
「ええ、そうですが」
(これは、マッピングをしても無駄ですね)
魔法でつくられた空間が、いつまでもそのままの形状を維持しているかどうか分からない。魔術師の意のままに、いくらでもつくり変えられてしまう可能性がある。マップに頼ろうとすればそれを逆手にとって、罠にはめられてしまうかもしれなかった。
ハディーブという人物をエルデネストも見ていた。あれは狂気に染まっていたが、おろか者ではない。むしろ奸智に長けた老人だ。
今はそれよりグラキエスのことが気にかかった。声に少し覇気がなかった気がする。
マッピングするのはあきらめて、グラキエスを見た。すぐにグラキエスもエルデネストの視線に気づいて彼の方を向く。
「なんだ?」
「少し顔色が悪いようですが」
「ああ……昼の暑さの名残りだ」
グラキエスは少しばかりうとましげに言うと、何かを振り払うように頭を振る。
「今日は思った以上に暑かった。だが今は大丈夫だ。すぐ元に戻る」
グラキエスが暑さに弱いのは知っていた。夏休みの間、ほとんどの日で体調を崩してぐったりしていたのを見てきたからだ。
なるほど、とエルデネストはうなずく。
「ではここへ来ずとも、緑地の方で休んでおられた方がよかったのではないですか?」
「ああ、それは――」
と、そこまで口にして、エルデネストが思わせぶりに笑んでいることに気づき、グラキエスは顔をしかめる。
「何か言いたいようだな?」
「塔で救出を待つ姫君と、彼女に恋して彼女の王子になろうと必死の青年。彼らの力になりたいと思われたのですよね?」
「は?」今耳にした言葉に、グラキエスは本気で驚いていた。「退屈で仕方なかっただけだ。せっかくオアシスへ来たのに、暑さのせいでろくに泳ぐこともできなかったからな」
「それは残念。――少しはそう言うことを理解できるようになったかと思ったが。まったくしようのない」
「ん? 何か言ったか?」
「いえ、単なる独り言です」
内心で苦笑しつつも表面上は平常を装って、エルデネストは首をかしげるグラキエスの前をとおり過ぎて一歩先んじる。
「グラキエスさま、私からあまり離れないようお気をつけください」
「……分かった」
見るからにしぶしぶと、グラキエスは応じた。
そのとき、先頭を行っていた河馬吸虎が遠目にもあきらかなほどうろたえだした。
「どうした!」
「敵よ!」
振り返り、リカインが答える。彼女の肩越しに河馬吸虎ががくんがくん上下に振れる腕で廊下の奥を指さしているのが見えた。
どこにこれだけ隠れていたのか。そこからぞろぞろと、廊下を埋め尽くさんばかりのアンデッドが現れる。
皆一様にぼろぎぬをまとい、はだしで、吐き気をもよおす甘ったるい腐臭を放ち、白くまるまると太ったウジを穴だらけの体じゅうに湧かせている。
今まで歩いてきた豪華絢爛な場とは相反する、全く対極にいる者たちだ。
そう考えた瞬間、フッと周囲がかき消えた。
「主! これは……!」
それまで黙して後ろを歩いていたアウレウス・アルゲンテウス(あうれうす・あるげんてうす)がうろたえるような声を発した。
「落ち着け、足元に床がある。幻覚だ。……先までが幻覚か、これが幻覚かは分からないが」
グラキエスはすでにスカーとアーテルを呼び出していた。
エルデネストもまた、グラキエスの守りとしてフラワシを送っている。そして壁があった場所へ手を伸ばしてみた。――壁らしき触感はある。ならばとサイコメトリを用いると、いつの時代かまでは分からないが過去の映像が見えた。
「正面、彼らの後ろに上へ通じる階段があります」
「よし」グラキエスはうなずき、周囲のほかの者たちへ声を張った。「みんな、中央突破だ! 俺たちが援護するから駆け抜けろ!」
ざわめきが起きた。
彼らだけを残していっていいものか、それは見捨てることになりはしないかというためらいが伝わってくる。
「グラキエスくん、でも!」
「いいから行け!」
リカインが何か言おうとした先をさえぎって、グラキエスはさらに言った。
「時間がない! いちいち全員でかかっていては、到底時間内にたどり着けないぞ!!」
そして彼らを促す意味も込めて、アーテルを放った。
紫の瞳を持つ美しい漆黒のフェニックスは黒羽根を散らしながら彼らの頭上を越えていき、アンデッドに体当たりや爪による切り裂きなど、果敢に攻撃を仕掛ける。
それを見て、リカインは決意した。
「河馬! あなたは私の後ろにいなさい!」
言われなくてもそうするとばかりに、河馬吸虎はすでにリカインの背後に回り、ぴったり背中に両手をくっつけていた。それを確認すると、ワールドぱにっくを放ってアンデッドの混乱をさらに促す。そして
「みんな、行くわよ!」
と、率先して走り出した。
「アウレウス、彼らの護衛を」
グラキエスからの言葉にアウレウスは躊躇する。グラキエスは主君だ。その命令は絶対。しかし大群の敵を前にして、体調の思わしくない主君のそばを離れてよいものか……。
「彼らが無事抜けたらすぐ戻ってこい」
「――ははっ」
アウレウスは一礼し、ダッシュローラーを用いて先頭に追いついた。
「我に続け!! ――うおおおおっ!!」
咆哮を発し、スピアドラゴンによるシーリングランス、一騎当千で階段までの道を切り開いていく。
廊下の端の方にいるアンデッドは中央突破を図る人間たちよりも、動かずその場にとどまっているグラキエスやエルデネストを標的に決めたらしい。距離を詰めてくる彼らに向かい、グラキエスはブリザードを放つ。氷結の嵐に閉じ込められたアンデッドは、嵐が去ったあと、ツララを垂らした氷像のように凍りついていた。それをスカーが再生不可能なまでに砕いていく。
グラキエスは決して率先して前には出なかった。自分の体調不良は自分がよく知っている。だから後方からの魔法援護をエルデネストに、前衛をアウレウスに任せ、自身は彼らを超えてくるアンデッドをスカー、アーテルとともに倒していく。
そうして彼らはアンデッドの大群を確実に撃砕していったのだった。