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そして春が来て、君は?

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そして春が来て、君は?

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 ――一方、タシガンでは。

「では、これで全部か」
「そうだね」
「ふむ、では書類は我が届ける。のんびりするといい」
 ブルーズ・アッシュワース(ぶるーず・あっしゅわーす)はブリーフケースを黒崎 天音(くろさき・あまね)から受け取り、そう言った。
 書類の中身は、真珠舎の聴講生制度関係の書類だ。聴講生が本来所属する学校で単位をきちんと取得できるよう、各学校への報告書に関してなども含まれている。その他に、こちらは資料の一部としてだが、学校制服についてまとめたものも添付されていた。
「よろしく頼んだよ」
 ブルーズは頷き、天音の部屋を出て行く。廊下に出ると、鬼院 尋人(きいん・ひろと)が立っていた。差し入れらしき袋を手にさげて、おそらく天音に会いに来たのだろう。
「天音なら、中だぞ」
 口の端を微かにあげ、ブルーズは優しく尋人へと声をかける。すると、尋人は不意に腕を伸ばし、ぎゅっとブルーズへと抱きついた。
 長身の尋人に対して、ブルーズはほとんど抱えられるような状態になってしまうが、むしろ包み込むような優しさでもって、ブルーズの手は尋人の背中をぽんぽんと軽く叩いてやった。
「出掛ける間、頼むぞ。……では、行ってくる」
 ブルーズはそう言い残すと、その場を立ち去る。
 残された尋人は、軽くノックをして、天音の部屋へと入れ替わりに足を踏み入れた。
 尋人の姿に、天音は予測済みだったように微笑んで迎える。
「少し散らかってるけど、紅茶でも淹れるからちょっと待ってて」
 たしかに、先ほどまでまとめていた書類の関係のものやメモがあちこちに散らばっている。それらを拾い上げ、机の上に天音は片付けていく。シャツにスラックス、裸足というラフな格好のまま、ときおり艶のある黒髪をかきあげる仕草が、妙に艶めかしくもある。
「ありがとう、黒崎。……あ、これ。差し入れ」
 尋人が持って来たのは、クッキーと、アロマキャンドルだった。柑橘系のレモングラスや、グレープフルーツ、シトラスといったものだ。
「香りでリラックスできるといいかなと思って」
 柔らかな色合いのキャンドルを受け取り、天音は「ありがとう」と、銀のキャンドルホルダーにそれらをセットする。火を点けると、微かに爽やかな香りが薄い煙とともに立ち上り、ほんのりと漂った。
「……いい香りだね」
 深く息を吸い込み、天音は呟く。作業で鋭くなっていた神経が、穏やかに凪いでいくようだった。
 そのまま、天音はキッチンへと向かい、紅茶用に湯を沸かす。その後を、ヒナのようにちょこちょこと尋人はついて来た。視界に常に天音をいれていたい様子だ。すっかり背も伸びたというのに、こういうところは相変わらず可愛い。天音は端正な口元を緩めて振り返ると、尋人の顎をついと指先ですくい、あやすみたいなキスをする。
「……ん」
 甘く柔らかな唇を啄み、そのまま、お湯が沸くまでのあいだ、天音はそっと尋人の胸に背中を預けていた。
 伝わってくる体温が、暖かい。言葉はなくとも、寄り添うだけでも、満たされるものはある。
 やがてお湯が沸き、暖めた薔薇のティーポットに茶葉を入れ、ティーコジーをかぶせる。トレーに乗せた砂時計と、同じく暖めておいたカップは尋人に任せた。
「テーブルに運んでおいて」
「わかった」
 目があい、それを合図のように、もう一度キスをする。
 ソファに並んで腰掛け、尋人の持って来たクッキーとともに、しばし紅茶を楽しむ。
 穏やかな、……とても、穏やかな時が流れていた。
 けれども、その間にも、ふとした瞬間、尋人がひどく心細い目をすることに天音は気づいていた。
 それは、おそらく……。
「ねぇ」
「なに?」
 わざと少し距離をおき、軽く天音は自分の膝をたたく。膝枕をしてあげる、という甘い誘いだ。
「…………」
 嬉しそうに、でもどこか切なげに、尋人はその膝に甘えることにした。視界が変わり、そして、天音を見上げる。眩しいみたいに、目を細めて。どこかそれは、泣きだしそうにも見える。
「ウゲンやレモ達のこと、考えているのかい?」
 前髪を指ですいて、毛先を弄りながら、問うこともなしに呟く。
「…………」
 尋人は、答えなかった。
 いや、答えられなかった。
 ――元々、あまり家族の愛情だとか、誰かを大事にすることを知らなかった。
 そして、大事だと思った人は、居なくなったりもした。
 ウゲンは、もう薔薇の学舎に戻ってくることはないのかもしれない。ずっと希望は捨てずにいたけれども、さすがに尋人もそう、思い始めている。
 あの日、馬上で過ごした思い出も笑顔も、まだ尋人は忘れては居ないのに。
 それと同時に、あのウゲンすら敵わない相手がいるということも、衝撃だった。
 この先なにがあるのか。
 漠然とした不安は、形がないが故に掴むこともできず、深く暗く、尋人の胸の奥に巣くっている。
 信じるものを守り抜きたい。そういつも願っている。けれども、本当に、守れるのだろうか? タシガンを、この学校を、……彼を、守りたいのに。
 自分はこんなにも、小さく無力だ。
 そんな想いを、明確に言葉では説明できなくて、かわりに尋人はすがりつくように黒崎の腰に腕をまわし、強く抱き締めた。
 なにもかもがはっきりしない中で、たったひとつ、今腕の中の人と、彼への想いだけが確かで。大切だから。
「黒崎……」
 尋人が顔をあげる。近づいた距離に、尋人の求めを察して、天音はそっと背中を丸めた。
 重なった唇が、どちらともなく薄く開かれ、やがて深いものへと変わっていく。
 そこに『ある』ことを、確かめるように。




 喫茶室『彩々』では、エドゥアルト・ヒルデブラント(えどぅあると・ひるでぶらんと)千返 かつみ(ちがえ・かつみ)がテラスでお茶を飲んでいた。
 今の季節、店は春の趣向に溢れている。萌葱と黄の色目や、淡い紅に白といった組み合わせの茶器やテーブルクロスが、爽やかに明るい。また、いよいよ花も盛りと溢れ、テラスにこうして座っているだけでも、華やかな気持ちになる。
 来てよかったな、とかつみは素直に思った。
 ここ数日、ふさぎ込みがちだったかつみを、ここへと誘い出したのはエドゥアルトだ。「色々考えるのもいいけど、目の前のきれいな花とか、おいしいお茶とか、楽しまないともったいないよ」
 タシガンコーヒーを口にして、穏やかにエドゥアルトは微笑む。
「まぁ、……そうだな」
 実際、サンドイッチは美味いし、花は綺麗だ。今日はタシガンにしては天気もよくて、ほっとするような青空だった。
「よぉ、かつみ。エドゥアルトも一緒か」
 友人の姿を見つけ、嬉しげに声をかけてきたのは、カールハインツ・ベッケンバウワー(かーるはいんつ・べっけんばうわー)だった。
「ここ、いいか?」
「いいけど。カールハインツは、一人?」
「カルマは清家と学校見学してる。レモは、用事があるとかで出かけた」
「そうなんだ」
 それで、どうやら一人で暇だったらしい。つくづくと、カールハインツはクールに見えて、案外人なつこいタチだ。
 そういえば。そうふと思い、かつみは口を開く。
「カールハインツは、将来のこととか考えてる?」
「は?」
 カールハインツが、一瞬あっけにとられたように瞬きする。
「や、なんかここのところ、色々考えててさ……」
 ここに来て若干気が晴れたものの、問題が解決したわけでは当然ない。再びため息をついたかつみに、エドゥアルトが気遣わしげな視線をむける。
「将来……なぁ」
 頬杖をつき、カールハインツの眉根がよる。
「まぁ確かに、色々考える時期だよな。レモもなんか、考え込んでるみたいだったぜ」
「レモも、そうなのか。あ、そういや、ここってレモたちが主導で作ったって聞いたけど?」
「ああ、そうだぜ。っていっても、生徒みんなで協力してって感じだけど。かつみはその頃いなかったんだっけな」
「うん。最初は、えらい立派な喫茶室なんだなって驚いた。まぁ、ここは建物全部そんな感じだけど」
 ジェイダスの趣味と財力がふんだんに盛り込まれている以上、貧相であるはずもない。最初にここに来たときの衝撃を思い出し、かつみは苦笑した。
「タシガンはそれほど四季の変化がないから、その分ここでは感じられるようにっていうコンセプトだったっけな。それまでも喫茶室はあったんだけど、俺は今のほうが好きだぜ」
「ああ、そういう理由だったんだね」
 エドゥアルトが納得する。四季にあわせて茶器を変え、装飾を模様替えすることには気づいていたが、なるほど得心がいった感じだ。
「……そっか」
 かつみは、ふと気づく。
 目の前に当たり前のようにあるものは、それでもほとんどが、人の手によって作られたり、整えられたものだ。そこにはなにかしらの意味や想いが、必ず存在している。
 喩えるなら、遺跡の構造そのものにも興味はあるが、それが当時の人が何を思って作ったのか、どんな意味を込めているのか。そして、今の人がどうその遺跡と共存しているのか。自分が知りたいのは、そういうことだ。
 そんな風に、人の思いと関わっていきたいって、ことなのだろうか。
 ……こんなこと、去年の今頃は考えもしなかったけれども。
「どうかしたか?」
「あ……いや。なんか、少し、わかった気がして」
「そう」
 よかった、とエドゥアルトが穏やかに微笑む。その笑顔に、かつみは思う。自分が変われたのは、彼らのおかげだ、と。
「……エドゥは、将来のこととか考えてる?」
「私の将来について?」
「うん」
 エドゥアルトは大切なパートナーだが、考えてみると、改めて希望を聞いたことはなかった。かつみは、じっとエドゥアルトを見つめる。
「遠くの将来については考えてないけど、ここ百年については決めてるよ。『ここにいる』って」
 エドゥアルトは迷いなく、シンプルな決意を口にする。
「かつみやナオが色々変わるのなら、私は、いつ帰ってきても、かわらず迎えてやれる場所でいたいんだ。だから、何かしたいと思うことがあれば、私たちに気を使わず自由にやっていいからね。もちろん、行きたいと思えばついていくし」
「そっか。……ありがとう」
 心強い言葉に、かつみも目を細め、嬉しそうに笑った。
 ただ。
「ここにいる、か……」
 カールハインツは、やや意味ありげに呟き、視線を落とした。