リアクション
第6章 バァルとエリヤ
「遅れてすまない。勝手を言うようだが、今日中に着けるよう急いでくれ」
御者と護衛兵たちにそう言い置いて、階段下に横付けされた馬車に乗り込もうとしたバァルは、そこではたと動きを止めた。
中に先客がいる。
緋桜 遙遠(ひざくら・ようえん)とゴットリープ・フリンガー(ごっとりーぷ・ふりんがー)と天津 幻舟(あまつ・げんしゅう)だ。
…………もうここまでくると、問う気にもなれない。どうせセテカの手引きに決まっている。
「きみたちもか」
それにしても、なぜこの者はわたしの甲冑を着けているのだろう? そう思いつつ、遙遠の前の空いた席に腰掛けた。
「行ってくれ」
トン、と御者側の壁を叩く。動き出した馬車の中、あらためて3人を見た。
「ご無礼をして、申し訳ありません」
バァルの視線を受けて、ゴットリープがかしこまる。
「僕はゴットリープ・フリンガー、こちらは天津 幻舟、ともにシャンバラ教導団に所属しています。面識もないのに、いきなりこんな、押しかけてしまって…」
「いや、かまわない。きみたちのことはセテカから聞いて、知っている。きみの名前も書状に何度か出てきていた」
「そうですか…」
少しだけほっとしたものの、次の瞬間。
「それで? わたしに何か話があってこうしているのだろう?」
「あ、はい。そうです」
ゴットリープは再び緊張に喉がふさがってしまった。
脳裏に、あのアバドンとの対峙がよみがえる。いや、よみがえるというよりも、焼きついて離れない映像と化している。もうあれから3カ月も経つというのに一向に薄れてくれない。
アバドンの隊を襲撃した、あの台地で。アバドンは彼らを己に驕った盲目の愚か者と呼んだ…。
『あなたたちはどうなのです? いきなり現れ、他国の者でありながらこの国に干渉しようとする、その傲慢さは。何をもって、あなた方は自身を正義とみなすのですか?
己に驕った、盲目の愚か者たち。そちらの方こそ、カナンの争いに首を突っ込むのではなく、自国、いえご自分の学校の出世争いでもやっていなさい!』
耳に生々しいアバドンの声に、ぎゅっと目をつぶる。膝の上のこぶしが震えた。
忘れられないのは、アバドンの言葉に少なからず真実があるからだ。全部ではないにせよ。……全部ではない、だろう?
真実を織り込まれたうそは、真贋の見極めがとても難しい。
「あの、これは、とても失礼にあたる質問かもしれないのですが……バァルさま以外には答えをお持ちの方がいらっしゃるとは思えないので……できれば、お答えをいただきたいのですが…。
一体、ネルガルの考えの何がカナンの人々、特に神官たちをあんなに惹きつけているんでしょうか?」
「――なぜそんなことを?」
「だって、国家神がいない国なんて、パラミタには存在しないでしょう?
少し前までのシャンバラはそうだったけど、国家神がいないせいで人々はずっと苦しみの中にありました。神官たちはカナンをそんなふうにしてまで、一体何を求めているんでしょうか?」
バァルは身をひき、背もたれに背を預けると窓の外に視線を流した。
降砂の混じった大気はうすぼんやりと濁り、遠くの風景を黄色くぼやかせている。やがてはこの東カナンも、西や南のように何もかもが砂に埋もれていくのだろう。――そうなる前に決着をつけるつもりではいるが、楽観はできなかった。西や南の軍が、軍としてほぼ機能していない今の状態では特に。
昔から、ネルガルは決して愚かな男ではなかった。むしろその並外れた英知で、神官や民から尊崇の念を集める男だった。そのネルガルのすることだからと、盲目的に従っている者は少なくないに違いない。神聖都の砦の兵士が言っていたという『人による人のための統治』という理想世界に目をくらまされ、期待を寄せている者もいるだろう。
しかし。
砂の降るカナン……今のこのカナンに、彼らは何を見ているのか?
「……きみの言う通りだ。国家神がいなければ、国家として認められない。それはネルガルも承知している。だからあの男も女神様を殺めようとはせず石版への封印に留め、自らは征服王などと名のったのだろう」
でなければ、カナンはとうに滅んでいたかもしれない。
「ネルガルや神官が民にしていること……それがやつの求めるもの、神官を惹きつけるものなのかもしれないな」
「民を虐げることがですか? 無力な人々を殺戮することが神官たちの求めるものだと?」
「ゴットリープ」
そんなばかな、と声を荒げるゴットリープを、幻舟が諌めた。
バァルに言っても仕方のないことだ。それを良とする者であれば、今ここにはいない。
「……すみません」
「いや。きみの言うとおりだ。わたしにもネルガルに盲目的に従う彼らの行為は不可解に見える。まるで、あえて苦行の中に身を置きたがる修行僧のようだと…。ただ、彼らの中には、己の意思に沿わずともそうしている者も多数いる。
貴婦人の間にある石像の話は聞いたか?」
「はい。潜入した者たちから聞いています」
「きみは見ただろう。あの広間を埋め尽くすほどの石像を」
バァルの言葉に、遙遠は頷いた。
まるでパーティーの途中で石化されたような人々。その中に、エリヤもいた。
「ネルガルの説得に応じなかった有力者たちは、ああして人質をとられ、従わされている。ネルガルに与している全員が自らの意思で彼に忠誠を誓っているとは思わないことだ」
自分のように。そして、主君からの命令に従った正規軍のように。
彼は、そう言いたいのだろう。
「でも……それだと僕らは……戦えなくなってしまいます…」
目の前で剣をふるっているこの人は、本当はこちら側の人間なのではないだろうか? そんなことを戦場でいちいち考えてはいられない。
「そんなことは考えなくていい。戦場に身を置く以上、彼らも覚悟は決めているはずだ。ただ、そうなのだと理解していてやればいい」
「――あー、うっとうしい!!」
目の前、子犬のようにしゅんとなってすっかり俯いてしまったゴットリープに、幻舟が頭を掻きむしった。
ガタゴト揺れる馬車の中、すっくと立ち上がって踏ん張る。
「それっくらいでいちいち落ち込むな! だからおまえはまだまだなんじゃっ。今までも「絶対悪」なんて存在と戦ってきたか!? そんなやつばっかりではなかったじゃろう! 目の前に敵として現れるなら倒せ! 私らは女神イナンナの側についた! 相手にどんな背景があろうとも、それは女神イナンナの復活を阻止する敵なのじゃ! 相手に変な遠慮をして、そのせいで負けたりすればそれこそ本末転倒じゃぞ、ばかめ!」
「は、はいっ」
「まったく、変なところで腹の据わらんやつめ…」よっこいしょ、とバァルの横に戻る。「どうしてもそれが嫌というなら、そうならない戦い方をすればよいだけのことじゃ。ネルガルの首を真っ先に狙うとかの」
私はあの女の首でもよいぞ、と前回もう少しというところでしてやられたことを思い出して腕を組む。
「そう……ですよね。ありがとう、幻舟」
「ふん」
(面白い関係だな)
まるで祖母と孫のような2人だと、横から眺めつつ思う。その視界に、ふと足を組みかえた遙遠の姿が入った。
窓から外の景色に見入っている彼のまとっている物は、やっぱりどう見ても自分の甲冑だった。さすがに軍帥の位を表す藍の腕章はないが――あったらセテカは軍裁判ものだ――そういえば3カ月前、甲冑は回収したんだろうか? ……彼が着ているということは、していなかったのだろう。セテカのやつめ。
(まぁ、予備がいくつかあるはずだからいいか)
もともと好きな物でもないし。
アッサリそう結論して、バァルはこの件に関して突っ込むのをやめた。あとで侍従長には話して、セテカをこってり絞ってもらおうとは思ったが。
『背格好が似ていたので彼におまえの役をやってもらったんだが、よく似ていた。髪や目の色、身長、体格もそうだが、雰囲気的なところが。だからぴったりだと思ったんだ。後ろからだと、案外将軍たちの中でも間違える者が何人か出るだろうな』
全てが終わったあと。報告をする際、セテカがそう言っていたのを思い出した。
こうして見ると、たしかに似ている気はする。縁者と言っても通りそうな――――
「――てもらえませんか?」
「え?」
「聞かせてもらえませんか? この2カ月のことを」
いつの間にか、遙遠は正面を向いていた。
横から差し込む光を受け、真青の瞳が冴えた光を弾いている。
「エリヤ君はどうだったんでしょうか?」
その名に、一瞬でバァルが凍りついたのがゴットリープや幻舟にも分かった。
バァルにも、彼らに気づかれたことが分かった。
薄い笑みが口元に浮かぶ。
「――ほとんどの時間を一緒に過ごした、と言いたいけれど、あの子がそれを許してくれなかった。以前は、所用ができて数日城を留守にすると言っただけでふくれてさびしがった子が。痛みに苦しむ姿や、これ以上衰えていく姿を見せたくないと言い張ってね…」
それを、強引に説き伏せることはいくらもできただろう。そんなことは関係ないと。ずっとそばにいたいのだと。
だがそれすらも自分のわがままでしかないのだと、思った。本人が嫌がっていることを強引に押しつける権利が、自分にあるだろうか? つらいのは自分ではないのに。
『賢い子だ。あの子は、自分が苦しむことでおまえも苦しむのを知っているんだ。そして、自分がいなくなることに、早く慣れてほしいとも思っている……言葉にはしないが』
苦しむのは、いつだって残される者。
死んでいく者は、もう何も感じなくなるのに…。
「あの子の具合がいいときだけ……あの子が望む間だけ、一緒に過ごした。1日数時間……それが数日に数分になって…。本当に2人だけで一緒に過ごせたのは、最後の3日間だけだ」
なぜなら、昏睡状態に陥って、もうエリヤにはそばにいるのがバァルだということすら分からなかったから。
「あの子は、一度も目を覚ますことはなかったよ。眠るように逝った」
(――エリヤ、ですよ。バァルさん)
だれとも視線を合わせることを避けるように壁に頭をもたせかけ、窓から空を眺めているバァルを見ながら、遙遠は心の中でそっとつぶやいた。
彼が一度もその名を口にしていないことに気づいていた。まだほかにも、口に出せない何かがあることも。
けれど声に出しては言えない。まだ心の傷が深すぎる。これ以上彼を動揺させるのは慎むべきだろう。今はまだ。
10代で両親を一度に失い、その両親から託された弟も失った。唯一の延命方法だった再石化――それは悲しいほど絶望的な願いだったが――それを拒んだネルガルに怒りを燃やしている今はまだいい。だがそれが果たされたとき、彼の中には何が残っているのだろう? この戦いが終わったあと、彼の中にその巨大な穴を埋めるに足るもの――救い――が、生まれているだろうか?
自分たちが、少なからずその穴を埋める存在になれたらいいのに…。
(そう思っている者はあなたの周りにたくさんいるんです。気づいてください、バァルさん)
遙遠は祈る思いで彼の前に座り続けた。
* * *
東カナン・リドの町――
そのころ。
トライブ・ロックスター(とらいぶ・ろっくすたー)は先回りでいち早くリドの町に向かい、ナハル・ハダドの館に忍び込んでいた。
お目当てはもちろんバァルの婚約者
アナト=ユテ・アーンセトだ。
バァルが結婚するというのを掲示板で読んで、ピコーンとアラームが鳴ったのだ。これはもう、ぜひ会ってたしかめるべきだと。
(バァルには家族が必要だ。いいじゃんいいじゃん政略結婚。心に決めた人がいるならまだしも、あのバァルにそんなのいるわけないし。出会い方は人それぞれ。それこそBQBのすんげー美女でさ! あの融通のきかなそーな堅物バァルを骨抜きのメロメロにしちまえば、頑なな心も少しは柔らかくなるってもんさ)
そんなこんなを考えながら、ピッキングを使用し、壁に張りつき、物陰に隠れ、某ス〇ークばりの潜入術で時には持参したダンボールも駆使し(――通用したのか?)、リネン室で使用人の服を物色して変装した。
領主が訪問するということで館中てんやわんや状態なのが幸いして、新顔の使用人を不審に思う者はいなかった。というか、ほかの町の館からも応援が呼ばれていたため、勝手に向こうが勘違いをしてくれた。
「アナト様は?」
「まだ帰られていないわ。今日は朝からずっと奥さまに引っ張り回されて、磨き上げられているわ」
「ああ。じゃあ今のうちにアナト様のお部屋にこれ置いてきちゃうかしら」
と、重そうな花瓶を持ち上げワゴンに乗せた。
色彩の強い、南国のような花と葉が豪勢に盛られている。
「うわー、すごいぜいたくー」
「領主様御訪問なんて、いよいよですもの。そりゃあご主人さまも奥さまも張り切るわよ。なんたって、この縁談がまとまらなかったらもう――」
「しっ。聞かれちゃうわよ」
口元に指を立てたメイドが、こそっと廊下の向こう側を歩くトライブを振り返った。
トライブは何も聞こえなかったと言うように、にっこり笑って通りすぎる。
またペチャクチャとおしゃべりを始めたメイドたちを横目に、トライブは押していたワゴンを通りがかりの少年に押しつけると、アナトの居室があるという南翼の棟へ向かうメイドのあとをつけた。
花瓶を置いて部屋を出たメイドをやり過ごし、すすす……と部屋にすべり込む。
テーブルの上に銀の茶器セット。中には温かなお湯が入っている。
「ということは、だ。もうじき帰ってくるということで」
いいこと思いついたとばかりに笑みを浮かべるトライブだったが、しかし残念ながら、他人から見ればそれはどう見ても悪ノリのニヤリでしかなかった。
はたしてアナトが、自室へ戻ってきたとき。
「やぁやぁお姫様。退屈しのぎに、お茶とお菓子と小粋なトークはいかがかな?」
トライブはすっかり準備の整ったテーブルの横で、にこやかにポットを持ち上げお茶を入れていた。
彼にしてみればこれは大サービス、至れり尽くせりの申し分ない歓迎なのだが、アナトからすれば、見知らぬ使用人が図々しい態度で自分の部屋にいるわけで。
「今、おいしいお茶が入るから待っててね〜」
と背中を向けたらば。
「あなた、何者?」
抜き身のレイピアが、ぴたりとトライブのうなじに突きつけられた。
「……えーと」
まさかこうくるとは。
「まず、お茶置いていいデスカ? あと、振り返っても?」
「いいわ」
許可が得られたことで、ポットとお茶の入ったカップをテーブルに下ろした。それからゆっくりと振り返る。
レイピアを持つ手の先にいたのは――
(……たか)
この年ごろの標準身長よりかなり長身の女性だった。
(175……180近いかも)
つまりトライブより20センチ近く高い。ちら、と足元を伺うが、ブーツヒールはせいぜい3センチといったところか。バァルは188センチなので、10〜12センチ程度の身長差だ。
(だが、美女だ)
それもかなりの。――胸があんまり大きくないのが、まぁ残念といえば残念だが、小ぶりというほどでもない。スレンダーな体で釣り合いがとれている。
「俺は、ただの使用人です。フェスの町から呼ばれて――」
と、使用人の会話で小耳に挟んだ無難な答えを返そうとしたのだが。
「うそをつきなさい! この部屋に男性の使用人は決して入らないわ。未婚女性の部屋に入ることがどういうことか、知らない使用人がいるものですか!」
厳しく断じられ、トライブは観念するしかなかった。そのへんのカナンの作法は全く知らない。
ふうと息をつき、片手でレイピアの先をそらした。
「俺は通りすがりの便利屋さん……とか言っても信じてもらえないんだろうなぁ」
「あたりまえよ。さあ、本当の正体を名のりなさい」
美女の追及は容赦なく厳しい。
「俺はシャンバラ人です」
「シャンバラ人…?」
アナトの声が格段にひそまった。あきらかに知っている顔だ。
「セテカ・タイフォンの起こした反乱に味方をした、あのシャンバラ人?」
「あー、まぁ、そうです。でも俺は、
バァルの味方でしたけどね」
堂々ホラ吹いた!
「バァル様の?」
「それはもちろん。だって病気のエリヤが人質だったんですから、彼がネルガルについたのは仕方のないことです」
多分方向的にこれで間違いないはず、とアナトの様子を伺いながら、近しい者しか知り得ない内情をチラリと混ぜて先の発言の補強を図る。
「…………」
アナトは少し考え込んでいるふうな表情をして、レイピアをしまった。
「その話、もう少し聞かせてもらえるのかしら? シャンバラ人さん」
「俺の名前はトライブ・ロックスターです。
それから、もちろん。でもその前に、お茶とお菓子をどうぞ」
うさんくさそうに彼を見る表情はそのままに、アナトは言われるまま席につく。まめまめしく給仕をしながらトライブは前回までの出来事をかなり大袈裟に、さらにドラマチックに脚色しつつ、あることないこと吹き込んだ。涙なしでは語れない波乱万丈の人間ドラマとコミカルタッチで進んでいくほんわかコメディを混ぜ合わせ、あまり暗く重くならないよう話を進めていく。
「まぁ、そんなことが」
クスクス笑ったアナトを見て、トライブは内心ガッツポーズをとった。笑うと美人なだけじゃなく、かわいい。
(いいなぁ。バァルのやつ、うまく当たりクジ引いたかもなぁ)
「それで、お姫さん。お姫さんは、そんなバァルと今度の結婚について、どう思っているんだい?」
「――わたしは…」
途端、それまで笑顔だったアナトの表情が曇る。バァルによく似た青灰色の瞳でトライブを見返すと、彼女はゆっくりと話し始めた。