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 第36章 微笑の理由

 八神 誠一(やがみ・せいいち)は、空京の裏通りを歩いていた。裏といっても、ビルの隙間に出来た寂れた細い道ではなく、賑やかな表通りとは違い、落ち着いた雰囲気の漂う、人々の生活の気配をほのかに感じるようなそんな通りだ。
 ――菫さんが、空京に来る、か……。
 八神家の女中である樋浦 菫が空京に来ると聞いて、顔くらい出しておこうと思ったのだ。菫は、誠一が本家にいた頃に世話になった女性で、今年27歳になる。
 到着したのは、ひっそりと営業を続けている和風の店だ。木枠に硝子が嵌め込まれた入口を開けると、こじんまりとした店の内観が目に入る。対面式になったそれぞれの席には仕切りがあり、小さな暖簾が掛かっている。そこに誰が居るのか、気にして覗いてみないと客の姿を見ることは出来ない。
 店員に名を告げて案内された個室には、長い黒髪の女性が座っていた。彼女は背後の畳に刀を2本置いていた。更に左手薬指に嵌っている指輪に気付き、誠一は言う。
「ご結婚、なされたんですね。おめでとうございます」
「ありがとう。今は八神と名乗っているわ」
「……そうですか」
 表向き、誠一の表情が変わることはない。久しぶりに会った彼女は、名を八神 菫と変えていた。彼の周囲に八神の姓を名乗る者は複数名いるが、菫の相手が誰であるのか、それは聞かなくても想像がつく。
「これを誠一君に返そうと思ったのよ」
 注文した緑茶が届いてから、菫は1本の刀を誠一に手渡した。布に包まれていない方の刀である。鞘を抜くと、その刀身は半ばで折れていた。小さく、皹が入っている。
「……華霞、まだ、廃棄されてなかったんですね……」
 それは、今は亡き八神家筆頭剣士、弦斎が使っていた刀だった。弦斎は誠一と、姉弟子である清津流の師匠であった男だ。その中で未だ命を繋いでいるのは誠一1人だが――
「弦斎先生の形見を、捨てたりなんかできないわ」
 菫は彼の言葉に、柔らかな口調でそう返す。華霞を暫く見詰めていた誠一は、再びそれを鞘に入れた。
「せっかくの御厚意、ありがたく、納めさせて頂きます」
 丁寧な所作で脇に置いたのを見届けてから、菫はもう1本の刀も彼に差し出した。
「後、これを受け取って欲しいの」
 包んでいた布を開くと、それは良くも悪くも、彼が良く知っている刀だった。
「これは……あいつの使っていた冬霞……。なぜ、これを俺に?」
「…………。……死ぬ前に清津流ちゃんがね、もし自分が死んだら、これを誠一くんに渡して、って言ってたの」
「…………」
 誠一は“あの夜”の事を思い出す。家督争いが表面化したあの死闘の日。仮面を被った正体不明の刺客との戦いと、その結末を。
「あいつが、清津流が何を考えてたのか、俺には未だにわかりません。なぜ、正体を隠してまで俺と戦う事を望み、殺した俺に向かって、ああも安らかに微笑む事ができたのか、まだ、分からないんです……」
 刀を持つ手に力が入る。何年経っても何十年経っても、生きている限りあの夜を忘れることはないだろう。残り続けている衝撃が、清津流の最期の言葉を聞いた時の痛みが、誠一の表情に顕れる。
 どこかおっとりとした、菫の声が聞こえてくる。
「例え命懸けになっても、誠一君の強さが知りたかったそうよ。きっと、好きな人が自分より強くなっていたのが嬉しかったのよ」
『強さを知りたかった』――本人が言ったのなら、それは真実なのだろう。だが真実の一端なのか全てなのか、それを判断する事は本来、誰にもできない。
 誠一も菫も、彼女ではないから。
 しかし、誠一にはその一言が、清津流の本心のほぼ全てだったのだろうと察することができた。直感のようなものだろうか。
 理解し、飲み込むにはまだ時が必要だろうが――
「わかり……ました。ありがたく、この刀を頂戴いたします」
 葛藤した後、彼は冬霞もまた、引き取った。2本の刀を手に、立ち上がる。
「俺はもう行きます。……菫さん、お元気で」

「会わなくて良かったんですか、あなた」
 誠一が去ってから数十秒の後、菫は静かに個室を出た。向かったのは、精算所ではなく店の更に奥。個室の1つに顔を見せ、痩身の男――八神 雄真に声を掛ける。雄真は腕を組んで鋭い目で前を睨みすえながら、菫に応えた。
「表面上はともかく、俺と奴が相容れることはあるまい」
 それを聞き、菫は目を軽く伏せ、微笑みだけを残して個室から辞した。外に出てから、冷たい風の中で1人呟く。
「……本当に、業の深い一族。あの2人も、別のどこかで出会ってたら、幸せになれたんでしょうね……」

 誠一が雄真の下を訪れたのは、それから間もなくのことだった。否、訪れたというのは語弊があるかもしれない。個室の外で柱に背を預けながら、雄真の顔を見ずに口を開く。
「やはり来ていたか」
「……気付いていたか」
 静かで怜悧な声が耳に届く。確かな重みのある声も、誠一には大して意味がない。受け止める気がないからだ。
「鈍ってはいないようだな。結構な事だ」
 雄真はそう続け、淡々とした口調で言う。
「弦斎や清津流、そしてお前、その他にも一流と呼べるもののほとんどが、あの夜に死んだ。生き残った者の大半は弱すぎて話にもならん」
 冬霞に目を落とし、握り直す。それから、気付いていたかという問いに誠一は答えた。
「冬霞は、宝刀にも等しい一振り。それを、あの人の一存で持ち出せるわけが無い。考えられるとしたら、貴様だけだ」
「…………」
 雄真は否定も肯定もしない。それは、実質的に肯定を示していた。自分が、冬霞を菫に渡したと告白したようなものだ。
「何故だ? 俺を懐柔しようとでも思ったか?」
「……それが出来れば良いが、そうもいくまい。使わん刀を飾っておく趣味はない、それだけの事だ」
 2人の間に沈黙が流れる。先に口を開いたのは、誠一の方だった。
「……いいだろう、そういう事にしておいてやる」
「所詮折れた刀、お前には似合いだろう?」
「うるせぇよ」
 挑発的な言葉に反射的に吐き捨てるように返し、誠一は柱から背を離した。
「菫さんを悲しませたら、その首を落としに行く。せいぜい心しておけ」
「……昔と変わらんな」
 ――これまでとは違う響きだった。声に、少々の人間味が混じっている。つい、舌打ちが出た。思ったより大きな音が出たので、雄真にも聞こえただろう。
「今年の盆も、警備に穴はあけてやる。また来い」
 歩き出そうとした足が、ぴたりと止まる。
「大きなお世話だ。……だが、華霞を菫さんに持たせてくれたことにだけは、礼を言わせてもらう」
 そして、今度こそ誠一は店を後にした。
 月光の下に並ぶ3つの墓を思い出しながら。