イルミンスール魔法学校へ

シャンバラ教導団

校長室

百合園女学院へ

ようこそ! リンド・ユング・フートへ 2

リアクション公開中!

ようこそ! リンド・ユング・フートへ 2

リアクション


■第13章

 ピトン……ピトン…。水滴が水溜りに落ちるような音がしていた。
 湿気だらけの闇の中。あかりは壁のくぼみに入れられた1本のロウソクのみ。周辺は照らすが、部屋全体を照らし出すには絶対的に足りない。
 そんな中、オルベール・ルシフェリア(おるべーる・るしふぇりあ)扮するクリスティーヌは目を覚ました。
「……えっ? ここどこ? ってゆーか、腕っ!? 腕いたっ」
 ガチャガチャ、ガチャガチャ。
 辺りを見回した彼女の動きに合わせて、上で鉄鎖が噛む音がする。
「吊られてる? なんで?」
 つま先をぐーっと伸ばしても、触れる物がない。完全に宙吊りだ。
「うそーんっ!」
「うるせー。おまえは黙って吊るされてろ」
 闇の中から雑な声が飛んできた。近づいてくる靴音がして、ロウソクの明かりの中に半面が現れる。
「バカラス!! なんでファントムがクリスティーヌを吊るすのよ!! おかしーでしょ!!」
 えいっ! えいっ!
 蹴りを放とうとするが、彼女がそうしようとするのを見越してか、蒼灯 鴉(そうひ・からす)は蹴りの届く範囲内には入っていなかった。
「おかしいのはおまえの方だ。なんでおまえがクリスティーヌなんだよ? ふつー物語のヒロインやるならMCだろ、LCじゃなく」
「……あのー、バカラス…? なんか、目がマジモードになっちゃってるみたいなんですけどー…」
 えへ、えへ、ととりあえず笑ってみせるオルベール。特に笑えることがあるわけでもないが、人間おかしなもので、危機感を感じるとついつい口元が引き攣って笑顔になってしまうのだ。
 オルベールはまさにその危機感を、目の前の鴉からひしひしと感じていた。
 だって、これほどやばいシチュはない。両手は封じられているし、踏ん張る足場もないし。そして普段、彼にぶつけている悪口雑言とイタズラの数々…。
 もし彼がこの状況の意味に気づいたら、何されるか知れたものでない!
「あのぅ……バカラス?」
 ジロ。
「あ、いえ、鴉さん……さま。これ、予定になかったでしょ? ここ、ベルたちしかいないんだし、腕も痛くなってきたし、アザになっちゃうかもだし。下ろしてほしいなー? なんて?」
 ……えへへへっ。
「却下。おまえしばらくそこでクリスティーヌ役に立候補した自分の行いを深く反省してろ」
 くるっと背を向け、再び壁の方に戻ろうとする鴉。
「なにそれーっ! じゃああんた、アスカにクリスティーヌやらせて、何するつもりだったのよッ!」
 ピタッ。鴉の足が止まる。
「それは…」
 ちょっぴり赤くなった頬、尻すぼみで消えていく声。
「――はっ。あんたまさか、アスカを吊って、無防備なアスカにあーんなことやこーんなことを…」
 きゃー変態ー! 変態よ! ここに変態がいるわーー! たっけてー!

 ガシャッ、ガシャッ。鉄鎖を揺すってできるだけ距離をとろうとする。
「するかッ!! どんなプレイだそれはッッッ!!」
「あんた、顔赤いわよ。何想像してんのよ」
 じーーーーー。
 疑いの眼差しで見るオルベール。ゆらりと鴉の体が揺れたと思った次の瞬間、あきらかに背が伸びた。
「あ、あんた、鬼神力…」
「――ふ、ふふふふふ…。おまえ、今自分がどういう状態だか分かってないな…」
「……あっ、気づいちゃったーーーっ?」
 いやーーーんっ。
 身をくねらせ、一生懸命鉄鎖から抜け出そうとあせるオルベールの前、鴉の目が光り、見せつけるように爪が伸びる。
「さあどうしてくれようか…」

 病んでますッ! 鴉さん、病んでますよ! アナタッ!!

「クリスティーヌを返せ! ファントム!!」
 すべり込みセーフッ!!
 師王 アスカ(しおう・あすか)扮するラウルとルーツ・アトマイス(るーつ・あとまいす)扮するダロガが到着した。



 一方、地の利を生かしてザカコからクリスティーヌを助け出すことに成功した怪人は、地下の湖を渡り、安全な館へとクリスティーヌを連れ戻っていた。
 気絶したままの彼女を部屋へ運び、ベッドに寝かせる。
 頬にかかったひと房を元に戻そうと持ち上げ……そのなめらかな感触に、そっと唇を寄せた。
「愛しいクリスティーヌ。きみはわたしのものだ」

(ファントム……本当にそれでいいの?)
 そんなささやきが聞こえた気がして、怪人はぎくりと身を強張らせた。

 怪人と同化した七瀬 歩(ななせ・あゆむ)は、あえて主導権を握らず、彼のしたいようにさせていた。
 自分が彼になり、この先の話を展開させていくことはできる。
 クリスティーヌを地上へ帰すことも。
 それは、とても簡単なこと。
 だが歩は怪人自身にそうしてほしかった。それを悟り、自らクリスティーヌを手放して、幸せになってほしかった。

(あなたはクリスティーヌを愛してるんだよね。本当に、本当に好きだから、彼女をさらってでも自分だけのものにしておきたいんだ…)
 自分の宝物をだれにも奪われまいと、必死に抱え込んで部屋の隅にうずくまる子どものように。
(でも、それは間違いなんだよ。彼女が、あなたの好きな彼女でいるためには、周りのすべてから引き離しちゃ駄目なの。野の花は、野にあってこそ美しく咲くの。摘み取って持ち帰ったりしたら、花は枯れるしかない…)

「うるさい…! ああ、うるさい、うるさい、うるさい!!」
 怪人は頭を抱え、身をよじった。
 だが逃げられるはずもない。内なる声は、そうする間も彼にささやき続ける。

(気づいてファントム……あなたが安らぎを得るには、それしかないと…)

「……エリック? どうかしたの?」
 蓮見 朱里(はすみ・しゅり)がクリスティーヌと同化し、目を覚ます。
「ああ、気がついたんだね…。いや、すまない。少し考え事をしていたんだ。――そう、あの傲慢な貴族どもをどうしてくれようかとね」
「エリック、あなた何を――」
「あの愚かなブタども…! きみを見下し、娼婦のレッテルを貼った。許しがたき罪だ」
「エリック、まさか!」
 目を見開き、さっと身を起こすクリスティーヌ。怪人はベッドから腰を浮かせ、彼女に背を向けた。
「きみはここで休んでいなさい。明日はオペラ座に出る必要はない」
「ああ、やめてエリック! あれは私のせいなの、自業自得なのよ!」
 ああなることは想像がついていた。だれも、2人の恋を祝福したりはしてくれない。
 それでも思い出がほしかったのだ。彼に愛された記憶、彼と愛し合った思い出。それをほしがる気持ちを、どうしても止められなかった…。
「……?」
 ふと、クリスティーヌは何かを聞いた気がして耳をすました。人の声のようにも思えたが、よく聞こえない。
 ――地下?
 床に耳を近づけてみた。やはり何かが聞こえる。――ああ、まさか!
 彼女は床に耳を押しつけた。
「……スティー……ヌ……朱…」
「……そんな、アイン…!!」
 クリスティーヌ――朱里は小さく叫ぶと床から身を引き剥がし、急ぎエリックに詰め寄った。
「彼に何をしたの!?」
「彼?」
 エリックは問いの意味が分からないと言いたげに、最初、首をかしげて見せた。しかし自分をにらみつけるクリスティーヌがにこりともしないのを見て、不承不承答えた。
「あれは侵入者だ。わたしの館に断りもなく入り込んだ」
「一体何をしたの!」
「きみが気にすることはない」
「言って!!」
「――湖の水を引き込んだんだ。じきに部屋は水で埋め尽くされる」
 いかにもしぶしぶといった様子でされた怪人の説明に、クリスティーヌは蒼白し、一歩二歩とよろめいた。
(――駄目、クリスティーヌ! 気絶してる場合じゃない!!)
「今すぐ止めて! 彼を解放して、お願い!!」
「なぜだ? あの男のせいできみの評判は汚されたんだよ? あのばかな若造のせいで!」
「そんなこと、どうでもいい!!」
 ああ、なぜ!
 なぜこんなことに!!

「……どうして分かってくれないの? 私、約束したわ、エリック。あなたとここで生きるって…。約束を守り、決してあなたの元から逃げ出したりしなかった」
 どんなにそうしたくても、私にはできなかった!
「そうとも。きみはわたしを選んだ。きみが選んだのだ。なら、婚約者は1人でいいだろう?」
 クリスティーヌは必死に首を振った。
 言葉が通じない。
 同じ言葉をしゃべっているとは思えないほど、自分と彼の用いる言葉は、遠かった。

「エリック、聞いて、お願いだから。一度でいい、私の言葉を聞いて…。
 こんなちっぽけな私を見出してくれてありがとう。そして歌の才能を、大切なものを教えてくれたあなたには、とても感謝してる。でも違うの。私が欲しかったのは、プリマドンナの地位なんかじゃない。私の歌を聞く人が、幸せな想いで満たされる。ただそれだけだったの…。
 私の歌は、幸せは、彼らとともにあるのよ。本当に私の幸せを願うなら、ラウルや他の人を傷つけないで」
 ラウル(アイン)を返して!
 両手に顔を突っ伏すクリスティーヌ。

(……駄目、見てらんない!)
 歩が怪人と同化しようとした、次の瞬間。

 …メキッ!! と木の板が引き裂かれる音が扉の方から起きた。
 扉があったはずの場所に立っていたのはずぶ濡れのアイン・ブラウ(あいん・ぶらう)――ラウルと同化したままでは拷問部屋を脱出できなかったため、アインに戻って鉄製のドアを突破し、ここへ駆けつけてきたのだった。
 
「アイン!!」
 蝶番ごと引き抜いた扉を横に投げ捨てる彼の無事な姿に、クリスティーヌも朱里の姿に戻った。
 駆け寄る彼女を受け止め、抱き締めようと広げられた腕の中へまっすぐ飛び込んでいく。
「きみが無事でよかった…!」
 朱里を自分で包み込み、そのにおいをいっぱいに吸い込んで、ようやくアインも安心できたようだ。ほうっと息を吐いて、そしてあらためて部屋の中にいる怪人へと目を向けた。
「ファントム。僕はきみの気持ちが分からないわけじゃない。愛するひとを傍らに求め続ける気持ちも。それでも、愛する人の笑顔を守るためなら、自分自身が罪咎を背負うことも構わない。ファントムよ、その愛と覚悟が本物なら、正々堂々かかって来い」
「分かるものか!」
 アインの言葉を跳ね返すように、怪人の手が振り切られた。
「機械人形なぞに何が分かる? 実の母ですら見るに堪えないと顔をそむけ、これをかぶれと仮面を投げつけた! ただの1度だって、優しく触れられたことなどなかった! 皆逃げた! 石を投げる者もいた! だれ1人、わたしを抱き締めてはくれなかった! だれがそんなことをする? 生みの親でさえしなかったことを、どこのだれが!?
 クリスティーヌだけ! 彼女だけが仮面の下のわたしの素顔を見ても、逃げ出したりしなかった! 彼女だけが抱き締めてくれたのだ!『かわいそうなエリック』と!
 もちろん彼女もおびえていたさ! 当然だ! おびえ、震えながらも、それでもわたしのために泣きながら、懸命に我慢して触れてくれた! そうしてわたしを思いやり、わたしのために努力してくれたんだ! だからこそ彼女は特別なんだ! だれも、だれも、わたしを思いやってくれたりなどしなかった! わたしのために何かをしようなどと、これっぽっちも!
 なぜそんなクリスティーヌを求めていけない!? 子爵は何もかも持っているじゃないか! 地位も、名誉も、美しい容姿も、だれからも愛される魂すら! なのになぜクリスティーヌまで奪おうとする!!」
 ほとばしる思い。
 それはあまりに暗く、激しく、絶望的な魂の叫びだった…。



「ふむ。なるほど。きみの言い分はよく分かった」
 カツン、カツン。
 廊下に靴音を響かせ、よっこらしょ、と壊れた扉をくぐり抜け。
 鬼崎 朔(きざき・さく)ならぬ、かわいい者の愛と情熱の銀色蝶マスクをかぶったダークヒーロー・月光蝶仮面が現れた。
「しかし惜しいなぁ、きみは考え違いをしているよ」
 うんうんうん。自分の言ったことに自分で頷いている。
「お、おまえは…?」
 きらーん。
 その言葉を待ってましたとばかりににやりと笑う月光蝶仮面。
 赤い縁取りの黒マントをばっと肩向こうに払い込み、ポーズをつけ、彼女は名乗った。

「はっはっは! 私は愛と情熱のダークーヒーロー、月光蝶仮面! その正体を知る者はだれもいない! そう、言うなれば「蝶仮面のファントム」だよ!」

 ――さらに怪人が増えたぞ! 倍率ドン!

「蝶、仮面のファントム…?」
 うさんくさそうに眉を寄せつつ、朱里がつぶやく。
 月光蝶仮面は無視して、さらにファントムへと歩み寄った。
「さあ、ファントムよ。クリスティーヌ嬢をラウル卿の元に返してあげるんだ。時間は十分に与えてやった。真に彼女の事を想うなら、きみと彼、どっちと結ばれたら彼女が幸せになるか分かるだろ? こーんな地下の館できみと2人で暮らすことが、彼女のためになると思うかね?」
「……うるさい! 彼女が選んだのだ! ここでわたしと暮らすと!」
「おやおや。それは違うだろう。きみが言わせたんだ」
 しようのない人だと言わんばかりにフーッと息を吐き、首を振る。
「きみもそうと知っている。だからそうやってむきになるんだ。言っただろう? きみは考え違いをしていると。
 きみの境遇には同情する。しかしだからといってエゴの押しつけは認められない。きみは自分が這い上がるために彼女を犠牲にしようとしているにすぎないんだ。足蹴にされる彼女のことなどこれっぽっちも思いやっていない」
「なんだと!」
「フッ。真実を突かれたか。
 ファントムよ、相手を思いやる想いなき愛は愛ではないッ! それはただの身勝手でしかないと知れ!!」
 月光蝶仮面は一気に2人の距離を詰めた。
 則天去私! 無光剣!!
 すれ違う一瞬に決める。
 月光蝶仮面が通りすぎたあと、怪人は血しぶきを撒き散らし、顔面から床に叩きつけられた。



「エリック!!」
(駄目よ、これでは彼は救われない!)
 火村 加夜(ひむら・かや)はすばやくクリスティーヌと同化した。
 流れ込んでくる、クリスティーヌの想い。その中には、エリックへの愛も存在した。
(……ええ。分かるわ、クリスティーヌさん)
 それは愛しいラウルを求める、温かくて優しい想いとは全く違うものだけれど。
 それは、たしかに愛だった。

「エリック、目を覚まして。エリック…」
「……う…」
 怪人がうっすら目を開くと、そこには静かに涙を流すクリスティーヌがいた。
「クリス…」
 手を伸ばし、その額に、こめかみに、頬に触れる。顎を伝い、ぱたりと落ちた、骨と皮の指先。
 クリスティーヌは身震いもしなければ、払いのけようともしなかった。
 そっと、クリスティーヌの唇が額に触れるのが分かる。
 その瞬間、怪人の両の目から涙があふれた。
「うっ……ううっ……うーっ」
 しゃくりあげ、嗚咽をもらし、身を震わせて泣く怪人。床に転がり、うずくまり、そしてクリスティーヌのドレスの裾をそっと持ち上げ、足にキスをした。
 クリスティーヌの涙が彼の上に落ちた。彼女の熱い涙が怪人の額を伝い、仮面の下に流れ込む。
「かわいそうなエリック…」
 まるまった背中を、クリスティーヌは自らで包み込んだ。
 だれも思いやってはくれなかったと、泣いた彼を思って、クリスティーヌはまた涙をこぼした。


「……さあ、行きなさい。クリスティーヌ」
 彼女のこぼした涙をのどに受けながら、怪人は言った。ゆっくりと身を起こし、彼女を見上げる。
「彼らとともに。地上へ出る道は、もう覚えているだろう?」
「エリック、あなたも…」
 差し伸べられた手に、怪人は首を振って離れた。
「わたしは闇に生きる者。光の下にわたしの居場所はないのだよ」
 流れ落ちる血を隠すようにマントを翻す。
 そして彼は、半壊した扉とは別の、背後の扉へと向かった。



「加夜さん…」
 クリスティーヌとの同化が解け、元の加夜に戻った彼女に、朱里が手を伸ばす。
「ええ。大丈夫」
 頬の涙をふきとりながら、加夜はなんとか笑顔を見せた。
 温かな朱里の手。触れるだけで、彼女からのいたわりの気持ちが伝わってくる。

 触れるだけでよかったのに。
 だれかが彼に触れてあげるだけで、きっと彼は救われたに違いないのに。
 そうしたら、こんな悲劇は起きずにすんだはず。

「……わたしたち、彼を救えたかしら…」
「うん。きっとね」

 怪人が消えた扉の向こうを、彼らはいつまでも見つめ続けた…。