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リアクション
●灰色の街で(2)
空京が全パラミタに誇るもの、それは医療だ。
機晶姫、二級市民を問わず、この街では最先端の医療が無償で受けられる。
先端医療センター。その日、午前中の勤務を終えてステラ・オルコットは外を目指した。
IDカードがタッチパネルに接触して軽い電子音を立てた。
偽造品だというのに、なかなかいい反応をする。
ステラの眼前ですっとドアが両側に開く。
彼女は通勤の道を歩いた。空京には自動車はほとんど走っていない。市民が主として使う交通手段はモノレールだ。灰色一色の通りだが、ゴミの一つすら落ちていない。
駅までの途上、二体ほど警ら(量産型クランジ)とすれ違った。二体とも殺傷力のない電気棒を装備したタイプ、いつもと同じだ。
いつもと同じで、警らは二体ともステラに何の感心も払わなかった。
駅のホームには、エスカレーターではなく階段を使う。そんなことをするのはステラくらいのものだが、それが都合がいい。この階段には途中、駅用の監視カメラに映らずエスカレーターからも目視できない場所があるのだ。
その場所にさしかかった。前方に人の姿はない。後方も一瞬で確認した。
途中でステラは、自分の顔を脱いだ。
正確には『スパイマスクα』を外したというだけのこと。
これだけの作業で彼女は、まったく別の顔に変わる。服装まで変える必要はない。どうせこの街では、誰もが似たような灰色の服を着ているのだから。顔さえ変えてしまえばまったくの別人だ。
ここからステラ・オルコットは、大黒澪(おぐろ・みお)と名乗る女性へと変貌する。ブルネットの髪は濃い黒髪に、垂れ目気味の柔和そうな顔は、やや吊り目の理知的な顔立ちへ。
モノレールを降りたステラ、いや、澪は、歩き方も変化していた。ステラがやや早足で歩くのに比べれば、いくらかゆったりした、どことなく存在感のある歩調である。
歩いている光景も、違う。
同じ空京ではあるのだが、先端医療センターがある場所とはちがって、随分くすんだ街並みだ。灰色のルールは守られているとはいえ、もっとずっと汚れている。
さもあろう。ここは空京の非市民階級が暮らす一帯、すなわちスラムなのだから。
彼女は歩きながら、腕に腕章を巻いていた。
腕章もこの街の例外に洩れず灰色である。ただ、うっすらと白いリボンのような模様が入れられていた。
そしてリボンには、『平和を愛する空京市民の会』と書き入れられていた。
正面を向いた澪の顔は、ある人物に瓜二つだ。
クランジξ(クシー)が染めた髪色を落とし、さらにそれを長く伸ばしたら同じ顔になるだろう。
それよりは、クシーの双子の姉クランジο(オミクロン)に生き写しというべきかもしれないが。
「大黒さん、お疲れ様です」
両目から善意がこぼれおちそうな顔をした中年の女性が彼女を迎え入れた。
これに対し、澪もまた、見る者を惹きつけるような笑みを返した。
「ええ、お疲れ様」
澪のほうがずっと年下なのだが、むしろ彼女のほうが年長に見えるほど澪は落ち着いていた。
湯気が上がっている。
大きな釜が煮えている。電気ではなく、ガスバーナーの火によって。
すでにちらほらと行列が生まれていた。市民権を持たない非市民階級と呼ばれる人たちが、釜を目指して集まってきたのだ。
慈善の炊き出し活動だ。『市民の会』によるボランティア活動である。発端者は大黒澪その人であるという。
ほどなくして、あっという間に黒山の人だかりとなった。
澪は腕まくりすると、誰よりもよく働いた。配膳するときも、非市民の一人一人に優しく声をかけている。物腰は柔らかく丁寧で、その姿はまるで慈母だ。行列に並ぶ者たちに諍いがあっても、澪が仲裁に入るとたちまち止んでしまう。
市民階級の老婆が一人、澪に向かって手を合わせていた。なにをしてもらったわけでもないのに、ただじっと。しかしこれは、こうした場では決して珍しい光景ではない。
澪が聖女だという噂もまことしやかに流れていた(聖女というものの定義が、どうなっているのかはわからないが)。すでに被市民階級の間では、彼女を崇拝する声もあがっているという。市民の会の代表はカスパール・竹取であり顔役という意味でもやはりカスパールが第一だが、大黒澪はメディア等への露出こそほとんどなく、こうした末端の現場でしか知られていないものの、アンダーグラウンドの世界ではひとつのアイコンといっても過言ではなかった。
「まだまだありますよ、炊き出しは。不足しているかたはおっしゃってください」
口調こそ物静かだが、澪はよく通る声をしていた。繭を怒らせれば相当に恐ろしい顔になるであろうに、満面に笑みを浮かべた今の澪は、穏やかな菩薩のようでもある。
行列の後方に、色だけはなんとか灰色とはいえ、ボロ布としか呼べないものをまとった姿が並んでいた。
戦部小次郎である。
――ここの人間のまず九分九厘は、秘密警察人間狩り部隊長クランジο(オミクロン)の顔を知らない。いや、空京に住む者は『人間狩り部隊』の存在そのものを知らないだろう。
彼は冷めた目で、周辺の状況をうかがっていた。
――だが俺は違う。
あの澪という女性がオミクロンであるかどうか、小次郎には興味がない。実際にそうだとしても、連中の趣味がわかるというだけのことだ。人間をこうして手なづけて、ペットのように飼っているつもりなのだろう。
先日、空京の老人に語った言葉を彼は思い出していた。これはあの老人ばかりに対してだけではなく、このところ小次郎が、空京内でひそかに流している噂だ。
「食料を無料で与えられ、一種飼われている状態というのは、二つの意味しか示さない。一つめは、それを眺めることによって癒しなどを得る、いわゆる愛玩動物。二つめは殺して自分たちの糧とする、いわゆる家畜である。この世に善意だけで成り立つ生活などありはしない……」
噂が真実かどうかは関係がない。これが毒液のように、確かに伝わることが大切なのだ。
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