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【DarkAge】空京動乱

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【DarkAge】空京動乱
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リアクション


●闇酒場
 
 むせかえるような煙草の匂いだ。煙も猛烈と言うほかはない。視界はたちまち白く染まる。部屋で火事でも起こったのかと思うほどだ。
 それに混じって、鼻の奥がつんとするほどの強いアルコール臭がする。
 ただいずれも、慣れればむしろ心地良く感じる者もあるかもしれない。
 煙草の煙は甘く、アルコールの香もまた甘い。その甘さに溺れそうになる。
「僕は、酒も煙草もやらないが……」
 ドアを開け、色の付いた空気に御空 天泣(みそら・てんきゅう)は咽せた。しかし咽せながらも、嫌な気持ちはしていない。むしろこれを懐かしむように眼を細めた。
「これはこれでいいものだと思う」
「何がいいのさ」
 げほげほと咳き込みながらラヴィーナ・スミェールチ(らびーな・すみぇーるち)が続く。
「この都市にも、こういった場所があると判ったことが……というべきか」
 天泣はポケットからハンカチを取り出して眼鏡を拭った。ここを出る頃には、煤で真っ黒になっているような気がする。
 クランジ戦争を生き抜き、レジスタンスに身を投じた彼らは、現在レジスタンスに所属している。空京にいるのも潜入の使命によるものだ。天泣とラヴィーナがこの街に紛れ込んでから三ヶ月ほどになる。
 街に入りこむこと自体は、思ったよりも容易だった。いくら外壁に包まれているとはいえ、広大な空京ゆえに出入りできるポイントは複数存在していた。外壁そのものにも綻びがあって、念入りに場所を探せば乗り越えることもできる。そういった意味では、総督府が喧伝する『安心・安全』には疑問符をつけざるを得ない。
 天泣の役割は遊軍的調査だ。いつか来るであろうレジスタンスの蜂起にそなえ、できるだけの情報を集めるというものだった。
 彼が潜入している間にエデンが陥落(お)ちた。天泣の皮膚感覚では、公式発表があるよりずっと早く住人はその事実を知っていたし、現在、レジスタンスが「エデンを落とす」と総督府を脅迫しているという話についても、あまり信じていないようだった。
 ――……一見、管理された都市。けれど実体は……というわけか。まあいずれにしても、今の空京は自分には合いそうにもない。
 ここは闇酒場。正式な名前はない。公式には存在しない場所だからだ。広大な空京において、こんな場所が存在することを知らない住民もいるようだ。この場所を突き止め、訪れることができるようになるまでは相当な時間がかかったが、それに見合うものがあることを天泣は期待している。
 酒場に滑り込む直前、ラヴィーナは街を振り返った。
 灰色一色の空京が、ようやく色を変えようとしている。といってもそれは、灰色が薄闇に染まって黒くなるだけなのだが。
 ラヴィーナは皮肉げに片眉を上げた。
「いいよねえ、灰色の世界だ。僕のこの白髪にもぴったりだよ」
 ラヴィーナに言いきかせる風でもなく、かといって独言する風でもなく、強いて言えば煙たちこめる空気に混ぜるようにして天泣は呟いた。
「……灰色は確かに美しいが、鮮やかな世界があって初めて灰色も生きる、と考えている。悪いが……」
 ドアが閉じた。
「……悪いが、解放させてもらうよ」

 空京は清潔な街である。少なくとも、総督府のクランジによればそういうことになっている。総督府はこの街から、いわく『人間を堕落させたあらゆるもの』を追放してきた。服装が灰色に限定されるのもその一環であり、音楽や出版についても激しく制限されている。
 だがクランジがもっとも憎んできたのは喫煙と飲酒だ。彼女らはこの風習こそが『人類の敵』と断言し、清潔な環境のため、知的生命体のあらたな進歩のためと主張して、空京において煙草と酒を全面禁止した。ゆえにこの都市にこれら『悪徳』は流通していない。かつて製造されたものも廃棄された。
 とはいえ歴史上、かつてあった風習を権力者が全面禁止しようとしてできたためしはない。何事にも抜け道は存在する。
 空京にただ一つ存在する闇酒場、ここはその悪徳が流れる例外的な場所だ。無論、違法である。だが政治的配慮か裏取引でもあるのか、あえて総督府には見逃されており、ある一定数の人々は背を屈め、目も耳も覆ってこの背徳に身を委ねていた。
 闇酒場の支配人は『伯爵』と呼ばれる初老の男性だと言われている。眼帯を長身の元軍人で、年齢は初老という話だ。

 酒場のカウンター席に、ハンチング帽を目深に被った客が腰掛けていた。
 目立たない灰色の服を着ている。性別は不明だが体つきは華奢で頭も小さく、一見すると少女のようだった。
 客の前には酒のグラスが置かれていた。モヒートと呼ばれるカクテルだ。グラスに挿されたミントの爽やかな香りが、澱んだ空気の中で異彩を放っている。グラスの氷は少しずつ溶けゆき、グラスの表面はしっとりと雫を浮かべていた。客はただ、席を占有するためだけにこれを頼んだものらしく、一切手を触れていない。
 客は薄目でグラスを見つめているが、その黄金の瞳には、太陽の槍のごとき強烈さがあった。
 バロウズ・セインゲールマン(ばろうず・せいんげーるまん)、かつてそう呼ばれたこともある。
 されどこのところは唯一の男性型クランジ、Ω(オメガ)の名で呼ばれることのほうが多く、クランジを殺すクランジ「マリス(Malice)」と呼ばれることのほうがさらに多い。
 バロウズは、前回組んだ『カルテット』メンバーとは別れ単身で行動していた。メンバーといっても深く信頼し合う仲間というわけではない。ただ利害が一致する傭兵同士として、一時的に提携しただけの関係だ。契約期間が終わった今、彼らと行動を共にする理由はなにもなかった。桂輔や真司が今どうしているかなど知らないし、向こうも知るまい。
「伯爵」
 グラスから視線を上げずにバロウズは言った。
 いつの間にかバロウズの眼前に、黒い肌の男が立っていた。男は見上げるほどの上背があって、はち切れそうな筋肉をバーテンの衣装に包んでいる。口髭を生やしている反面頭部にはまるで毛がなく、表情にもおおよそ愛想というものは皆無であった。そして男は、右目に大きな眼帯をしていた。
 『伯爵』はバロウズに返事をしない。バロウズは構わず続けた。
「一時的に隠れられる場所を俺は求めた。そちらは提供した。こうしてしばらく世話になっている。……そっちはもう、俺の正体については知っていることだろう」
 バロウズはやはりグラスに触れもしない。
「取引の原則は等価交換だ。伯爵、俺はまだそちらからの要求を聞いていない」
 バロウズは顔を上げた。しかしその視線は相手ではなく、カウンターの向こうの酒瓶に向かっていた。
 眼帯の男はなにも答えなかった。このとき、
「あらこちら素敵な方。どこから来たの? 見ない顔ね」
 するりと狐のように、バロウズの隣のスツールに女が腰を下ろした。女が灰色のガウンをこれ見よがしに脱いで空いた席にかけると、下から黒いドレスが現れる。正確には黒というより、最大限に濃くした灰色だろうか。この装いなら通りを歩いていても、『警ら』と地元民が呼ぶ量産型のパトロール機にひっかかることはないかもしれない。
 女の連れだろう。さっきまで彼女と腕を組んでいた紳士風の男性が抗議の声を上げるも、
「あらごめんあそばせ、おじさま。リーリちゃん、こっちのお兄さんに興味があるの〜」
 ひらひらと手を振って彼女は男性を追い払った。肩を怒らせながら紳士風は店の奥に去って行く。彼女はそちらを振り返りもしないで、
「私の名前? リーリヤ! 正確にはムハリーリヤ・スミェールチ(むはりーりや・すみぇーるち)だけど、長いからリーリちゃんって呼んでね」
 と一方的に名乗ってバロウズに身をすり寄せた。彼女はプラチナシルバーの髪を挑発的に夜会巻きにし、この空京で許される範囲で化粧しているようだ。さらにガウンのポケットを探ってイヤリングを取り出し、話しながら両の耳につけだしていた。
「あのおじさまはね、この店に連れてきてもらうために必要だっただけ。だから名前も知らないし、ぶっちゃけた話、お店まで来れたらもう用済みぃ〜」
 けらけらとリーリは笑って、くるりと眼球を回した。
「それにしてもこの闇酒場、いいわぁ、ここに来たくて何日も裏通りで立ちんぼしちゃった。寄ってくる人にいちいち抱きついてね、お酒の匂いがするか確認したりして……えへへ、もしかしてリーリちゃんしゃべりすぎー?」
 バロウズは無言で、自分の目の前のモヒートをリーリの前に押しやった。
「くれるの? 気前がいいなあ」
 言うなりリーリはこれを、ごくごくとほとんど一息で飲み干してしまった。
「喉渇いてたんだー、ありがとー。ああもう久しぶりねえ、お酒飲むの!」
 バロウズはにこりともせずバーテンに、「もう一杯だ」と。オーダーし、モヒートがリーリの前に置かれると、
「それも奢るからどこかに消えろ。俺はバーテンと話がある」
 と呟くように言って、あとはもうリーリに一瞥すらしなかった。
「……悪いね。我々もバーテンに用があるんだ」
「ごめんね、ちょっと邪魔するよ」
 このとき、バロウズの右隣にラヴィーナが、そしてリーリを挟んだ二つ隣に天泣が座った。
「リーリ、よくこの店を突き止めてくれた」
「お安い御用よ」
 天泣が現れると、リーリはぱっと身を翻すようにして、バロウズから身を離し天泣の肩に頭を置いたのである。口調もすっかり変わっていた。
「何者だ」
 バロウズが黄金(きん)の視線を天泣に流す。
「ええと、僕ら流れの機械工、ストレスのはけ口にお酒が飲める店をずっと探していてね」
 ラヴィーナが答えるも、バロウズは天泣を向いたままだ。
「もう一度問う。何者だ」
 むっとしたのかラヴィーナは、
「ねえキミ、僕の話を……」
 と言いかけるも、天泣がそれを封じた。
「ラヴィ……どうやら、そういうのが通じる相手じゃないと思うが」
「わかってたよ」
 ラヴィは諦めたように肩をすくめた。けろりとしている。むっとした様子を含めて演技だったようだ。
 このとき、すっとリーリがスツールから降りた。そうして天泣と席を替わる。ほんの一瞬だったがすれ違いざま、リーリは天泣の首に触れるようなキスをしている。
「レジスタンスだな」出し抜けにバロウズが言った。「ここは場所柄、レジスタンスやレジスタンス崩れが出入りしている」
 天泣は否定も肯定もせず、
「知りたくて来たんだ。……伯爵と呼ばれる人物がどんな人間なのか」
「なら直接聞くんだな」
「……そうする」
 天泣は眼帯のバーテンに向かって片手を上げた。
「すまないが『伯爵』に会いたい。……わかってる。あなたのほうじゃなくて、本物の『伯爵』と話をさせてもらえないか」
 バロウズはやや驚いたように、
「知っていたのか」
「いや、推理しただけだよ。あなたとバーテン氏とのやりとりを見ていて……なんとなくだけどね」
 バーテンは黙ってバロウズと天泣のやりとりを見ていたが、やがて片耳に手をやると(どうやらイヤホンが仕込まれているらしい)、重々しく頷いた。
「付いてこい。『伯爵』がお会い下さる」