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リアクション
渋谷に視点を戻すとしよう。
石原拳闘倶楽部の朝は、まちまちに始まる。
新聞配達の仕事をしている者は出払い、早朝からトレーニングをする者はシャドーボクシングを始めている。もちろん、ビルの二階や三階でまだ寝ている者も少なくない。
そんな中を、ジムの『会長』である石原が歩いていた。
「よう、昨夜の麻雀はいい勝負だったな。どうした、まだ眠そうだぞ?」
といった風に、ごく自然に、新参の者(つまり2022年の契約者)であれ古参の愚連隊メンバーであれ、分け隔てなく声をかけて回っていた。
すでに天地・R・蔵人の紹介により、湊川亮一と高嶋梓も加わっている。五十嵐理沙やクレア・シュミット等も起き出してきたので、なんとも賑やかになっていた。
そのとき入口のドアではなく、ガレージに直結しているほうのシャッターがガラガラと開いた。
「よう、探したぜ。あんたが石原肥満だな」
桐ヶ谷 煉(きりがや・れん)だ。
彼は昨日、一日かけてこの時代の日本を見聞した。
これじゃあ俺がいた戦場のほうがまだマシかもしれないな……そう思うほどのものも見た。触れた。
夜は渋谷駅のガード下で浮浪者に混じって雨露をしのいだものの、昼間見たものの印象が強すぎて、結局まんじりともせず朝を迎えたのだった。それゆえに、多少気が立っているのは否めない。煉は、つかつかと肥満に歩み寄ると、
「てめえ……」
問答無用で、殴りつけた。
体重を乗せ、肥満の頬に右拳で一撃したのである。音はなかったが確かに、『入った』という手応えがあった。
騒然となったのは言うまでもない。いち早くロザリンド・セリナが飛びだし、コア・ハーティオンらも煉を取り囲んだ。蔵人が抜刀したのをはじめ、他の愚連隊も殺気だった。
だが石原肥満は周囲を一喝した。
「よさねぇか、お前ら!」
肥満は自身の拳で頬を拭った。唇が切れており赤いものがついた。
「手を出すな。始末は俺がつける」言い切る。
「悪いな、あんたに会ったら一度殴りたいと思っていたんだ」その肥満に臆さず、不敵にも煉は言った。
対する肥満は、頬が赤く腫れていた。
しかし、それでも石原肥満は倒れていないのだった。
「俺も清廉潔白な人間じゃねぇ。どこかで恨みを買っているのは承知の上さ。この東京でなきゃ、以前いた満州の話かもしれねえ。お前の顔は見たことねえが、俺のせいでどこかで、酷い目に遭ったんだろうとは予想できる」
だから、と肥満は言った。
「一発だけは受けてやる。これでてめぇの気が済むのならな」
だがその口ぶりが煉の心にまた火をつけた。
酷い目、だと。
そんな軽い言葉で済ませられるか。
1946年の肥満の話ではない。だが、同じ人物の話だ。
地球とパラミタが繋がった結果、パラミタの利権を巡って世界中に紛争が増加することになった。その兵士として大勢の子どもが戦場に出されているということを肥満は知るまい。煉がその一人であったということはなお知るまい。1946年の彼はもちろん、2022年の彼であっても。
煉とて、自分の行為が八つ当たりなのは判っている。だが、それでも殴らずにはいられなかった。死んでいった仲間たちの代わりとしてだ。
怒りに任せ煉は左の拳で打ちかかった。
「一発だけと……」
しかしその拳は肥満の左手にすっぽりと包まれていた。
「言ったはずだぞ、坊や」
煉の力を真正面から受けるのではない。その勢いを利用し行き先だけを狂わせ、ごく簡単に肥満は練の体を自身の斜め後方に流した。つんのめるようにして煉は、積み上げられた資材の山に頭から突っ込んでいた。
煉は我が目を疑った。
どれほど肥満が喧嘩慣れしていようと、軍隊仕込みの格闘術を使う自分が劣るつもりはない。それに、相手は契約者ならぬ一般人なのだ。にわかには信じがたい。
だが――無意識のうちに、手加減をしていたというのなら、ありえる。認めたくはないが、一般人相手ということでリミッターを設定してしまったのかもしれない。
いずれにせよ、いくらか気は晴れたのは事実だ。
「殴り合いにきたわけじゃねえんだろう、坊や」
坊や呼ばわりするが、肥満はせいぜい二十歳だ。煉とさして年齢は変わらないだろう。
「坊やじゃない。桐ヶ谷煉という」
練は言った。あんたのことは好かない、だが、あんたに死なれたら困る……と。
石原肥満は、煉に手をさしのべた。
「話を聞こうじゃねえか。煉と言ったな?」