|
|
リアクション
新宿の外れには、特殊な形で復興している一帯があった。
一見、この時勢には珍しい庭付きの平屋の邸宅に見える。贅沢なことに庭には針葉樹林が茂り、高い塀で囲まれている。政治家でも住んでいるかの様相だ。しかしその実は、違う。
賭場なのである。新竜組が設立した遊技場だ。当然動く金の単位は庶民には夢想すらできぬようなものであり、暴力団関係者は当然として、ここには政治家や官僚、GHQの関係者すら訪れる。
いくらか高台になっているこの邸宅にたどり着くには、塀をぐるりと巡って大きな門をくぐり、さらに石造りの階段を昇っていく必要があった。
夕暮れの迫る時間帯、茅野虎蔵(ちの・とらぞう)がその階段を昇って実に久々に姿を見せると、邸宅前に控えていた新竜組の組員たちが飛び出してきて彼を出迎えた。彼らは虎蔵を歓迎する。ただし歓迎と言っても、表面上の言葉と顔つきだけだが。
「よくいらっしゃいました! 茅野の若旦那!」
リーダー格の組員が頭を下げた。
「突然来て悪いね……ふと予定が空いたもんで。迷惑だったかい?」
「とんでもねえ! 歓迎しますぜ、たっぷり遊んでってくだせえ!」
だがその組員は、内心苦い顔をしていた。
虎蔵はまだ二十代の旧家の御曹司で、いわゆる『お坊ちゃん』である。涼しげに上物のスーツを着こなし、鞄や靴も、舶来品の最高級品だ。だが彼を、坊ちゃん呼ばわりする者は少なくともこの賭場にはいない。どこで学んだのか彼は凄腕の相場師であり、戦時中傾きかけた実家を、その腕で救ったと言われている。そればかりか博打も滅法強く、たとえイカサマされても勝ってしまうのだ。そのせいかトラブルに巻き込まれることも多いが、そうなってもするりと逃げるわざにも長けていた。
要するに、彼が来ると賭場はしこたま荒れるのだ。しかも賭博負け知らずの彼は、金子(きんす)をさんざ巻き上げて帰っていくのだから大変たちが悪い。といっても表の世界でも実力者ゆえ、来たからには歓迎せざるを得ないという、まさに『求められぬ客』なのだった。
「今日はなんだか、警護が多いね、首相でも遊びに来るのかい?」
「いえ」
と答えた組員の顔は大真面目だった。
「昨日から、うちの組の事務所やら盛り場やら、ま、小さいとこばっかなんですけどね、ここに、一人で飛び込んでは大暴れして回る野郎がいるんでさ。なんでも、ガイコツみたいな白いマスクを被ってるとかで『白ドクロ』ってあだ名されてやす……」
「ふぅん」
虎蔵は興味なさそうに言った。
「いくらなんでもここを荒らしに来るたあ思えねえが、念のため警護を多くおいてやす」
「そうかい。むしろそいつに会ってみたいけどね」
「冗談やめてくだせえよー」
このとき虎蔵は女の悲鳴を聞いた気がした。しかも女というよりは、子どもの声というのに近い。神聖な賭場には似つかわしくない。
「あの声はなんだい?」
若い組員はすぐに、
「いえ、あっしは何も……。大方、戦災孤児でも迷い込んできたんでおっぽり出してるんでしょうよ」
嘘だな、と一流博徒特有の勘で虎蔵は察した。
この賭場は一首の治外法権だ。警察も軽々と踏み込むことはできない。ゆえに賭場として利用する以外にも、新竜組による格好の『隠し場所』として機能していることを彼は知っている。掠った人間を閉じ込めたり、禁制品を一時的に保管したりするのだ。この場合は前者であろうか。
「あっ」
虎蔵は唐突に声を上げた。
「しまった。財布を忘れてきた……」
このとき彼は、同伴の運転手に意味ありげな視線を送っている。心得たもので初老の運転手は、
「若様のお財布は車にも置かない決まりです」
と、虎蔵ではなく組員にわざと聞かせるように言った。
「今日はツケで遊ばせてもらえないかい? 負けても後払いってことで」
虎蔵は若い組員にもちかけるが、組員は慌てて首を振った。
「いや、そればっかりはご勘弁を……現金払いの約束ですんで」
「ちぇ、ゲンが悪いねえ。これで戻って取ってきても、勝てない気がするよ。今日は出直すとするか」
組員は内心喜んでいる。いや、内心どころか喜びがまともに顔に出ていたりする。
「えっ、それは残念! ではまたの機会ってことで」
そりゃ嬉しいだろう。虎蔵が来ようものなら、その日の当番組員はあとで幹部からたっぷり殴られるのだ。もちろん虎蔵が儲けたのは虎蔵の実力であって、少なくとも組員のせいではない。理不尽かもしれないが、それがヤクザというものだ。
嬉しさのあまり組員が、虎蔵の言動になんら不審感を持たなかったのも無理はない。また、このことを上に報告しなかったことも書き添えておく。
「帰るか。邪魔したね」
背を向けて虎蔵は石段を下りつつも、出口付近でそっと運転手と別れ、賭場のほうに戻っていった。