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リアクション
アガデの崩壊は北西の一角を除き全体に渡ってはいるものの、それでも全壊しているわけではなかった。
完全に瓦礫と化している箇所が多く、目立ってはいるが、半壊で済んだ箇所も多い。そういった場所は家屋倒壊の危険があるため立入禁止区域とされている。
だがそのほかにも、少々修繕すれば十分使用可能という建物もあった。
「桜、すまぬがクギを取ってくれぬか」
傾いた鎧戸をできるだけ元の位置に戻して押さえながら、明日葉は下に向かって手を伸ばした。彼女の注意は重い鎧戸に集中していて、下の方はおろそかになっている。
桜が自分のいる場所とはあらぬ方向へ伸びた手の先に回り込み、テディベアを抱いた手とは別の手で、無言で長クギをひと掴み乗せる。
「うむ」
渡されたそれを、今打ちつける1本以外は唇にはさみ、明日葉は手早く金づちで打ち込んだ。蝶番の位置固定に1本、補強用として2本。2度3度と揺らして問題なく動くことを確認して、彼女は脚立を下りるともう片側の鎧戸へ向かう。そして先と同じように手早く修理をした。
そんな彼女たちを、入口で紫の神官服を着た壮年の男が、少しそわつきながら心配そうな目で見守っていた。
「彼女たちなら大丈夫ですわ」
男が何を心配しているのか察した秋津洲がくすりと笑う。
「慣れてますから」
「あ、はぁ……まぁ…」
少し赤くなって、恥ずかしそうに男も笑顔を返す。若い男性であれば男尊女卑と責められるような心配も、年配の、見るからに穏やかなこの男性では、むしろほほ笑ましく思えて、秋津洲の笑顔はさらに増した。
「さあ、こちらも終わりましたわ」
ハケを止め、一歩下がる。目につく大きなひび割れはすべて漆喰に塗り込められているのを確認して、秋津洲はハケとバケツを下に下ろした。
「これで隙間風が入ることはないかと思います。
それではすみませんが、わたしはそろそろ向こうへ戻らないといけませんので」
「ああ、はい。ありがとうございます」
入口に向かった秋津洲を見送りに、男がついてくる。
「あの2人はこちらへ残していきます。何か気になっている箇所がありましたら、遠慮なくおっしゃってください。わたしもまたすぐにこちらへお邪魔することになると思いますので、そのときおっしゃっていただけましたらお手伝いさせていただきます」
「ありがとうございます」
それでは、と会釈する彼女に合わせて、男は深々と頭を下げる。秋津洲は小型飛空艇に乗り、真理の元へ戻って行った。
小型飛空艇が見えなくなるまで見送ってから、男はもう一度聖堂で修復作業をしてくれている2人を見る。秋津洲と話しているうちに2人はさらに別の窓へと移り、パックリ割れて用をなさなくなった木枠を引き剥がしているところだった。
「あの方たちといい、先の方といい、本当に女神様は慈悲深くいらっしゃる…」
女神イナンナに感謝の祈りを捧げ、男は裏庭へと回る。
そこでは、そでまくりしたアリス・テスタイン(ありす・てすたいん)が
「いきますよー!」
という掛け声も雄々しく、鍬を振り上げていた。
「よっ、はっ、はっ、はっ、はっ」
微塵も疲れを感じさせないスピードで、ざっくざっく土を掘り返している。そのそばでは、感心するような声をときどき上げながら何人かの女性が彼女の動きを見守っていた。
あっという間に畑の畝を5つ作り終えたアリスは、ふーっと息を吐いて額の汗をぬぐうと、おもむろに木の下に置いてあったぱんぱんのリュックサックから3キロ米のような袋を取り出した。それを、彼女たちによく見えるように両手で突き出す。
「いいですか? これは納豆菌モドキといいまして、大豆を醗酵させて作った物です! これを土に混ぜて使うと少量の水で作物をおいしく実らせてくれるんです!」
納豆が東カナンにあるかどうか分からなかったが、この際そのへんの細かい説明は省略してしまおう、とアリスは決めたようだった。土中の微生物が分解してくれるのでとってもエコロジー、とか話しても、多分学者じゃない一般の主婦には分からないだろうし。
そもそもカナンに薬害だの、自然にやさしいだの、そういった意識があるかどうかも分からないしね!
「いいですか? まずこういうふうに下に敷き詰めてですね――」
と、実践するアリスの手元をよく見ようと主婦たちが寄ってきて、興味津々中を覗き込む。「混ぜる量は?」「途中で追加しなくていいの?」「水はどのくらいで何日置き?」彼女たちはときおり質問をはさみながら、わいわいと楽しくアリスの話に聞き入っていた。
そしてそこから離れた別の木の下では、北カナン神官の葉月 可憐(はづき・かれん)が座って、自分を取り囲んだ子どもたちに向かい説法を説いていた。
「いいですか?
自然を敬う気持ち
街を甦らせようとする大人達
この街を愛しく思う心
時に踏み躙られるそれは、でもとても純粋で強い輝きを持っています
それを恐れないで
忘れないで
――大切に、育んでいってくださいね」
静かに、1人ひとりに語りかけるような可憐の声に、大半の子どもたちが目を閉じて聞き入っている。まるでそよ風が揺らす葉擦れの音に耳をすますかのように。
彼らの面に、すっかり見られなくなっていた穏やかさと心の落ち着きを見て、神官の男は込み上げた涙をそっとそで先でぬぐった。
「そしてなにより大切なのは、神は決して怠惰な怠け者やすがるだけの者にはその慈悲を投げかけたりはしないということです!」
可憐はいきなり立ち上がるや、背後の壁に向かって歩き出した。
「し、神官さま…?」
「天は自ら助くる者を助く、ですわ、神官さま。自分以外の者に助けてもらいたければ、まず自分自身が助かるために動かなくては♪ この都が以前の姿に戻ることを願うのであれば、戻そうと自ら動くのです。
さあ行きますよ、アリス。ネイトさまとお約束した刻限が迫っていますわ」
「え? は、はいっ。
皆さん、ここに残りの納豆菌モドキを置いていきますから、あとは皆さんで分けてお使いくださいっ」
あたふたとアリスが先を行く可憐のあとを追って走る。2人の姿が壁の向こうに消えたと思うや、いつの間にかそこにいて、しゃがみ込んだまま全く動こうとしなかった巨大な白銀の鋼の騎士が、むくりと起き上った。
「おお…!」
ヒュィィーン、ヒュィィーンと、何か疳高いうなり木のような音が辺りに満ち、強い気流が起きる。ゆっくりと立ち上がった白銀の鋼の騎士は頭部を下で見上げている人々へ向けると、こう言った。
「澪標が動きます。危ないですから足元へ近づかないようにしてください」
それは可憐の声だった。外部スピーカーを通しているため少し変質しているが、間違えようがない。
白銀の鋼の騎士は建設中の大聖堂がある方角へ向きを変え、歩き去って行く。
カナンにもギルガメッシュやエンキドゥといったイコンはあるが、滅多にその姿を民衆に見せることはない。遠く離れた東カナンではなおさらに。一度も目にすることなく生涯を終える者の方が多いのだ。
間近で見たイコンにすっかり仰天してまばたきもできずにいる大人たちの後ろで、子どもたちが互いに目と目を合わせ、こくんとうなずいた。
さっと大人たちの横をすり抜けて走り出す。
「あっ。あなたたち、お待ちなさい! 危ないと神官さまもおっしゃったでしょうっ」
あわてて制止の手を伸ばす神官の前、けれど忠告に従い足を止める子どもはいなかった。
きゃあっという楽しげな笑い声を残して、彼らはまっすぐ澪標を追いかけて行ったのだった。
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