校長室
雨音炉辺談話。
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15 柚木 郁(ゆのき・いく)は、雨の日が嫌いだ。 ひとりぼっちになった日が、雨の日だったから。 もしもあの時、綺蓉が拾ってくれていなかったら、と思うと怖くなる。怖くなって、震える。 そんな気持ちまで、全部、思い出してしまうから、雨の日は嫌いだ。 「…………」 早く止まないかな、と、窓辺に寄って、雨を見ていた。 どれくらいそうしていただろう。 「郁」 柚木 貴瀬(ゆのき・たかせ)に声をかけられて、郁は振り返った。 「お出かけしよっか」 「雨具もあるぞ」 貴瀬の隣に立つ、柚木 瀬伊(ゆのき・せい)がほら、と見せたのは、カエル柄のカッパとレインブーツ。それから、苺みたいな傘。 いつもだったら、晴れた日だったら、瀬伊が用意してくれたものに喜ぶのだろうけれど。 「おでかけ……」 今日は、雨で。 「おそと、でたくない……」 ふるふると、首を横に振る。貴瀬がしゃがんで、郁の目を見てくる。どき、っとした。なんだか、全部見られてしまいそうで目を逸らす。 「郁」 「…………」 「クロエちゃんに会いに行こうと思ってるんだけど、それでもお留守番してる?」 クロエ。 名前を聞いて、また、どき、っとした。先ほどのものとは違う、どき、だ。 あの子は、今日、何をしているのだろう。 いつも通りに、笑顔なのだろうか。 それとも、郁のように、雨が嫌いでしょんぼりとしているのだろうか。 「……いく、クロエちゃんにあいに、おそとへいくの」 もし、笑っていてくれるなら、それでいいけれど。 しょんぼりしているのだったら、傍にいてあげたかった。 「クロエちゃんに会う、ってなったら途端に元気なんだから」 雨具を着てはしゃぐ郁を見て、貴瀬は笑った。隣を歩く瀬伊は、郁の姿を撮るのに夢中で返事がない。 「デジカメ濡らしてデータ飛んでも知らないよ」 「問題ない。既にバックアップは完璧だ」 「今日の分」 「撮らなければ元々残らん」 「減らず口」 ほっとけ、と瀬伊は言い、郁の隣に並んだ。何かを指差している。目で追うと、カエルがいた。カエルは、ぴょんと地面を跳ねて紫陽花の葉に乗った。 「これはなんていうの?」 「紫陽花だ。綺麗だろう?」 「うん! いろんないろ、なの」 「郁、これ好き?」 会話に混ざる。郁は、満面の笑みで頷いた。じゃあ、と少し思案して、 「ここのお家の人に、一房もらえないか頼んでみようか?」 提案。郁の目が、嬉しそうに輝いた。けれどすぐ、首を横に振る。 「だめなの。あじさいさん、かわいそうなの」 「……良い子に育ったなぁ」 思わず、頭を撫でる。本当、優しい良い子になってくれた。 「ならせめて、綺蓉と一緒に写真を撮ろうか」 「うんっ!」 瀬伊と一緒に、カメラを構える。郁は、綺蓉に「これ、あじさい、っていうんだよ!」と楽しそうに教えた。その様子が可愛かったから撮ると、こっちを向いて恥ずかしそうに笑った。 久々に、笑顔を見た気がする。嬉しくなった。瀬伊も、きっと同じ気持ちでいるだろう。 写真を撮り終え、歩き出す。郁を真ん中に、横に広がって。手を繋いで。 「郁」 瀬伊が、静かに喋りかけた。 「雨の日は……郁に会えた日だから、好きだ」 郁は、瀬伊の言葉を受けて、きょとんとした顔をしている。 恥ずかしいのか、瀬伊の気質なのか判断がつきにくいけれど。 「もう少し、郁にわかりやすい言葉で言ってあげればいいのに」 「うっと、……えと? 瀬伊おにーちゃん、あめ、すきー? 貴瀬おにーちゃんも?」 「俺? うん。俺も好き」 「ずっといっしょ?」 「うん? ……うん。ずっと一緒だよ。これからは、もう、ひとりぼっちになんかならないからね」 俺も、瀬伊も、一緒だよ。 繰り返し言ってやると、郁は笑った。 「いくね、あのね、……すこしだけ、あめのひ、すきになれるかも」 「そうなの?」 「うんっ。やくそくしたひ、だから!」 「……あれ?」 工房へ向かう途中で、傘を差していない人物がいることに気付いた。 高い背と、髪の色でもしかしたらと思ったけれど。 早足で近付いて、その人の様子を窺ってみたら案の定。紡界 紺侍(つむがい・こんじ)だった。 「や」 「あれ? 貴瀬さん」 「どうしたの、傘も差さずに。散歩?」 「だったんスけど。途中で傘、あげちゃいまして」 「あげっちゃったの?」 「傘ないー、って子がいたもので」 「優しいなぁ。でもそれで自分がびしょ濡れじゃ、だめだよ。風邪引いちゃう」 だからこっち、入りなよ。傘を差しかけ、微笑みかけた。 「じゃ、ありがたく」 さして大きくもない傘に、二人で入る。 濡れないかな、と気になって仕方がないので、傘は向こうに傾けることにした。 「それ、貴瀬さん濡れないスか」 すぐに気付いて気遣われたので、「平気だよ」とバレバレの嘘を吐く。 だって、彼を濡らすわけにはいかないじゃないか。 ――鞄、カメラ入ってるかもだし。 ――風邪とか引いたらさ、絶対、誰にも言わないでこっそり治すよね。 「じゃさ。もっとくっついちゃいますか」 「へ? ……わゎっ……」 ごく自然に肩を抱かれた。近い。緊張する。声が出ない。どきどきのあまり、傘を取り落とした。紺侍が拾って、差す。何事もなかったかのように、歩き出した。なんだろう、これは。どうしよう。 ――あ、でも、濡れない。これ。 なら、これがベストなのだろうか。頭がぐるぐるするけれど。 「貴瀬さん」 「え」 「顔赤い」 「っ」 「意識しないでよ。オレまで意識しちゃうでしょ」 ――ああ、俺、からかわれてる。 「……俺、少しくらい濡れても平気なのに」 「濡れないに越したことはないっしょ」 「濡れ鼠さんに注意されるとは思わなかった」 「あはは」 軽口のやり取りを幾度かかわして、落ち着いてきた。 その頃にはもう工房は目の前で、自然と離れていたのだけれど。 「クロエちゃんは、あめ、すきー?」 窓辺で、てるてる坊主を見ていたクロエに話しかけた。 「いくおにぃちゃん」 「いくはね。あんまりすきじゃなかったの」 嫌なことばっかりあって、その記憶から逃げられなくて。 好きか嫌いかでいえば、間違いなく嫌いだった。 「けど、みんながしんぱいしてくれて、やさしくて、えがおいっぱいわけてくれたから、もうだいじょーぶ、なの!」 だから、今度は郁から笑顔のおすそ分け。 もし、クロエが雨嫌いだったとしたら。 この笑顔で、どうか元気になってほしいと。 果たして、クロエは、にこりと笑った。いつもほど、明るくはなかったけれど、それでも笑ってくれた。郁は、それだけで嬉しくなった。 「あのねなのね。 いく、クロエちゃんも、瀬伊おにーちゃんも、貴瀬おにーちゃんも、綺蓉も、みんなみんなだーいすきっ」 ぎゅ、っと抱きしめて「すき!」と繰り返す。 「わたしもすきよ!」 クロエがくすぐったそうに、楽しそうに言ったから、郁も「うん!」と頷いて笑った。