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恐怖の五十キロ行軍

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恐怖の五十キロ行軍

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   プロローグ

「入ります」
 ヘンリー中佐の教官室に入ったその軍曹は、片眉を小さく上げた。客が来ているのは知っていた――彼らのために、軍曹はその資料を持ってきたのだから――。だが、些か変わっていると言わざるを得ない客人だ。
「ご苦労。下がっていいぞ」
「――はっ」
 軍曹はヘンリーへ資料を渡すと、軍人らしいキビキビした態度で退室した。どの道、部下が上官のすることに疑問を持ってはならない。その気があれば、後でヘンリーが教えてくれるだろう。
 来客用のソファに身を沈めていたのは、エッツェル・アザトース(えっつぇる・あざとーす)和泉 猛(いずみ・たける)だ。共に他校生であるが、パートナーを今回の訓練に参加させるべく、ヘンリーの元へやってきた。
 変わっていると軍曹が思ったのはエッツェルのことで、真っ白というより青みがかった肌はどことなく不気味だし、六十センチほどの人形を自分の横に置いているのも、気味が悪かった。
 一方の猛はごくごく普通の日本人らしかったが、顔に大きな傷跡があるのと、口の端をぴくりとも動かさない様子が、エッツェルと合わせると妙におかしな雰囲気を醸し出している。
「本人ではなく、パートナーのみを行軍に参加させる、ということでしたな?」
「ええ。私はご覧の通り、ひ弱なものですから、行軍なんてしたら太陽に焼かれて死んでしまいます」
 エッツェルの顔色を見て、ヘンリーは納得した。猛は、
「俺は研究者ですので。パートナーの訓練目的です」
 提出された書類を見て、ヘンリーはこの説明にも頷いた。猛のパートナーは、強化人間である。
「お二人が参加しないということであれば、まずある程度の事態は承知して頂きたい。訓練である以上、こちらとしても死人は出ないようにしますが、負傷については保証しかねる」
「構いません」
 猛とは正反対に笑顔を浮かべ、エッツェルは即答した。猛も問題ないと言った。
「歩く距離は五十キロ。平坦な道、平原、森、崖、急流となります。どこかに我が校の上級生が潜んでいて、攻撃を仕掛けます」
「望むところです」
と猛。
「結構。――では一筆お願いします。『たとえどんな怪我を負おうとも、教導団に一切の責任はない』と」


 第四師団の沙 鈴(しゃ・りん)は、ヘンリーの命令で、教官役として生徒たちの装備をチェックしていた。既に攻撃チームの点検は「やりすぎないように」との注意と共に終え、今は行軍チームを見回っている。
 ほとんどが規定を守っているが、特別に参加した他校の生徒には、鈴としては些か頭の痛くなるような者もあった。
 アキラ・セイルーン(あきら・せいるーん)は、葦原明倫館の生徒だ。夢は「パラミタ全土を踏破する!」ことで、その一環として参加した。やる気は満々だが、装備がまずかった。
「え、これじゃ駄目なのか?」
「物はいいのですが」
 鈴は嘆息した。
 履き慣らしたハイキング用の靴と厚手の靴下、夜や急な天候の変化に対応するための厚めの服やレインコート。なるほど、ただの山登りなら問題ないが、これは行軍である。軍隊の装備は「物が悪い」と決まっている。雨が降れば染みるし、靴擦れは出来る。防水加工の靴下は、サイズが合わずに血が止まるほどきつかったりする。レインコートも色が違う。OD色か迷彩色でなければならない。
「あちらへどうぞ」
 こんなこともあろうかと、他校生用に装備一式を貸し出している。幸い、アキラは平均サイズであった。迷彩服と装備を身につけ、四十キロの荷を背負った途端、
「……重っ」
と、低く唸った。「別に教導団じゃねーんだから四十キロの荷物ぢゃなくてもいいじゃん……」
「特別にお邪魔させてもらっておるのじゃ。規律に従うのは当然であろう?」
 窘めたのはパートナーのルシェイメア・フローズン(るしぇいめあ・ふろーずん)だ。
 だけどさー、とアキラはブツブツ言っている。ちょっとやる気も減退したようだった。


 和泉 猛のパートナー、ルネ・トワイライト(るね・とわいらいと)の荷は、ゆうに四十キロを超えていた。減らしてもいいですわよと言われたが、ルネはかぶりを振った。
 この荷を背負い、己の体力と知恵のみを頼りに五十キロの道のりを歩き切るつもりだ。


 叶 白竜(よう・ぱいろん)は、最近、趣味と実益を兼ねて山岳部を立ち上げたばかりだった。そのための訓練も兼ねて、この行軍に参加した。
「白竜」
 声をかけてきたのは、トマス・ファーニナル(とます・ふぁーになる)だ。
「この前話したように、いくつかのチームに別れることになった。地図はそのチームごとに渡されるんだが、残念ながら君にはない。でも、大丈夫だろ?」
 白竜は頷いた。昨年も参加しているので大体の地形は分かっている。
「去年は分からなかったけど、この訓練の目的は、離脱者を出さずに行軍すること、それによって目的地たる戦闘地まで兵力をなるべく温存して進むことだと思う。軍隊において、新兵の戦死率は高いからな。つい先走るし」
と、去年の自分を思い出してか、トマスは苦笑した。彼はつい誘いに乗って、去年は早々に脱落したのだ。
「今年はそうならないよう、僕らがフォローしていこうと思う」
「了解しました」
「じゃあ、よろしくね」
 他のメンバーへ地図を配りにトマスの背を見ながら、白竜は頭の中でルートを描いた。攻撃だけは想像する他ないが、それを考えに入れたとしても、
「私たちの場合、ゴールは二時間早く、一〇〇〇とするべきだろう」
「それって、オレも入ってる?」
 ふらりとやってきたパートナーの世 羅儀(せい・らぎ)が尋ねた。
「無論だ。先頭グループに入るぞ」
「あのー、白竜? なんかオレたちの荷物、他より多くないか?」
「私たちは上級生だ。負荷としては五十キロが適当だろう」
「……なんか楽しそうだな」
「そうか?」
 うん、楽しそうだ、と羅儀は思った。元より白竜は、こういったことが好きなのだ。羅儀もまた、二人で山歩きした経験もあることだし、昨年はきちんとゴールしている――昇進はしなかったが――から、気は楽だった。
「一番の難所は、崖と急流だ」
 白竜はザイルをチェックした。その背中がやっぱり楽しそうで、終わったら大反省会をしつつも美味い酒が飲めそうだな、と羅儀は考えていた。