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リアクション
●Honey Hush
宇宙工学部、研究棟。
白い外壁を単身、登攀する姿があった。壁のわずかな突起や段差に手をかけ、両手だけで身を支え持ち上げる。突起が数センチという危険な足場であろうと躊躇しなかった。もどうしても段差がないときは窓の隙間に剣を差し、これを足場にさえしていた。その身のこなしの巧みさは驚異的だ。まるで蟻や蜘蛛のようにするすると登っていく。
一見華奢な姿であった。女性と見紛うほどに容姿端麗でもあった。けれど彼は剣豪である。かの英霊宮本武蔵に教えを受ける九条 風天(くじょう・ふうてん)なのである。華奢に見える肉体も、理想的な肉付きができている証拠に過ぎない。
(「丈夫な段ボールが尽きてしまいましたね……これほど多数の怪ゴムがいるとは……」)
見学会の途上、風天は何度も怪ゴムに襲われた。襲われている人を助けてもきた。そのたび、剣を使わず捕らえ丈夫な段ボールに押し込んできた。予想通り段ボールで塞いでしまうとゴムは脱出することができず、分裂もしないようだった。
とは相手は無限といっていいほど出没するのである。きりがない。ブラックコートが敵を呼ぶ原因というので、寒風にも負けず風天はこれを脱いでいた。
(「大方どこかの研究室の失敗作といった所でしょうか……」)
原因を調査すべく動き、いつしか彼はこの結論に達したのだった。それも、ゴムのような材質を使っているところが最も疑わしい。工学部や理学部は調べたものの、宇宙工学部にもそうしたものが使われると気づき、今もこうして隠密行動に及んでいた。
たった一つ、灯りがついた窓目指し風天は登りつづける。気のせいかもしれないが、そこからどす黒いオーラが湧き出ているように感じたのだ。
気のせいではなかった。
その部屋の内側では、部屋の主、如月正悟が武神雅と対面していた。
「ふふ、やはり正悟が生み出したものなのだな。例の怪ゴムは」
「本当にすまないと思ってる。褐色のやつはきっと、夜食に食べていた焼きプリンのせいだし、白のやつは多分、黒服じゃなくて白衣ばかり着てストレスのたまる仕事をつづけていた悪影響じゃないだろうか。人に迷惑をかけるつもりじゃなかった」
ぺこりと正悟は頭を下げた。
「だが」
顔を上げた正悟の顔は、烏の濡れ羽色という表現すら生ぬるいほどの黒い黒い本当に黒い笑いに満ちていた。
「リア充には全然すまないとは思ってないぞおおおおお!! むしろ、よくやってくれたと桃ゴムたちを抱きしめてやりたい! リアジュウシネー!!」
(「愚弟が聞いたら、本気で哀れみの籠もった目を向けるだろうな……」)
この場に弟、武神牙竜がいないことに雅は天に感謝した。やはり一人で来て正解だった。
ところが、
「むむ……この感じ!」
動物のように身を屈め、血走った目で正悟は言った。
「リア充のにおいがする!」
第六感か、それとも徹夜続きで本能が覚醒したのか。いずれにせよその読みは正しい。
「正悟さん、そこにいるんですね!? 何なんですか今回のゴム騒動は!」
扉の外から聞こえる声はセルマ・アリスと、
「成敗しに来たぞ!」
牙竜だ。
「くっ、もう嗅ぎつけてきたのか! この部屋はリア充の立ち入り禁止だ!」
正悟は怒鳴り返し、厳重に鍵をかけた。
「何言ってるのよ! あのゴムのせいで色々大変だったんだからねー!」
久世沙幸と、
「大人しく降伏すれば、大学キャンパス内引き回しの刑くらいで許してあげますわよ。あと、焼き印」
藍玉美海までいるようだ。
「焼き印ですか!? じゃあ、魔法少女☆ハニースイーツとしては、蜂蜜風呂の刑くらいの甘い裁量で許すということで♪」
騎沙良詩穂も来ているらしい。ぴちゃぴちゃと何かが滴り落ちるような音を立てているのはなんだろう。
「みんな下がって、扉のロックを撃ち抜くから」
林田樹の声がして、つづけざまに数発、拳銃が電子扉のロック部分に撃ち込まれた。
「甘い! 甘いぞ! この研究室には機密事項が多いからな、ドアは特注の鋼鉄製だ! そんな程度では百年かかっても開けることはできんぞー! ……よく閉め忘れるけど」
せせら笑っておきながら急に心配になって、正悟はキーをチェックした。(ちゃんと閉まっていた)
「正悟ちゃーん、遊びに来たよー。あら、みんなそろってどうしたの?」
事情を全く知らないノーン・クリスタリアが来て、このものものしい状況に目を白黒させているようだ。
雅は溜息して正悟を見た。あいかわらず目が充血しきっており、背を屈めた姿勢で、
「リア充になんか負けないぞー。負けないからなー」
などと悲しすぎる言葉をブツブツと呟いている。
「なあ、正悟……」
「いーや、いくら雅さんの頼みでも、田中やセルマみたいなリア充連中に降伏なんか絶対しない!」
「ばか、違う。ちゃんと私の方を見ろ」
目を上げた正悟は仰天して、座っていた椅子から転がり落ちてしまった。
雅が上着をすべて脱ぎ去り、ブラジャーだけの姿になって、誘うような目つきで彼を見ているのだった。
「……ぁ、あの……」
正悟はもう、口がきけない。呼吸も忘れたのか、口をぽかんとあけたまま座り込んでいる。
くすりと微笑むと雅は床にうずくまり、そのまま、雌猫のように彼に忍び寄って、そっと抱きかかえた。夜空の星のような瞳を、いっぱいに潤ませて囁きかける。
「オマエがほしい」
「……だ、だって外、人……」
「人がいたって構うものか。むしろ聞かせてやろうじゃないか。愚弟にもな」
ガチガチに固まる正悟を抱いたまま、耳に唇をつけて雅は問うた。
「なあ、いいだろう? イエスと言ってくれ」
「は……は、は、はい」
その瞬間、窓が激しく音を立てて割れ、そこから桃色のゴムが飛び込んで来た。
「リアジュウシネーーー!!」
もちろんそれは、正悟の顔面に飛びついたのである。
「た、助けて……たす……うぷっ、自分の創造物に……こんな」
桃ゴムに締め上げられながら転がる彼よりこれを引き剥がしたのは、ゴムが飛び込んで来た窓から侵入した風天だった。
「大丈夫……ですか?」
正悟とはいえば、青菜にたっぷり塩をかけたようにうなだれてしまっていた。
その間に雅がドアを開け、皆を迎え入れている。
「って、みやねぇ、何してるんですか?」
彼女がいることに、そして、その格好に、牙竜はひたすら目を丸くした。
「さぁ」
雅はしかし、謎めいた微笑を浮かべるのみである。
「コタロー、銃、借りるよ」
「う?」
樹は、背負ったままの林田コタローに声をかけた。歩き疲れはしゃぎ疲れたコタローは、ずっと彼女の背で眠っていたのだ。
「こたは、ねーたんのせなかだいしゅきれす!」
寝ぼけてそんなことを言うコタローに微笑しながらも、樹のとった行動は強烈だった。アーミーショットガンを構えるや、
「さて犯人、ちょっと踊(ダンス)ってもらおうか」
正悟の足元にバララッと散弾をぶちまけたのである。当然、正悟は「うひゃあーー!」と飛び上がってタップダンスを踊り、
「あ、あいつがやったんです。真犯人は武神牙竜っ、俺止めたのに!」
などと見苦しい言い訳をして、余計踊らされてしまった。
「大丈夫だって! もうじき大丈夫になるんだって! 本当ですうっ!」
銃弾の恐怖に引きつり、踊りながら、
「実はこのゴム、ぴったり十二時間で消滅する性質なんだから! せいぜいあと五分くら……嘘じゃないですうう!」
正悟は身悶えしつつ叫んだ。
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「ん?」
ルカルカ・ルーは、さっきまでぱっつんに張っていた胸が、急にしぼむのを覚えた。