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善悪の彼岸

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善悪の彼岸

リアクション

 ――ヴィシャス邸・アンゼリカ自室前――



「何をしている?」
 カールハインツは、アンゼリカの部屋の前で固まって話をしていた七瀬 歩(ななせ・あゆむ)達に声をかけた。
 彼女らも護衛にきている者達なのだろうが、その挙動の怪しさは――護衛としての堂々たるもの――ではなかった。
「カ、カールハインツ君……。ねぇ、誰かを死なせたくなくて盗みを止めた君に、今度は盗まないと大切な子が死んじゃうかもしれないなんて……。辛い、よね?」
「……だから、どうだって?」
「あたしはね、カール君の悩みを少しでも分かち合いたいし、力になりたいの。だから、考えたんだよ。盗む以外の方法を」
「そんなもの……」
「娘のアンゼリカと一芝居打とうよ!」
 そう切り出したのは、七瀬 巡(ななせ・めぐる)だ。
「アンゼリカも彼女と同じ病気、同じ手術が必要だって、一芝居打つんだよ。キミと同じ年の子が、お金がなくて苦しんでいる。だから、パパにお金を協力してもらうために、ちょっと……って!」
「……無理だ」
「商人をペテンにかける。流石に無理難題かもしれないですが、かの新撰組の行い――即ち殺人のように、その時だからこそまかり通ることもあるとは思いませんかな?」
 とは、伊東 武明(いとう・たけあき)である。
「お前らの言っていることは無茶苦茶だ。今更そんな話ができるほど――ッ」
「でも、カール君が経験から一度間違ってるって感じたことなんでしょ? 盗みは。だからそれは、簡単に覆して欲しくないし、貫き通して欲しい」
「……」
「善悪の判断は外部から。そして、カールハインツ殿は経験もした上での今の外部という立場で、どのように判断なさるのですかな?」
「オレは……」
「これが成功すれば、ボク達はヴィシャスさんにもアンゼリカにもお礼はするよ、一生守るなんていうくらい、尽くしちゃうよ!」
「カール君……」
 歩は力なく行き場を失ったカールハインツの手を握り、真っすぐ目を見て言葉を紡いだ。
「どれが正しいなんてわかんないけど、ただ、自分の大事な人を助けたいって思うことは自然なことだし、誰だってそう思う『正しいこと』なんだと思う。でも、その手段が盗みとか犯罪なら、いつか自分たちに返ってくるのが怖いんだよね。だから、ね、あたし達ともう一度、残された時間はもう少ないけど、盗む以外の方法がないか考えてみない? あたし達も、カール君の責を一緒に負うから……」

「それほどまでの決意と情を受けながら、首を振れない理由を説明していただきたいですわ」
 歩達の会話を聞いていたのか、イルマ・レスト(いるま・れすと)が凛とした姿勢を保ちながら、カールハインツの前に立った。
「ヴィシャス氏は確かに色々と良くない噂もあります。元義賊の貴方からみれば、狙いを定めやすいでしょう? ですが、だからといって持ち物を盗んでよい、などという理屈は通りませんわ」
 イルマはそのままカールハインツに顔を近づけ、捲くし立てるように言った。
「そもそも、主の物を盗まれたりすれば、使用人はただでは済みません。最悪、クビ、そんな大失態をやらかした者など、どこも雇いませんよ。貧しい者の為とか、金持ちからしか盗らないとか、くだらない自己満足の為に、真面目に働いていた者が泣くという事を、考えたことが一度でもあるんですか?」
 そして、正直な考えを告げる。
「私、貴方を疑っていますわ」
「そんなッ!?」
 驚いたのはカールハインツではなく、歩達の方だ。
「その驚きに驚きよ」
 イルマのパートナーである朝倉 千歳(あさくら・ちとせ)が言った。
「回りくどい聞き方はしないわ。カールハインツさん、ミュラーと最近会った?」
「……ああ、会ったぜ。一方的に告げられただけだがな」
 エリザの病気をその時に知ったのだから、否定するわけにはいかなかった。
「正直、判官としては、職権乱用と言われようとも、宝石強盗計画の容疑で緊急逮捕すべきなのかもしれないが、弁解の余地は与えるわ」
「弁解? ハハ、何を言えというのだ、このオレに!」
「ミュラーとの関係。何を思って今回の警備についたのか。なにより、なぜ最初からミュラーの情報をすぐに依頼主であるヴィシャス氏や私達に伝えなかったのか。客観的に判断すれば、ミュラーを手引きするために潜入してきたと疑わざるを得ないだろう?」
「……オレにだってすべきことも、覚悟もある」
「覚悟……。ミュラーを、かつての仲間を、その手で捕えらる覚悟があるのか?」
 千歳の問いに、カールハインツは真っ直ぐな瞳を向けた。
「そうでないのなら、君はここにいるべきじゃない」
「ちなみに」
 すっとカールハインツ達の会話に入った六連 すばる(むづら・すばる)は気になる人物のことを話し始めた。
「この問題の中心にいるエリザですが、わたくしが先生から調査を頼まれて行った時には、既に苦しみに耐え、寝ている状況が続いていました。医学、薬学の見地から見て――余命があるのならば――当にその日を迎えてもおかしくはないかと」
「エリザがもう……ッ!?」
「あたしは他のことを調べてあげたわよ」
 ヴェルディー作曲 レクイエム(う゛ぇるでぃさっきょく・れくいえむ)はいくつかのメモに目を通しながら、事務的に淡々と告げた。
「孤児院の経営はよく潰れないと感心するくらいに綱渡りねェ。まぁ、牧師は金回りが少なからずいいようだけど、ちょっと『大口の援助の人手』が減ったのが痛いわね。ヴィシャスの仕事は、言う必要もないでしょう? 彼と関わって泣かずに笑えた人はどれほどいたかしら? 娘のアンゼリカは不自由のない、ただのお嬢様といったところね。あと、そこのすばるが過去に移植をされかけたデータなんかも今持ち合わせてるけど、いるかしらん? ……あらあら、そんなあたしの言葉が耳に入らないくらい、ショッキングな報告でもあったかしらねェ?」
 カールハインツは手で顔を覆いながら――自分が正常に真っ直ぐ立っていられているのかどうかも怪しい足取りで――エリザの名を何度も呟いた。
 臓器移植及び売買の話で思い出したくない過去が蘇り、青ざめ始めたすばるを抱きよせながら、アルテッツァ・ゾディアック(あるてっつぁ・ぞでぃあっく)が続けた。
「さて、このようなことになってくると、誰が正しいのでしょうかね。金に執着し、他人を泣かせて生きる者。はたまた、命に執着し、モノを奪ってでも救おうとする者。……まあ、ボクは生物の教師ですから、生物学的観点から話せば、生き物は大なり小なり『命を奪って生きて』います。……さあ、時間です。どのように判断するかはベッケンバウワー君にお任せします。ボク達はアンゼリカの様子を窺ってきます。誰も護衛にいなければ、守らなければなりませんから」
 そう言ってアルテッツァ達がアンゼリカの部屋に入っていっても、カールハインツはただ、佇んでいた。

 その空間だけぽっかりと虚無の穴が空いているような――誰か、何かがあるはずなのに、何者にも察知されずに過ごされそうなほどの存在にすら感じた。
 声を掛けられる雰囲気ではなかった。
 このまま声を掛けなければ霧散しそうな、それでいて声を掛けても溶けてしまいそうな。

 1つ、2つ、ゆっくりと大きく息を吸い、吐きだした三井 静(みつい・せい)が、カールハインツの横に並ぶように静かに立ち、言葉を選んだ。
「法を守るべき。それでも……自分の望みを法が阻むなら、そのときは法という正義を裏切る用意はある。まだ、そんな強い望みを持ったことはないけれど」
 カールハインツの耳にその言葉は届いているのか。
 否、届いていない。
 ならば、届きやすい言葉を――扉をノックできる言葉を選ばなければならない。
「僕は……僕と契約してくれた唯一無二のパートナーしか、許せていないよ。でも今日は、そんな頼れる人はいない。だから僕は……そう、自分で決めて行動しなくちゃなんだ。あなたもそうでしょう? カールハインツ・ベッケンバウワー」
「……」
「もし、あなたがミュラーを助ける形になっても、僕は止めやしないよ。止めない、止めないけど……僕の事前忠告は、もう済んでるよね? 法は、守るべき」
「……オレは……」
 渦巻く。
 渦巻く歯痒さ、苛立ち、消失感、焦燥感、孤独感、絶望。
 様々な感情がカールハインツの心を痛め、全てを見失いそうになる。
 だが、ここにきた以上、もう引き返すことはできない。
 歩いてきた以上、その手でチャンスを掴まなければならない。
「……見回りの続きをしてくる……」
 カールハインツは、再び歩き始めた。



 ――ヴィシャス邸・竜の涙前――



「葵ちゃん……怒らないで?」
「依頼主のヴィシャス氏もいい人とは言い難いですね。大切なものを守るのにも金勘定が来ますか……」
「……いいんだよ。人にはそれぞれ大事なものがある。でもね、どんな理由があっても犯罪を見逃すわけにはいかないよ!」
 葵は切り替え、力強く宣言した。
「うーん、なんで人の物を盗もうとするのかなぁ? エリザさんだって、盗まれたお金で生き延びても、幸せにはならない。それに原因が自分だと知れば……」
「そうだね。でもアルちゃん、そういうのは本人の前で言わないと!」
「ふぇ〜ん、それはちょっと怖いですぅ〜」
「あはは、本当にアルちゃんは臆病だね〜。そんなアルちゃんに変わって、あたしが言ってやるんだ! エレン、警備を怠らないようにね!」
「はい、何人にも竜の涙は触れさせません」
 少し怯えるアルを庇うように、葵とエレンディラは互いの背をカバーするように、警備に感覚を研ぎ澄ませ始めた。



 時計の針は間もなく――午後10時。