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【怪物の名は】

 某月某日。
 ヒラニプラの、とある奥深い山中にて――。

 朝霧 垂(あさぎり・しづり)は、全体的に薄汚れ、ところどころ穴が空いたり裾が破れているメイド服に身を包んだまま、雪冠を山頂に望む峻険な斜面の中腹辺りで、ひとり、焚火を前にしてぼんやりと宙空を眺めていた。
 自らを徹底的に鍛える為にと、シャンバラ教導団の所属する兵科に一か月間の無償休暇申請を提出し、着の身着のままでこの険しい山岳地へと足を運んだのが、丁度二週間前のことだった。
 食糧は持たず、飲料水だけを携行して過酷な修練に挑むというのは、一般の軍人としては本来、やってはいけないことである。
 そういう特殊な生存訓練は特殊部隊への所属が認められた段階で初めて許されるのであり、自身の生命維持能力について確たる保証を持ち得ない一般兵は、申請を出した時点で却下を食らうのが通例であった。
 だから垂は敢えて事情を説明せず、無償休暇申請という形で教導団を一時的に離れ、自らの責任と裁量のみで地獄のような日々に己を放り込んだのだ。
(我ながら、この二週間で随分と成長したもんだな……)
 垂は、焚火にくべる串刺しの川魚をぼんやりと見つめて、不意に苦笑を浮かべた。
 なにぶん初めての生存訓練ということであり、開始当初は川魚はおろか、食糧になり得る小動物を捕まえることすら、ままならなかった。
 その為、事前に知識として仕入れていた山菜や果物などを求めて山中をうろつき回っていたのだが、実はそれらの自生食糧でさえ、中々入手出来ない日もあった。
 それが、今はどうだ。
 浅瀬に足を踏み入れて自らを自然と同化し、微動だにしない状態を維持することを数十分も続け、足元に川魚が不用意に近づいてきたところで右腕を一閃させ、獲物を宙空に掬い上げるという芸当が可能なまでに、垂は己を鍛え抜くことに成功していた。
 如何にコントラクターが優秀な肉体と精神に恵まれているとはいえ、僅か二週間でここまでの境地に達するというのは、そうそう出来ることではない。
(でもまだ、こんなのは通過点だ)
 垂は焚火にくべていた川魚の串刺しに手を伸ばしながら、渋い表情を浮かべる。
 本格的な生存訓練を受けている特殊部隊員ともなれば、もっと激烈な環境で、それこそ生死の境を行き来するような地獄の中でも、自らを完璧に律することが出来るのだという。
 今の垂は、自分がまだそこまでのレベルに達していないことを理解していた。
 訓練を続ければ続ける程、自分の今の実力というものが嫌でも分かってしまうものなのである。
 己の現在の能力を冷静に見極めることが出来るのも、実力のうちだ、と誰かがいっていた。まさにその通りだと垂は考えていた。
(あと二週間で、どこまで到達することが出来るか……)
 これまでの訓練内容を漠然と思い返しながら、垂は今後の訓練予定とその内容について、思考を走らせる。
 と、その時、垂は不意に何かを思い出したかのように、あっと声をあげかけた。
(おっと、そうだ……確か一か月以上の無償休暇申請を出した場合は、二週間毎に所在と現状を報告しなきゃいけないんだっけ)
 だが今の垂には、無線報告の為の機材は何ひとつ用意出来ていない。
 勿論、教導団の規則を破る訳にもいかないので、何とかして教導団本部に連絡を取る必要があった。
(確か……ここから5キロ程下りたところに、小さな街があったな)
 そこまでいけば、教導団本部に連絡を取ることが出来るだろう。
 垂は手にしていた川魚の串焼きを手早く平らげると、焚火を処分し、薄闇の中を駆け始めた。


     * * *


 峻険な山の中腹に位置するその街の名は、オーヴァルといった。
 垂は薄汚いメイド服という格好のまま、夕暮れの食事時で賑わう街の中心部へと足を運んでいった。
 ところが――。
「おい、あんた。この街に、何の用かね?」
 不意に大通りを行く一台のジープが停車し、その運転席から中年の男が声をかけてきた。
 垂は、その胸に光るバッヂから、この男がオーヴァルの主任治安官であることを知った。
「電話を借りたい。確か、公共の無料公衆電話があった筈だが」
「そうかい。なら、案内してやるから、乗っていきな」
 主任治安官は、カーズルと名乗った。
 垂はカーズル治安官の言葉に甘えることにして、ジープの助手席へと乗り込んだ。
 ところが数分後――垂が連れてこられたのは、街外れの吊り橋前であった。カーズル治安官はにこやかな表情で、しかし有無をいわさぬ高圧的な空気を放ちながら、垂を車外へと押し出した。
「ここから50キロ西に行ったところに、緊急連絡用の無線公衆電話がある。整備が行き届いていれば、今も使える筈だ。じゃあ、頑張りな」
 それだけいい残し、カーズル治安官はジープを街中へターンさせようとした。
 ところが垂はジープの前に素早く立ち塞がり、淡々とした表情で運転席のカーズル治安官を見つめた。
「……何故、こんな嫌がらせをする?」
「何故だって?」
 カーズル治安官はジープを降り、ホルスターから拳銃を取り出しながら鼻で笑った。
「お前さんみたいな、如何にも胡散臭い奴を街中に放置する訳にはいかん。絶対何かトラブルを起こすに決まってる……俺は治安官として、そんな不埒な輩を追い出す義務があるんだ」
 いいながら、カーズル治安官は銃口を垂の面に向けた。
「あくまで逆らおうってんなら、お前さんを浮浪罪で逮捕する」
「……そんな法律は、ヒラニプラには無かった筈だが」
 垂の指摘を受けても、カーズル治安官はまるでどこ吹く風だった。
「この街じゃあ、俺がルールだ。俺が法律だ。俺に逆らう奴ぁ、ただじゃおかねぇ」


     * * *


 それから、数時間後。

 オーヴァルの街のそこかしこから、夜の闇が広がる漆黒の天に向かって、幾つもの煙が上がっていた。
 いずれも、爆発やそれに類する破壊の跡から生じているものである。
 垂は、半ば戦場と化したオーヴァルの中央大通りのど真ん中で、黙然と佇んでいた。彼女の周囲には、武器を破壊されたオーヴァル自警団の連中が、哀れにのたうちまわっている。
 その中に、カーズル治安官の姿もあった。
 垂は、決して自ら戦いを挑んだ訳ではなく、カーズル治安官率いるオーヴァル自警団が勝手に垂を犯罪者と決めつけて、一方的に襲いかかってきたに過ぎない。
 だが垂は、数と装備の不利を覆し、完全勝利を収めていた。
 この二週間に亘る過酷な生存訓練は、垂が日頃鍛えている、生き残る為のあらゆる技能を徹底的にレベルアップさせていたのである。
 でなければ、如何にコントラクターとはいえ、装備も無く、たったひとりで街ひとつの自警団を完璧に叩き伏せるなど、到底出来ることではなかった。
「ば、化け物か、こいつは……」
 カーズル治安官は恐怖と憎悪が入り混じった視線を垂にぶつけながら、低く唸った。
「神は、どうしてこんな化け物を作ったんだ……」
「神ではない。彼女を作ったのは、教導団だ」
 不意に別の方角から、思わぬ声が響いた。
 オーヴァル自警団のみならず、垂もまた随分と驚いた様子で、声が響いた方角に振り向いた。
 そこに、見覚えのある長身の影が佇んでいた。
「た、大佐殿ッ!」
 垂は慌てて直立不動の姿勢を取り、敬礼を送った。
 そこに現れたのは、シャンバラ教導団法務局長のマグナス・ヘルムズリー(まぐなす・へるむずりー)大佐だった。
「朝霧中尉。今回の件については、こちらで対処する。定期連絡についても、この場で私が貴官の現状を把握したから、これ以上は不要だ。残る二週間の休暇を、好きに過ごすと良い」
「はッ……ですが、この街の現状については、自分からは説明をしなくても宜しいのでしょうか?」
 垂の疑問を、しかしヘルムズリー大佐は右手を掲げて軽く制した。
 全てを理解している、という意志表示であった。
 逆に納得がいかないのは、カーズル治安官の方であった。
「じょ、冗談じゃありませんよ、あんた……教導団のお偉いさんか何だか知らないが、街をここまで破壊されて黙って引き下がれと、そう仰るんですかいッ!?」
 しかしヘルムズリー大佐は恐ろしく冷ややかな視線を、カーズル治安官に向けた。
「カーズル治安官……君は確か、この地を収めるブレストン男爵の意向を無視し、勝手な法規を発令しているそうだな。おまけに朝霧中尉のあの階級章を無視して、教導団員に対する無法な対応を取った。これがヒラニプラ家が収めるこの地に於いて、どのような裁きを受ける結末になるのか、理解出来ておらんのかね?」
 ヘルムズリー大佐の言葉が全て終わる前に、彼の背後から教導団一個中隊に相当する制圧部隊が一斉に展開を始めた。
 カーズル治安官以下、自警団を称して半ば独裁に近い支配をオーヴァルの街に敷いていた連中を、逮捕する為であった。


     * * *


 そんなこんなの頓着があったものの、垂は再び、山中奥深くでの修練に戻った。
 オーヴァル自警団を相手に廻しても一切引けを取らなかったことが、彼女により大きな自信を与えていたらしく、残る二週間の生存訓練は、前半二週間とは比較にならない程の充実ぶりを見せた。
 最終日近くになれば、素手で凶暴な猛獣を叩き伏せるにまで成長していたのだから、その向上ぶりがうかがえるというものである。

 ヘルムズリー大佐は、垂という化け物を作ったのは教導団だといったが、それは正確ではない。
 垂なる怪物を作り出しのは、他ならぬ、垂自身だったのだ。
 この怪物が今後、どのような運命を辿り、どのような活躍を見せるのか――それは、垂本人の意思ひとつであった。