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思い出のサマー

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●スプラッシュヘブン物語(8)

 さて時間と空間は巻き戻り、ふたたびここはスプラッシュヘブンだ。

 樹月 刀真(きづき・とうま)はまぶしさのあまり立ちくらみを起こしそうになった。
 物理的にまぶしいのではない。精神的に、だ。
「……ねえ、刀真? まだそこにいる?」
 何秒か硬直していたのだろう。問いかける声を漆髪 月夜(うるしがみ・つくよ)が上げている。
 スプラッシュヘブンの心憎いところは、あちこちに恋人同士専用のスペースがあるところだ。二人が体を密着させるためにあるとしか思えない狭くて深いプールが、椰子の木陰に隠されていたりする。
 この場所もその一つといえよう。
 ただ平らな場所なのだが、女性がサンオイルを塗ってもらうには丁度良い広さの空間がある。しかも、ちゃんと日が当たるように設計されていたりするのだ。
 月夜はうまくここに彼を誘い込んで、
「サンオイル塗ってくれない?」
 と、いささか甘い口調で申し出たのだった。
 ――今日こそは、プールで大胆に刀真を誘惑するんだから!
 普通の男子が相手であれば、ここに連れ込まれただけで明確にその意志は伝わることだろう。
 問題は当の刀真が朴念仁すぎて、月夜がうつ伏せになってビキニのブラを外すまで、まったくこの展開を予想していなかったことにあった。
 ――暑いしプールで泳いだら気持ち良いだろうな……くらいの気持ちだったのだが。
 昨冬のクリスマスのときはある程度、覚悟していたし、シャンパンを軽く飲んでいたので軽口も出たものだ。思わず本音も出てしまったが、それは後悔していない。
 だが今、これは、不意打ち過ぎる。
 でも、
「お願い」
 と甘えた声でせがまれて、どうして断ることができよう。
 強大な悪には鋼鉄の心をもって挑む樹月刀真も、ことこの場面にあっては溶けた飴のような心境である。
 ――邪念よ、去れ。
 純粋に月夜がサンオイルを求めているだけだったらどうする、と自分を叱って、刀真は彼女の背に、ぬるっとしたオイルを塗りのばしていく。
 ところが、
「んっ」
「ああんっ」
「そこくすぐったい……感じる……っ」
 目に映る素肌の白さ、手に感じる素肌の柔らかさ、耳に入る月夜の声、そのすべてが、視覚触覚聴覚を刺激してやまない。
 危険だ。危険すぎる。
「そっちも塗って……そうそう、大胆にお願い」
 清純そうな乙女月夜がなんたること、媚びるようにして刀真の手を、胸や腰の下、太ももの上と際どいところへと誘うのである。
「私が教えてあげようか……?」
「えっ」
「塗り方」
「あ、ああ……そうだな」
 まるで手玉に取られているような気がする。
 ――俺、誘惑されているのか……?
 さすがの刀真であっても、その疑念を抱くのはけだし当然といえよう。
 刀真にとって月夜は自分の剣でパートナー、魂の片割れと言い切れる大切な存在だ。
 それゆえ、彼女に女を感じたときも、照れくささが先立ち、情欲を抱くことはなかった。
 ――だが、やっぱり、あのクリスマスの夜以来……。
 あのとき月夜は確かに言った。
「あなたの望むこと、なんでも私にしてくれていいわ。なんだってしてあげる」
 ――あれから、そんな素振りはなかったというのに……今になって……。
 眠っていた刀真の男性的なところが目覚めつつあった。いやもう、完全に目覚めていた。
 血が騒ぐ。獰猛に、騒ぐ。
 許されるのならいまここで、月夜を組み敷きたい。男としての本懐を遂げたい……!
 そのとき、
「はい、ありがとう」
 と月夜が身を起こし、刀真の唇に自分の唇を当てた。
 無論、ブラの紐は止めていない。
「うわ待て月夜! みみ見える!」
「じゃあ刀真の手で隠して?」
 月夜は艶然と微笑して、彼の手を取って自分の胸先に当てると、もう一度、今度はもっとずっと深くて甘いキスを彼に与えた。
 これで刀真のスイッチが入った。
 ――もう、どうなっても知らないからな!
 襲いかかるという表現しかできない動きに刀真が出たとき、するっと月夜は、彼の身をかわしたのである。
「イケない気分になっちゃった?」
 刀真の腕の下から抜け出しながら、月夜が言った言葉だ。
 そして、ばしゃん、と水音を上げ、手近なプールに飛び込んだのだった。
「続きはまた今度」
 と挑発的な言葉を残して。
 ――いつも私が振り回されているんだもん、たまには良いよね?
 月夜はくすくすと笑いながら、人魚のように泳ぎ去る。
「……やられた」
 女は魔物――そんな気分の刀真だった。
 これですっかり体温が高くなってしまった。体を冷ますには、やはりプールに入るしかないだろう。

 まだ陽は高いが、もう高月玄秀はプールから撤収している。
 といってもまだスプラッシュヘブンの敷地内だ。地続きのホテルの一室で、玄秀は元の姿で(つまり、男性として)くつろいでいた。
 プール内では一悶着も二悶着もあった。
 彼とティアン・メイは実際はともかく外見は美少女二人連れであるからして、ナンパしてくる不埒者にも何度か遭遇することになったのである。
 そのたび、気が立っているティアンは殺意全開になっていたわけだが、そこは玄秀が上手く、呪詛を用いナンパ男たちに急な便意を与えるなどして追い払った。不埒者どもは真実を知るまいが、玄秀には感謝していいくらいなのだ。下手をすればティアンに首を刎ねられていたかもしれないのだから。
 そうやって、わざとらしくキャッキャウフフと玄秀ははしゃいで見せたものの、付き合いの長いティアンにそんなごまかしは効かない。結局、ティアンの苛立ちは消えず、そうそうに引き上げと相成ったのである。
「シュウ」
 シャワールームからティアンが出てきた。
 服は着ていない。バスローブ一枚だ。髪はタオルを巻いているものの、どうも乱雑に拭いたらしく、出ている部分から水滴が滴っている。
 まだ怒っているのかと思いきや、ベッドに座る玄秀の隣にティアンは腰掛け、しおらしくうなだれたのである。
「今日はごめんなさいね。付き合わせてしまって」
 玄秀は驚いてティアンに向き直った。
「いや……僕こそ、ティアの気持ちをもっと考えるべきだったと思う」
 言おうとしていた素直な言葉だ。言うべきタイミングをはかっていたのだが、ティアンが水を向けてくれたおかげですっと話せた。
「私……殺伐としているのが日常だったから、たまには何も考えない息抜きがしたかった……それだけなの」
 ティアンは少し、潤んだ眼をしていた。
「……考えれば考えるほど、どんどん思考の袋小路に入り込んで不安になるから」
「僕は……、いや、もう、いい」
 玄秀は両腕を彼女の肩に回し、抱き寄せた。
 ティアンの頭に巻いていたタオルが落ちた。
「不安がるなと言えるほど自信過剰じゃない。でもティアには僕がいる。僕が、そばにいる。それだけは忘れないでほしい」
「なら、刻んで」
 玄秀の背に回した手に、ティアンは力を込めた。
「シュウ、その言葉を裏付けるものを私の体に刻んで」
 玄秀はもう言葉を使わない。荒々しくティアンに口づけて、バスローブを剥がし、唇から喉、喉から鎖骨、さらにその下へ、順々に舌と唇と指を使って彼女を愛撫した。
 窓のブラインドは下ろさない。午後の陽差しが差し込んでくるが、それもティアンの裸身を、美しく彩るものとして必要だ。
 ティアンがか細い声を上げた。息づかいが激しくなる。
 玄秀は逃さない。正気を保つべく身を捩るティアンを、蝶を捕らえた蜘蛛のように抱きすくめて愛した。
 ――ティア、ティアは僕のものだ。
 ティアが精神的に復活して、ただの契約者ではなく本当の意味でのパートナーになりたがっていることを玄秀は把握している。
 できるだけ、応じたいとは思う。
 快楽を与え続けて手駒にするのではない。少しずつではあるが、彼女を大切にしたいと本気で思い始めている。
 けれど不安はあった。ティアンのそれとは違う種類の不安が。
 ――ティアは、僕がいないほうが幸せになれるかもしれない。
 その不安は常に、黒い澱のように心の底に溜まっていた。
「どうしたの……?」
 ティアンに声をかけられ、玄秀は我に返った。
「気分が乗らないなら、別にやめてもいいのよ」
「違う……なんでもない」
 不安は刺激で忘れてしまおう。
 忘れるのは無理でも、封印してしまおう。
 ――今はティアンに溺れよう。このひとときだけは……少なくとも……。
 玄秀はそう決めた。
 彼は、そうした。