空京

校長室

【カナン再生記】決着を付ける秋(とき)

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【カナン再生記】決着を付ける秋(とき)
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■エンディング〜それぞれのあした(2)

 中庭、参道……まるでキシュ全体で祝っているかのように聞こえてくるにぎわいに、セテカは1人、ベッドで耳を傾けていた。
 電気はつけていない。つけなくても、窓から届く外の明かりだけで十分部屋の中は明るかった。本を読むわけではないのだから、このくらいの明るさで十分だ。
 ぼんやりと窓の向こう、藍色の空を見ていると、ノックする音がしてシャムスが部屋に入ってきた。
「やあ、セテカ・タイフォン」
「……やあ、シャムス。どうした?」
 身を起こし、ヘッドボードに背を預ける。
 シャムスはそんな彼の傍らに歩み寄り、ラップで封をされたラーメン鉢をサイドテーブルへと置いた。
「エンヘドゥが、おまえにこれを持って行ってやれと言ったんだ」椅子を引き寄せ、腰掛ける。「まだ起きれないのか?」
「もうどこも悪くはないんだが、領主命令で、数日安静にしていることになった。おかげで退屈している」
「まぁ、長らく闇に侵食されていたんだからな。仕方ないだろう」
 バァルの怒りを買ったのはそればかりではないのだが……セテカは内心苦笑した。そう思われている方がマシというものか。詳しく話して、この上彼女にまで説教されてはたまらない。
「明日、アガデへ帰ると聞いたが」
「そうだ。俺のところもだが、南も、これからが大変だな」
「ああ。どこもかしこもかなり手ひどくやられたからな。しばらくは目の回る忙しさだろう。だが、こういう忙しさならむしろ歓迎だ。わくわくする」
「そうだな」
 会話はそこでいったん途切れた。
 彼女を見つめる青灰色の瞳が窓からの光を受け、優しく照り映えている。おもむろに上がった手が横の髪をひと房とり、さらりとなでた。
「本気で黒騎士の仮面はつけないことにしたのか」
 言葉か、しぐさか。シャムスは手元に視線を下げ、つぶやいた。
「――あれは……おまえも知っていたように、女であることを隠すことのほかに、オレを守る役割をはたしていた。これまで、仮面ごしに見る世界に満足していた。だけど、気づいたんだ。あれはオレを守る以上に、ずっと厚い壁になっていたんだと。
 オレはもう、だれとも壁を作りたくない。そういうのはもううんざりなんだ」
「そうか。よかったな」
 ちょっと残念だが、と、シャムスに聞こえない声でつけ足した。仮面の下の素顔――これは長い間自分とシャムス、そしてエンヘドゥの、ささやかな秘密の共有だったのに。だがついに彼女が他人に向かって心を開き始めたという事実は、それをはるかに上回る喜ばしい出来事だった。
 じゃあ、と戻ろうとするシャムスに、セテカは手を差し出す。
「明日も俺はぎりぎりまでここから出してもらえそうにないからな。今別れのあいさつをしておこう。さよなら、シャムス。がんばれ」
「――ああ。おまえも東カナンでがんばれ」
 握手をかわして部屋を出て行くシャムスと入れ違いで、リカイン・フェルマータ(りかいん・ふぇるまーた)が入ってきた。
「……言わないの? セテカ君」
 彼の枕元まで歩を進め、リカインは抑揚のない声で静かに告げた。
 シャムスを見る目、彼女に向けた笑顔……大切そうに触れた指先で、リカインはセテカの心を見抜いてしまった。
「言ってどうなる? 彼女は南カナンの領主で、俺にはタイフォン家がある。東カナンもある。
 俺は、動くつもりはない」
 希望という水も、光も、何ひとつ与えなければ、芽はやがて枯れることを彼は知っている。――今のところ、とてもうまくいっているとは言いがたいが。
「そう…」
 リカインもまた、それ以上追及しようとはせず、先までシャムスの掛けていた椅子に腰を下ろした。
 と、その視線が横のテーブルの上のラーメン鉢に流れる。
「あ、そうだ。彼女が持ってきてくれた、これ。熱いうちに食べた方がいいわよ。麺が伸びちゃうともったいないし。私もさっき下で食べてきたんだけど、すごくおいしいから」
 静かな部屋の中、少し明るすぎる声で彼女は早口にそう言うと、テーブルの上のラーメンを差し出した。



 セテカと分かれたシャムスの胸にあったのは、モヤモヤとしたなんとも歯がゆい何かであった。その正体が分からぬために、更にモヤモヤとして、いつの間にか怪訝そうに顔をしかめる。なんというか……セテカに会う機会が少なくなるというのが、どこか――
 考え込んでいたとき、ふと視界に入った女性を見て、シャムスはそんなよく分からない何かを心の片隅に置いた。なに、どうせ大したことではないだろう。きっと。
 女のもとに駆け寄るシャムス。
イナンナ様」
「ああ、シャムス。……あら? どうしたの、そんな顔して」
「え……? な、何かおかしな顔をしてますか?」
「ふふ……気持ち悪いものでも食べたって顔よ。何か悩み事でもあったの?」
 どうやら、自分では普通を装っていたつもりが、そうでもなかったらしい。
 ほほ笑んだイナンナと話し込むついでに、シャムスはこの胸の中にあるよく分からないものについて話してみた。元の姿を取り戻した女神イナンナは、まるで妹の話を聞く姉のように――いや、この場合は弟か?――ふんふんと頷き、たまに驚き、そして最後には……なぜか呆れたようにシャムスを見ていた。
「シャムス……あなたねぇ……」
 嘆息のため息。きょとんとするシャムス。
「まあ、あなたならそうそう気づかなくてもおかしくないのかもしれないわね。でも……なぜかセテカがかわいそうに見えてきたわ」
「セテカが? なぜ?」
 この胸のもやもやとセテカは関係あるのか?
 本当に分かっていないのだな、と改めて確認した女神は、再び嘆息した。とはいえ、今度は呆れるというよりは、少しばかり笑っていたわけだが。
「いつか分かるときがくると思うわ。今は……焦らずともね」
「…………?」
 ついにはくすくすと笑い始めた女神。シャムスはますますよく分からなくなって首をかしげたが、彼女がそう言うのだったら、きっとそういうものなのだろう。気にせずとも良いという話だったので、それ以上シャムスはこのことを話すことはなかった。
 その代わり――破損したエンキドゥについて不安げに聞く。
「あれは……元に戻るのでしょうか?」
「……そうね。今すぐには無理でしょうけど、きっといつかは、修復できる日が来ると思うわ。シャンバラには優秀なテクノクラートたちも揃っているし、それに、エンキドゥ自身もまた、私の力を受け取って自己修復をしていくでしょうから」
 その言葉を聞いて、シャムスはほっとした。
 白銀のエンキドゥ……大破したそれに残されているのは、核ともいえるコックピットの胴体部分だけだが。きっと、いつかはまた、あの伝説の姿を取り戻してくれるだろう。
 勝利が、全てを元通りにするわけではない。だが、エンキドゥに未来があるように、自分たちの未来にも希望の光が灯っている。
 その光を離さぬように、シャムスは誰知らず、ぎゅっと手を握っていた。



 一方戦勝祝賀会場では。
 なぜか北カナンの老神官たちに囲まれて、長々と1人その相手をさせられているバァルの姿があった。
「……なんか、どこかで見たことあるような光景ね」
 料理を取り分けるダリル・ガイザック(だりる・がいざっく)の横で、ルカルカ・ルー(るかるか・るー)が小首を傾げ、くすりと笑う。
「よそ見をせず、きちんと持っていてくれないか? 皿が傾いているぞ」
「あ、ごめんごめん」
 ソースがこぼれ落ちる前に、ルカルカは皿の傾きを修正した。
 バァルがようやく解放されたのは、それからさらに十数分後のことだった。
「おー、やぁーっとご老体の長い話も終わったみたいだねぇ」
 フォークをくわえた七刀 切(しちとう・きり)切が、真っ先にそれに気づいた。
 順番待ちしている老神官たちの列を見たときには、こりゃ朝まで続きそうだと思ったものだが。
「セテカを言い訳に、ようやく抜け出せた」
 切の言葉をしっかり聞き取ったバァルが苦笑する。
「バァルさん、お疲れさまー」
 やれやれと肩をすくめて見せるバァルに、ミシェル・シェーンバーグ(みしぇる・しぇーんばーぐ)が料理の乗った皿を差し出した。
「なくなる前に、おいしそうなのよけておいたから」
「ありがとう。
 しかし、なぜいつもわたしばかりなんだろうな」
 本気で分かっていない顔のバァルに、とたんその場にいる全員がぷふーっと吹き出す。
「そりゃー、ほかの2人は要領がいいからじゃない?」
 目じりに浮かんだ涙をこすり落としつつ、トライブ・ロックスター(とらいぶ・ろっくすたー)が答えた。
「バァルさんは適当に聞き流したりしないで真面目にお相手をされるから、お年寄り受けがいいんですよ」
 同情するようにぽんと肩を叩く緋桜 遙遠(ひざくら・ようえん)もまた、笑いをこらえきれないでいるらしい。
 全員のくつくつ笑いは伝染し合い、やがてひとつの大きな笑い声になって、周囲の者を少なからずぎょっとさせた。
「じゃあそろそろみんなでセテカさんに会いに行ってあげましょうか」
 笑いがある程度落ち着いたころ、矢野 佑一(やの・ゆういち)がそう提案をした。
「きっと退屈しすぎて相当クサってるぞー」
「あの活発な人が、1人だけベッドの上だもんね」
「いいきみよ。今日は本当に驚かされたんだから。私たちをあんなに心配させて……少しは反省したらいいんだわ」
 ダリルやルカルカが取り分けてラップをしてあった皿や飲み物を手に、みんなで連れ立ってセテカの部屋を目指す。これだけあれば、あの部屋で二次会が開けるだろう。
 回廊へと上がる段を前に、バァルは、ふと外回廊の列柱の影にぽつんと立つアバドン――ニンフの姿を見つけて、足を止めた。
 ちょっとすまない、とみんなにことわって、そちらに歩み寄る。
「もうよろしいのですか? ニンフルサグ様」
 救出後、初めて知った彼女の本当の名前で、バァルは話しかけた。
「はい。皆さまのおかげで、ずいぶんと良くなりました…」
 あのアバドンと同じ姿、声とは思えない、謙虚さだった。いや、アバドンもまた、演技の上ではこういう姿をバァルに見せていた。殊勝なフリをしていたが、それがただの演技にすぎないのは透けて見えていた。
 だがこの女性は違う。髪の先から指先にいたるまで、誠実さにあふれ、にじみ出ている。
 あのアバドンになど、1000年かけようとも決して真似できないきよらかさ。
「助けていただく資格など、私にはありませんでしたのに」
 あのあと。
 脱出と同時に天井の一部を崩落させることでトンネルの入り口をふさいだ六黒を追った先。源泉のほとりで、血まみれで倒れている姿で彼女は発見された。最初のうち、もう死んでいるとばかり思われた彼女だったが、わずかに息があったため、治療が間に合ったのだ。
 そうして目覚めた彼女は、もう『アバドン』ではなかった。
「彼らから聞きました。あなたの強い心が彼らを救ったのだと」
「そんなこと…。私には……どうすることもできませんでした」
 ずっとずっと長い期間。あの奈落人に突き落とされた闇の深淵で、彼が何を考え、カナンに何をしようとしているか、内側から全てを感じ取れていたのに、彼女には声ひとつ、指先すら、動かすこともできなかったのだ。
 アバドンの支配が弱まって、ようやく腕1本、それもほんの少しの間だけ、動きを止めることができた。
「そもそも、私さえしっかりしていれば……何もかも、防げたことだったのです…」
 口にすることでますます自責の念で胸がふさがれる。身をわななかせ、それでも涙をこぼすまいとする彼女を見下ろしていたバァルは、沈黙の後、視線を横の会場へと流した。
「――せっかく来られたのですから、あなたも参加されてはいかがですか」
「私は……私などが出ていっては、皆さんのご迷惑になります。楽しい雰囲気をだいなしにしてしまうでしょう」
 それもまた、事実だった。彼女に――彼女の姿をした者に、苦しめられ、傷つけられた兵は多い。身内や友を失った者もまた。そんな彼女が笑顔で宴に出てくれば……場が凍りつき、少なからずもめ事が起こるのは目に見えていた。
 そんなことは決してさせないと、ここでバァルが言うのはたやすい。マルドゥークやシャムス、イナンナもまた、彼に同調してくれるだろう。だがそれでも身の置き所なく、気まずい思いを彼女がするというのなら、強制するわけにもいかないか。
 そんなことを考えているバァルの横顔を、ニンフはじっと見つめていた。今まで幾度も気軽に触れてきた彼の腕や胸元……その感触も、ぬくもりも、体は覚えている。しかしそれはアバドンで、自分ではない。彼女には、あと一歩の距離が、縮められない。
「――明日、東カナンへ、戻られるとか」
 ニンフからの問いかけに、バァルは再度向き直った。
「はい。心身に闇の傷を負ったセテカの療養には見知った地が一番でしょう。それに、一刻も早く復興の指揮もとらなければいけません。あの地ですることが山とあります」
「あの…」
「はい?」
「ご成婚のご予定が、おありと、聞きました」
「ああ。はい。すぐではありませんが」
 バァルはあの1分ともたなかった婚約者アナトとの会見を思い出した。あの様子ではおそらく、東カナンの復興にある程度めどがつくか、終わるまで、彼女は首を縦には振らないだろう。
「次は、いつお会いできるか分かりませんので……お祝いを申し上げておきます。……おめでとうございます…。奥様と、末永くお幸せに……おすごしになられますよう……お祈りいたしております」
 ニンフは静かに頭を下げた。
 かつての日々、仲間の神官たちとともにアガデの都を訪れるのは彼女のささやかな楽しみだった。そこでときおり見ることのできた優しい領主のバァルに、ほのかな恋心を抱いていたのは彼女だけの秘密。
 あの奈落人にその想いを利用されてしまったけれど……あれだけの事が起きたというのに、それでも、彼の優しさは変わらない。
 彼の自分を見る眼差し……これだけで十分すぎる。
「ありがとうございます。ニンフルサグ様も東カナンへ来られた際には、いつでも城へお越しください。遠慮は無用です」
 それでは、と背を向けて、入り口で待つ仲間の元へと去っていくバァルに、もう一度深々と頭を下げ、彼女もまた、背を向けた。
 これからの彼女には、贖罪の日々が待っている。