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それを弱さと名付けた(第2回/全3回)

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それを弱さと名付けた(第2回/全3回)

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chapter.4 空京大学(1)・平穏 


 渦中にある二校の内のもう一校、空京大学。
 蒼空学園を発った涼司たちはまだ到着していない。涼司たちが向かっていることなど知らない大学の学長アクリトは、淡々と職務をこなしていた。と、そこにドアをノックする音が鳴る。
「入りたまえ」
 アクリトの返事を聞き部屋へ入ってきたのは、ラルク・クローディス(らるく・くろーでぃす)であった。
「君は、先日直接論文を提出しに来た生徒だな。話は通っている」
 ラルクの姿を認めたアクリトが振り向き言うと、ラルクは「失礼するぜ」と軽く挨拶を済ませ、部屋の中央へと進んだ。
「で、用というのは何かね?」
 話があるから聞いてくれないか、と言ってアポイントをとってきたラルクに対し、問いかけるアクリト。ラルクは真剣な表情で答えた。
「ちょっと前に、ネットで不吉な記事を見かけたんだ」
 それは、言わずもがなふたりの抗争の噂である。間違ってもラブラブの方ではない。まあそれはそれである意味不吉というか不気味ではあるが。
「不吉な記事? ああ、私と山葉君が争うというアレのことかな?」
「ああ。やっぱり学長は知ってたか。そのことでよ、すまんが護衛の許可を貰いにきたんだ」
「護衛?」
「学長に何かあってからじゃやばいだろ? 色々恩もあるから、危険な目に遭わせたくないからよ」
「ふむ……」
 顎に手を当て、小考するアクリト。目の前のラルクは、いつでも守る準備は出来ている、といった顔つきだ。
「必要ないとは思うが、万が一ということも確かにある。職務の邪魔さえしなければ構わない」
「よっし! ありがとな学長!」
 バシン、と拳を一発鳴らし、ラルクが大きな声を上げた。
 その音に釣られるようにして……というわけではないが、直後、アクリトの元を数名の生徒が訪れる。
「私も、協力させてはくれないだろうか」
 アクリトとラルクのやり取りが部屋から廊下へと多少漏れていたのか、その内容を聞いていたと思われる姫神 司(ひめがみ・つかさ)がそう申し出た。
「君も、警備につこうとしている生徒かね」
 アクリトが、入室してきた司を一瞥して問う。彼の目に映っている司の外見は、白いフリルシャツにリボンタイがあしらわれており、下半身は膝下まで伸びているフレアスカートで覆われている。後ろに縛った髪を留めているリボンも相まって、一見とてもガードマンの格好には見えない。むしろ護衛される側の、どこかのお嬢様のようである。
「学長が許可していただければ、な」
 が、その口から出たのはまごうことなき護衛志願の言葉だった。
「お、俺の他にも学長の近くにいたいってヤツがいたか! よし、一緒に学長のことを守ろうぜ」
 アクリトが返事をする前に、ラルクが言葉を前倒しした。アクリトは開きかけた口をそのままに、司に告げる。
「……人数が増えるのは構わないが、騒々しくならないようにしてくれたまえ」
「礼を言う」
 行儀良く頭を下げ、司が言った。そのまま司は、踵を返し部屋から出ようとする。
「ん? どこ行くんだ? 護衛するんじゃないのか?」
 呼び止めたラルクに、司は振り返りながら手でカップをつくり、飲むジェスチャーをした。
「学長に飲み物を持ってくる。見回りも兼ねてな」
 ドアを開け、そのまま司が出て行く。その司を廊下で待っていたのは、彼女のふたりのパートナー、グレッグ・マーセラス(ぐれっぐ・まーせらす)ヒューバート・マーセラス(ひゅーばーと・まーせらす)であった。
「給湯室へ行くのですね。私もお手伝いさせて頂きます」
 穏やかな口調で司に同行を申し出たグレッグとは対照的に、やや軽めな雰囲気で口を開いたのはヒューバートだ。
「司ちゃん、一応見張りしてたけど、今のところ怪しいヤツは見なかったよ」
「そうか。それは良いが、きちんと見張っていたのだろうな」
「ん? どういうこと?」
「廊下を通る女性だけを見ていたのではないか、ということだ」
 ヒューバートが普段から女性に対して鋭い観察眼を発揮していることを知っている司は、じっとヒューバートを見つめる。彼は心外そうに答えた。
「ちゃんとしてたって。これでも普段から秘書とかネゴシエーターとして真っ当に働いてるんだから」
「なら良いが……」
「ま、ネットで今評判のタガザって美女でも見かけたら、さすがにちょっとは視線くらい奪われるかもしれないけどさ」
「……グレッグと給湯室に行ってくる間、ちゃんと見張りを続けておくのだぞ」
 心なしか冷たい視線を投げかけて、司はグレッグと歩き出した。

 その頃、司が学長室を出ていったのと入れ替わりで、新たに入室してきたのは志方 綾乃(しかた・あやの)である。
「……済まないが、もう一度言ってくれないかね?」
 綾乃が部屋に入るなり告げた言葉に、アクリトは耳を疑っていた。聞き返すアクリトに、綾乃はもう一度その言葉を言い放つ。
「はい、アクリト校長。もしまた山葉校長と話し合いになり、それが平行線を辿るようでしたら……いっそ、殴り合いで解決してみてはいかがでしょう?」
 アクリトが聞き返すのも無理はない。綾乃のその提案は、意外性という言葉で片付けるのが困難なほど突拍子もないものだった。しかし、綾乃は理論的にその提案の有用性を説く。
「先日も、互いの主張を互いに譲歩しないまま決着が着きませんでした。でも、それももっともだと思うんです。なぜなら、どちらが掲げる正義も間違っていないからです。あの書き込みを信じるわけではないですけど、このままでは本当に些細な火花で爆発しかねません」
「その意見は理解できる。だが、なぜそこから殴り合うという結論に至るのだね?」
「それは、この手段で得られる利点があるからです」
 眉をひそめているアクリトに、綾乃は筋道を立てて説明を始める。
「まず、どのような形であれ今回のゴタゴタに決着をつけることが出来るということ。さらに、互いに同意し、ルールを設けて決闘を行えば後腐れが残らないこと。そして、殴り合ってすべてを吐き出せば、互いの関係に新しい変化が生み出せる可能性があること。どうです? なかなか悪くないと思いません?」
「つまり、喧嘩というよりもひとつの競技として扱うというわけか」
「はい。ゴルディオンの紐だって、解いたのは知恵ではなく力です。それに山葉校長は剣の腕は確かですが、体格的にはこちらに分があると思いますので、不利な戦いにもなりづらいでしょうし」
「ふむ、面白い提案ではあるが、その理論には3つ、穴があるな」
「え……?」
 アクリトは綾乃の前にす、と3本の指を出すと、中指をしまいながら言う。
「まずひとつは、後腐れが残らないという保証がないということ。もしも審判のジャッジに不服が生まれたら? もしも競技中思わぬ横槍が入ったら? ボクシングならば着地点が定まるというのは、些か飛躍した等式に感じるな」
「そ、それはでも他の方法だって何かが起こらないとは……」
 綾乃の言葉を遮り、アクリトは人差し指を折って続ける。
「ふたつ目は、そもそもの最終目的とその解決法が一致しないこと。私の望むのはシャンバラの平穏なのだよ。平穏を目的と掲げているにも関わらず、問題の解消に拳を使うという原始的な手法はあまり歓迎すべきものではないな」
 毅然としたアクリトの反論に、綾乃は言葉を詰まらせる。アクリトは残っていた親指をしまい、綾乃の前からドアのそばへと歩を進めながら最後にこう告げた。
「最後に、解釈の相違だ。ゴルディオンの紐に関する挿話を私は、知恵と腕力の優越を決める話ではないと解釈している。アレは、物事の解決に必要であるのは機転だという話だ」
 言いながら、ドアを開けようとするアクリト。が、同じタイミングでドアが逆側から開く。
「お、学長、済まぬな。お茶菓子を用意したので、一服してはどうだ?」
 ドアを開けたのは、先ほど給湯室へ出向いた司だった。その手にはハニードーナッツとホットミルクが乗ったトレーがあった。ミルクから香るほんのりと甘い匂いは、おそらく蜂蜜のそれだろう。
「ああ、テーブルの上に置いておいてくれれば良い。礼を言おう」
 用を足しにでも行くのか、そのままアクリトは部屋を出ようとする。目の前から去っていくアクリトの背中に、司はひとつだけ、質問を投げた。
「先日別の生徒が学長と話された際に録画した映像……それとつい今しがた聞こえてきた言葉で気になったことがある。聞かせてはくれぬか?」
「何かね?」
 振り返ったアクリトに、司の言葉がぶつかる。
「学長の仰る、シャンバラの平穏とは何であろうか」
 司が何を思ってそれを尋ねたかは分からない。もしかしたら、単純に、ただ聞きたかっただけなのかもしれない。アクリトは逡巡の後に、短く答えた。
「安定、とでも言い換えておこう」
「安定?」
「誰かが権力を振りかざし、それに全員が従うのでもなく、一時の平和と争いに一喜一憂するのでもなく、長く穏やかな時がもたらされること……と、まあ聞こえ良く言えばそういうものだろう」
「……そうか」
 満足したように、司は微笑む。彼がどんな答えを口にしても、彼女はおそらくその表情を見せていた気がした。そして司は、そのまま小さくなるアクリトの背中をじっと見送った。



 ほどなくして部屋へ戻ったアクリトは、司の用意したお茶菓子を口にしながらパソコンと向かい合っていた。部屋には護衛という役割のため、ラルクと司、そしてグレッグが立っている。静けさを保ち続ける学長室だったが、ひとつの知らせがそれを急変させた。
「アクリト学長、失礼します」
 小さなノックと共に入ってきたのは、緋桜 遙遠(ひざくら・ようえん)だ。緊急の連絡なのか、遙遠はやや早口でアクリトに告げる。
「たった今、山葉校長と数名の蒼空学園生徒が大学に向かっていると連絡が入りました。おそらくもうまもなく到着すると思います」
「そうか。わざわざ報告しに来てもらって済まない」
 特に慌てるでも動揺を見せるでもなく、アクリトはゆっくりと席を立った。きっと、彼もある程度予想していたのだろう。涼司が再び自分に接触しようとしていることを。
「報告は確かに受けた。もう退室しても構わない」
 シャツの襟を正しながら、アクリトが遙遠に言う。が、遙遠は部屋を出る前に、その空間を見た瞬間から感じていた疑問を口にする。
「アクリト学長、この方たちは……?」
 言うまでもなく、それはラルクや司ら護衛の生徒たちである。アクリトがその旨を説明すると、遙遠は目の前の警備組をさっと見てから言った。
「すみません、アクリト学長。山葉校長がここに来られたら、話し合いが行われると思うのですが……この方たちも、そこに同席を?」
 別段敵意や悪気があって言ったわけではない遙遠の発言はしかし、ラルクの反論を引き出した。
「当然、一緒させてもらうぜ。学長がいつ危ない目に遭うか分かんないしな」
「……そう、ですか」
 アクリトが特に口を挟まなかったことで、彼自身もそれを受け入れていると知った遙遠は少しの沈黙の後、アクリトに言った。
「この後もし山葉校長との話し合いが行われるのでしたら、その場に生徒を置くことを控えてはもらえませんか?」
 ラルクや司らの目が遙遠へと向く。遙遠自身、ここで言うことが最適ではないということは充分承知の上での発言だろう。それでも、涼司たちがすぐそばまで近づいている現状ではこうするしかなかったのだ。
「その理由は何かね?」
 一蹴されるかと思っていた遙遠は、アクリトが耳を傾けてくれたことに一瞬驚いたが、すぐに意識をアクリトへの説明へ向けた。
「この場にも大学側の生徒が何名かいるように、あちらにも複数の生徒がついていることでしょう。その中に過激な生徒がいたり、校長や学長と考えの違う生徒、最悪の場合スパイなどもいる可能性があります。そういう者が場に居合わせれば、両校の関係に悪い影響を与えるかもしれません」
「ふむ……」
「安全性の面を考え、話し合いの場はあくまでふたりで行うのが良いのではと遙遠は思いますが、いかがでしょうか?」
 遙遠の提案を聞き終えたアクリトは、少し考えを巡らせた後、短く答えた。
「確かに、一理ある」
「では……!」
「だが、そう出来ない理由もある」
 ぴしゃりと言い切ったアクリトを前に、遙遠は開きかけた口を閉じた。アクリトは続ける。
「おそらくもう山葉君は何名かの生徒を引き連れ大学の前まで来ているのだろう。仮に私がここで大学の生徒を全員引き払ったとしても、彼ら全員を追い返したり入室させないのは困難だ。なぜなら、わざわざここまで直接山葉君と共に来るほどの気概を携えた生徒たちなのだからね」
 アクリトの先を読む力は常人のそれを遥かに上回る。おそらくその推測も、間違ってはいないのだろう。
「となると、大学側だけが生徒の入室を拒んでは対等には成り得ないのだよ。それこそ、君の言う通りどんな過激な生徒がいるか分からないのだからね」
「……それなら、遙遠が山葉校長たちを説得できれば、おふたりで話し合っていただけますか」
「山葉君の性格からして、応じるとは思えないがね」
「遙遠は、それでも行ってきます」
 踵を返した遙遠が、ドアを開け廊下を駆けていく。
 何事もないようにしてほしい。
 そう願う彼の心境とは裏腹に、辺りは不気味なほど夕日の赤を吸い込み、溶かしていた。