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第13章 前半――「畏怖」を越えて

 転がってきたカレーボールは、ノーマークだ。
 座り込んでいた本郷涼介は頭を振ると、立ち上がってキープした。ボールを止めた足がガクガクと震えており、心臓の動悸もまだ静まっていない。
(……「畏怖」の効果がまだ残っている様だな)
「クレア、立てるか。大丈夫か」
 呼びかけても、近くにいたクレアはその場にうずくまったままだ。
 味方の12番、ずいぶんと恐ろしい事をする。おかげでこちらも巻き添えを食らった。
 アボミネーションは、効果対象選択で一応敵味方の区別が可能だったはずだが――
(最初から無差別にやるつもりだったのだろうな)
 まぁ、おかげで白のディフェンスラインは壊滅したが――とりあえずは、FWにパスするか。
 その時、前に人影が立った。胸に白の22番のゼッケンをつけている。
「災難だったな、15番。本郷さん、って言ったかな」
「……別に。大した事でもない」
「弱っている所すまないが、そのボールは貰うぞ」
「飛び入りか?」
「まあな」
「何故白に?」
「見た感じ、あんたらに圧されているからな。防衛線もズッタズタにされて、ディフェンダーは全員眼が死んでいる。これじゃ勝ち目はないだろう?」
「ひっくり返すのか、あなたが?」
「そのつもりだ」
「……あいにくだが、こっちもボールを渡す気はない」
「なら奪うさ。まともなサッカーでな」
 飛び入りが動く。ボールは簡単に奪われてしまった。
 ……本郷は、再び地面に座り込んだ。
 畏怖の効果は時間で消える。あるいは、畏怖の効果をまとめて吹き飛ばすような事が何かあれば。
(今は、無理はすまい)

(兄さま? どうしたの、姉さまもしっかりして!)
 『エイボンの書』が不安そうに、フィールドにうずくまる本郷涼介とクレアを見つめる。
「味方のスキルの巻き添えを食うとはなぁ」
 ルイが唸りながら、腕組みをする。
「おじさん〜、何とかならないんですかぁ〜?」
 モナルダがルイの腕を引っ張った。
 ルイは再び唸ると、口を開いた。
「畏怖の効果は時間が来れば消えるが……いつ消えるか、というのは分かりません。ひょっとしたら、試合中ずっとこのままかも知れませんなぁ」
「そんな!」
「えぇ〜」
 ルイはまた唸る。
「……畏怖や恐怖を克服するのは、自信と勇気。それが折れたというのなら、奮い立たせる方法は、ひとつしかありません」
「……それは何ですか!?」
「教えて下さい〜」
 ルイは腕組みを解いた。
「信じる事。信じている事を伝える事。それは今の我々にしか出来ない事です……われわれ紅組応援団は、どんな時でも選手を信じる!」
 ルイは観客席側に向き直った。
「総員、本郷コール! そぉれっ!」
「「「「「ほ・ん・ごう!」」」」
「「「「「ほ・ん・ごう!」」」」
「「「「「ほ・ん・ごう!」」」」

 誰かが自分の名を呼んでいる。
 無責任な応援はやめてくれ。所詮見ているだけではないか。
 お前達は知らないだろう。あの、絶対的な恐怖を。自分の全てを投げ打っても、到底触れ得ぬと思い知る程の恐怖を。
 しばらく休ませろ。時が来たら、自分はまた立ち上がる。
 うるさい。静かにしろ。黙れ。黙れと言うのに。
 ……黙れ。
 ……。
 ……。
 ……私は今、疲れているんだ。
 ……身も心も、磨り減って。
 そのはずなのに。
(……この、こみ上げてくる熱は何だ?)
 本郷涼介は顔を上げた。
 遠い、観客席の一画。特別に設けられた応援席。
 そこに座っている者達が、総出で自分の名前を呼んでいる。
 応援用ステージでは、『エイボンの書』が体中の力を振り絞って、こちらの名前を呼んでいるのが分かる。泣きそうな顔をしているのも。
 何て事だ。
 私は、あの子にあんな顔をさせていたのか?
「……くそっ!」
 歯を食いしばる。恐怖に震える為じゃない、それに打ち勝つ為だ。
「私はまだ……戦える! たった今でも、十分に!」
(だからそんな顔をするんじゃない!)
 本郷涼介は立ち上がった。
 紅の応援席から歓声が上がった。

「兄さまぁ! 見て下さい、ルイさん! 兄さまが立ち上がりましたよ!」
「よし、次はクレアコールだ!」
「ちょっと待って〜。こっちのFWも〜、軒並み畏怖の効果〜、受けてるんじゃないの〜」
「順番に済ませていこう! 紅組応援団、これより選手を復活させるぞ! 次は、クレア・ワイズマン! その次は……」

「……やるじゃないか、さすがはダディだ!」
 椎堂紗月は感心した。畏怖の効果の中和の仕方に、あんな方法があったとは!
(早速パクらせてもらうぜ!)
「ラスティ、白でアボミネーション喰らったメンバー、目星はつけられるか!?」
 ちょっと待って、とラスティはパンフレットを開いた。
「……FBは全員、MFはふたりほど。あとはゴールキーパーの美央ちゃんだな」
「よし。白組応援団、これより選手を奮い立たす! 全員、声出していくぞ!」
「「「「「おおおおおお!」」」」」
「まずは、リベロの和輝コール! せぇの!}
「「「「ファイト! 和輝! ファイト! 和輝!」」」」
「続いては、MFの樹月刀真! トウマでコール!」
「「「「GO GO! トウマ! GO GO! トウマ!」」」」
「どんどんいくぞ、MF漆髪月夜! ツクヨでコール!」
「「「「行け行けツクヨ! 行け行けツクヨ!」」」」
「はい次! 紅12番にたったひとりで立ち向かったド根性、虎鶫涼! リョウでコール!」
「「「「負けるなリョ・ウ! 負けるなリョ・ウ!」」」」
「よし、次は……!」

 ヨタヨタと力なく走っていた安芸宮和輝は、不意に足を止めた。
「……どうしたのです、和輝?」
 掠れた声で安芸宮稔が訊ねてきた。
「応援席……私の名前を呼んでいますよ」
 安芸宮和輝が指さす応援席では、観客が総立ちで声を出し、手拍子を鳴らしていた。まるで雨音のようだった。
「あ、今度は俺の名前……」
「私の……」
「俺は……俺達は、12番に無様に屈したというのに……」
「私達、まだ試合できるのかな?」
 ミューレリアがポツリと洩らした。
「私達、まだ試合してもいいのかな?」
「勝手なものじゃの。わいらがどんな思いをしたか、知りもせぬ癖に」
 アシュレイが鼻を鳴らす。
「でも、私達がしっかりしないと、あの人達ずっとあのままですよ」
 タニア・レッドウィング(たにあ・れっどうぃんぐ)が含み笑いをした。随分久しぶりに笑った気がした。
 ひとたび藤原優梨子に屈した者達。彼らはいつしか立ち止まり、白の応援席を見つめていた。
 彼方からの声援のシャワーが浴びせかけられる。洗い流されていくのは萎縮、恐怖、絶望、諦念。
 そして、現れてくるものがある。
 ――やらなきゃいけない。
 ――やるためにここにいる。
 ――やれるか?
 ――やる。
 ――やってみせる。
 ――どうやって?
「さっき、飛び入り参加が入ってきたな」
 虎鶫涼が言った。
「こっちの選手で参加してきた。確か今、カレーボールをキープしている」
「つまり、今俺達は、両方のボールをキープしているって事か」
 樹月刀真の台詞に、安芸宮和輝が頷く。
「頭数は揃っています。飛び入りさんに合流して、紅陣地に突入して――」
「プレッシャーをかける、なんて事はしないわよね?」
 漆髪月夜の台詞に安芸宮和輝は「もちろん」、と頷いた。
「点を取りに行きます。皆さん、やれますか?」
「「「「おおっ!」」」」
 全員が頷いた。
 ――畏怖の影響が、彼らの中から全部消えたわけではない。
 心臓の動悸、足の震え、それらはまだ少し残っている。
 だが、今ならまだ戦える。畏怖の名残と、そして――
 この蒼空サッカーに。

《凄まじい、凄まじい応援合戦! 紅の12番・藤原がたったひとりで屈服させたプレイヤー達が、次々と立ち上がり、眼に光を取り戻していきます!》
《サポーターは12人目のプレイヤー。その言葉をまさに体現しました。感動的な光景です!》

「……本当は、12人目どころやないけどなぁ」
「はい、そこ。つまんないことにケチつけないの」
「12人目に、120人分の力があったようだな。百人力とはこの事よ」
 近藤勇の台詞に日下部社はまたツッコみたくなったが、ヴェルチェに文句を言われそうなので止めた。