First Previous |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
Next Last
リアクション
もう1つのお茶会
そうしてお茶会の準備が進められている頃。
ミルムの別室ではもう1つの茶会が開かれていた。この茶会が開かれることになった経緯は……時を少し遡っての、アンゴルの本屋での出来事から。
「どうかお願いします!」
「な、何事だ?」
店で土下座され、面食らったアンゴルが後退りする。
「貴方はこの土地の名士であるとお聞きしました。貴方の名前での招待ならば、この土地に住むご年配の女性も受けてくれるはず。茶会の準備はすべて私がしますので、何とぞ貴方の名前をお貸し下さい」
下げていた頭を上げ、ひたとアンゴルを見つめるのは、薔薇の学舎の制服姿を身につけた素顔の変熊 仮面(へんくま・かめん)だった。
自分を気遣ってくれたサリチェの為、陰ながら何かをしてあげたい。ミルムに資金援助をしてもらうのにソフィアと姑の和解が助けとなるならば、その一端たりとも担いたい。そんな気持ちに突き動かされた変熊が考えたのは、ソフィアの姑を含めた街の年配の女性を絵本図書館に招待し、ささやかな茶会を開くことだった。
そこで百合園生の献身的な働きと、子供たちの笑顔を見てもらえれば、百合園に対する姑の気持ちが変わるかも知れない。和解できぬまでも、姑がミルムを認めてくれればそちらから資金援助への道が拓けるかも知れない。
けれど、知らない土地の人間がいきなり姑を誘っても無駄だ。姑はそんな招きに応じる謂われはないのだから。
ならば……姑が茶会の誘いに応じるような相手に招待してもらうしかない。条件に該当する中でミルムの為に動いてくれそうな人物を、変熊はアンゴルしか知らなかった。
変熊が茶会の計画を説明するのを、アンゴルは眉間に皺を寄せて聞いていた。
「……招待した方々に迷惑をかけぬと約束出来るか」
「無論、全力をかけて」
変熊が約束してからもしばらくアンゴルは思案していたが、諦めたように溜息をついた。
「あの場所に関わったのが面倒事の始まり、じゃな。……分かったから土下座はやめてくれ」
「ありがとうございます。ですがもう1つ、お願いがあります」
変熊はアンゴルに茶会への一切の口出しをしないで欲しいと頼んだ。自分も口出しはしない。ミルムにいる皆に、茶会を開いた目的を告げることもない。すべては、自然な流れに任せるのみ。
姑が孫を思う気持ちは本物のはず。だからこそ他人の正義を押しつけたくはない、という変熊に、アンゴルはその条件も呑んだ。
「招待した方々に迷惑が及ばぬのなら、わしには口出しすることもない故にな」
そして、アンゴルに招待された年配の女性たちは和やかに談笑しながら、ミルムでお茶を楽しむこととなった。変熊は執事服に身を包み、ラテルでは馴染みのないタシガンコーヒーを提供したが、アンゴルに言ったとおりに口は出さず、ただ絵本のお茶会の準備をしている学生の中に百合園生がいる時だけは、さりげなく姑のオルネラにそれを告げておいた。
茶会に誰を招いたかは他の学生には言わなかったが、姑の顔を知っているエヴァルト、御凪真人、五月葉終夏には参加者の中にソフィアの姑がいることはすぐに分かった。
姑が来ていることはひそやかに広まり、ソフィアのお茶会と重ならないように短く設定された茶会が散会になる頃には、オルネラと話したいと思っていた学生たちが、茶会の行われている部屋の前に集まっていた。
帰ろうとするオルネラをつかまえて、少しお話が、と切り出すとそれだけで用件を察したのだろう。オルネラは他の女性たちに先に帰っていてくれるように言うと、茶会の終わった部屋に残った。
「貴女も百合園女学院の方ですか?」
「いいえ、私は違いますわ」
オルネラにそう答えながらもヴェルチェ・クライウォルフ(う゛ぇるちぇ・くらいうぉるふ)は百合園のコに負けないくらいの気持ちで、と極力丁寧な言葉遣いを心がける。
「ソフィアさんに預けようかと思って持ってきていたのですけれど、直接お渡しできて良かったです。もうすぐお孫さんが誕生されるというお祝いに、これを」
ヴェルチェが差し出したのは虫かごだった。中に入っているのは木の葉のついた細枝だ。よく見れば葉の裏に、茶色い蛹がついている。
「今は蛹ですが、もう少ししたら美しい羽を持つ蝶が生まれます。甘い蜜さえ与えてあげれば夏の終わりまで、とても綺麗な羽を広げて見る者を楽しませてくれますし、また、つがいを用意すれば卵を産み、毎年その姿を見ることができます」
「知らない方からお祝いをいただく理由がありませんので。祝いのお気持ちだけ受け取らせていただきます」
オルネラは礼だけ述べて、虫かごは手にしなかった。ヴェルチェは頑なな態度のオルネラの目の高さに虫かごを持ち上げてみせる。
「おせっかいとは思いますけれど……お孫さんの教育方針について、少しばかりソフィアさんとすれ違っているようだと聞きました。この蝶のように箱の中で蜜を与えていれば、危険にされされることもなく、いつまでも美しい姿を見せてくれるでしょう。けれど……それで蝶は幸せなのでしょうか」
箱の中にいれば、飢えることも襲われることもなく生きられる。けれど自由はない。
空に飛び立てば危険はあるかもしれないが、花に留まるのも木々の間を飛ぶのも思いのまま。
そのどちらが幸せか。それは蝶に聞いてみなければ分からない。けれど蝶はまだ羽化もしていない蛹の状態。それを見ながら何が幸せかを論じることに、何の意味があるのだろう。
「若造が何を言うかと思われるかも知れませんが、少しだけ考えてみてくれませんか。……貴女もソフィアさんも、生まれてくる子供の将来ではなく、その子を通して自分たちの中にある『何か』を見ている、ということはないですか?」
樹月 刀真(きづき・とうま)は静かにオルネラに問うた。
叶えられなかった何か、叶えたい何か。
ソフィアが自分が叶えられなかった夢と広い世界を子供に与えたいと思っているのだとしたら、オルネラは何を望んでいるのだろう。
「子供をラテルで慎ましやかに育てたい、というのが貴女の希望だと聞きましたが、そう育ててどんな子になって欲しいと思われているんでしょうか?」
刀真の問いにオルネラは、それは……と答える。
「世間様に認められる地に足がついた子に育って欲しいと思っております。身の丈に合わぬ夢を持てば苦しいばかりでなく、何を言っているのだと後ろ指をさされるもの。それも分からぬ嫁に、あれこれと焚きつけられては孫の為になりません」
ソフィアがしようとしている育て方は、オルネラにとってはとんでもない、世間に恥ずかしいものとして映っているのだろう。
「子供って、自分の思い通りにならないものなんですよね」
早川 あゆみ(はやかわ・あゆみ)は巣立つ子供を見送ったことのある母として、オルネラと話した。
地球で暮らしていた頃……子供が遠い学校へ行くのが心配で反対していたのだけれど、本人の意志が固くてあゆみは結局折れるしかなかった。親はいつまで経っても子供のことが心配で守りたいと思うものだけれど、子供はいつしか自分の足で歩くようになっているもの。
たとえそれが親の目からはよちよち歩きに見え、また危険に向かって歩いているように見えたとしても、子供が進もうとしている道を妨げるのは容易ではない。
「それに、百合園女学院は伝統のあるお嬢様学校の姉妹校ですし、選択としては悪くないんじゃないかしら。お孫さんもきっとしっかりした令嬢に成長されると思います。そうだわ。お嬢さんを百合園女学院に入れる代わりに、オルネラさんがお嬢さんのお名前を決めるというのはどうでしょう? 名は体を表すとも言いますわ」
そうすれば2人は和解し、子供も夜露死苦などという名前をつけられずに済む、と思いつき、あゆみは勧めてみたけれど、オルネラに考えを変える様子はない。
「何もそんな場所まで行かなくとも、ここで必要なことを学べばそれで良いのです。取引などする気はございません」
「取引というか、譲り合う気持ちは両方に必要なんだと思います。といってもどうしても、譲れるところと譲れないところが出てくるから、難しいですね……」
どうすればより良い方向に行くだろうかと、あゆみはオルネラの立場に立って解決方法を探そうと悩んだ。
一生懸命に考えているあゆみをちょっとでも手伝えたらと、メメント モリー(めめんと・もりー)は地球で暮らしていたパラミタ人として、オルネラに意見してみる。
「ラテルではまだその変化はあまり感じないかも知れないけれど……地球の人たちがパラミタに入ってきて、シャンバラ王国の再興を目前にしている今、様々な変化に対応出来る知識や寛容な心が必要なんだと思います。別の文化や習慣を知ることによって、今までの伝統を改めて振り返ったり、大切にすることもできる人になれるんじゃないか、って」
ラテルもどんな風に変わっていくのか分からない。今までのやり方がこれからもずっと通用するとは言えない。
そう説明するモリーにオルネラは不安を見せた。
「ラテルには変わらずにいて欲しい……そう願っているのですけれど……」
実際、ラテルにもヴァイシャリーから地球の文化が流れ込んできている。便利になる反面、今までのバランスが崩れだしてもいる。
物思わしげに顔を曇らせたオルネラに、
「わらわも今はこのような姿をしておるが、一度は子を成し、母となったこともある身。オルネラ殿の気持ちも分からぬでもないが……」
クレオパトラ・フィロパトル(くれおぱとら・ふぃろぱとる)はそう前置きした後、それでも新しいもの、珍しいものを知ることは喜びであり、最初からその選択肢を切り捨ててしまうのは、やはり好ましいとは言えまい、と今のオルネラの態度を諫めた。
その言葉にオルネラは、やや口早に反論する。
「……息子なり嫁なり、どちらかがしっかりしていれば、わたくしもうるさく口出しは致しません。ですが今のまま放置しておいたら、孫がどのように育つものやら。ここで拝見した限りでは、嫁が入れたがっている学校自体には問題は無さそうですが、あのようにただ浮ついて、物珍しげな処に孫をやろうとするのを、黙って見過ごすわけには参りません」
オルネラにとっては、息子もソフィアも頼りなく、安心して孫を任せられない。ならば祖母としての責任として、正しい道に導かなければ。固い決意を示すように、オルネラはきつく両手を握り合わせていた。
「生まれてくる子のことを、大切に思っているんですね」
刀真はそんなオルネラを認めた上で、ですが、と続ける。
「それは貴女の気持ちであって、子供の気持ちではありません。ソフィアさんが言うのがソフィアさんの気持ちであって、子供の気持ちではないように。では、その子の味方はどこにいるのでしょう?」
「子供の味方……」
オルネラはと胸を突かれたように繰り返した。
「この絵本、覚えてるかな」
カレン・クレスティア(かれん・くれすてぃあ)は1冊の絵本をオルネラに渡した。
「これは……息子が小さい頃に読んでいた……あの子、無くしてしまったと言っていたのに」
「息子さんに、よく読んでもらった絵本はって聞いたら、子供の頃にソフィアさんにあげた、って教えてくれたんだ。だからソフィアさんから借りてきたんだよ」
「あたしも読ませてもらったの。すごく気に入っちゃった〜、『ひなどりのだいぼうけん』」
八坂 トメ(やさか・とめ)もオルネラに笑顔を向けた。
その絵本にかかれているのは……
となりあった2つの巣で、2羽のひなどりが親鳥の愛情を受けて育つ。大きくなるとひなどりはそれぞれ、1羽は世界中を冒険して回る鳥になり、もう1羽は生まれた巣を守りながら困難に立ち向かっていく鳥になる。けれどどちらの鳥も仲良しで、どちらの鳥も生まれた巣を大切に思っているのも変わらない。なぜならどちらのひなどりも、たっぷりと愛情を受けて育ったから。
……そんなお話だ。
幸せは、どの道を選ぶかで決まりはしない。大切なのはもっと別のこと。
「ソフィアさんはきっと、子供が産まれる期待と不安とで、落ち着かないんだと思うんだよね。だから、ああしたい、こんな名前がつけたいって言い出したんじゃないかな。オルネラさんも、それにつられて不安になってるんじゃないかなぁ」
こんなソフィアと、何も言わない息子に孫を任せておいて大丈夫なのかと。自分がしっかり手綱を取らなければ、と思ったのではないだろうか。
「オルネラさんとこの息子さん、頼りないらしいけど、でも悪い子に育ったわけじゃないんでしょ?」
邪気無いトメの言葉に、オルネラはぴくりと頬を引きつらせた。
「……頼りなくて悪うございましたわね」
「わーわーわー、っトメさん、ちょっと黙って」
「トメさんって呼ぶ……むごもごもご……」
呼ばれ方に文句をつけようとしているトメの口を押さえ、カレンはオルネラに愛想笑い。
「や、トメさんはそういう意味で言ったんじゃないんだよ。えっと……大事に愛情を注がれて育った子は良い子に育つ、っていうこと。オルネラさんや息子さん、ソフィアさんの皆で愛情を注いであげれば、産まれてくる子も良い子に育つだろうし、そうしたらヘンな将来を選んだりもしないと思うんだ」
しっかりした子に育てられれば、自分の進むべき道を選ぶことが出来る。
人の話を聞ける子に育てられれば、進む道の助言も出来る。
幸せに続くのは、そうやって進んだ道の先。
「オルネラさんが心配してるのは今のソフィアたち。でもそんなの子供が産まれたら変わること。親になると得られる強さはあると思う……多分」
親になったことがないからと、幾分自信が無さそうに漆髪 月夜(うるしがみ・つくよ)は言う。
「だから今から多くを決めないで、子供の味方になってあげてほしい。それとソフィアの味方にも」
「味方?」
「子供が無事に元気に産まれてくるように、ソフィアが無事に元気に産めるように、その為のことを考える。そこから始めるのは駄目?」
未来を考えるあまりに掛け違ってしまったボタンは。最初に戻ってはめ直し。そこから1つずつ、ゆっくり落ち着いて掛けていけばいい。
「暖かく見守ってやろうぞえ。頼りないようで、いざとなればソフィア殿も母親としての自覚を持つであろう。それはオルネラ殿もわらわも、よく知るところじゃからの」
はじめての子供が産まれる時には、親も一年生。クレオパトラやオルネラも昔はそうだった。きっと頼りない親だと周囲をやきもきさせていただろう。
子供の成長と共にその親も成長してゆく。目を開けて、寝返りをうって、はいはいをして、つかまり立ちをして。
オルネラもおばあちゃん一年生。一足飛びにおばあちゃんになんてなれないから失敗もするけれど、子供と親を見守るうちに、オルネラも祖母らしく成長するのだろう。
「そうですね……まだ孫は産まれてもいないのに、私ったら……」
オルネラは恥ずかしそうに笑った。そうすると目の険が消え、優しい雰囲気が生まれる。
「そうと決まったら、ばーちゃ……じゃねぇや、オルネラさんも『絵本のお茶会』に参加してみねえ……ととと、参加してみませんか?」
普段は丁寧な言葉遣いなんてしないけれど相手は厳しいお姑さん、丁寧に喋らなければと鈴木 周(すずき・しゅう)は苦労しながら誘った。
「絵本のお茶会? 確かソフィアが行くと言っていたような……」
「はい。もう始まってますですのすで、あれ? 始まってます、ので、ぜひソフィアさんと一緒に参加してく、ださい」
額に汗を浮かべ、周は何度も言い直す。
こんなのは勘弁してくれと言いたい処だけれど、オルネラを誘う為には礼儀正しい紳士でなければならない。
「いえ、ご遠慮致します。私が同席したらソフィアは厭がるでしょうから」
楽しいお茶会を邪魔しては、とオルネラは家に帰る態勢に入っている。けれどこのまま帰したら、家できちんとソフィアとの和解が出来るかどうか分からない。オルネラには折れる気配が見えているけれど、ソフィアの接し方1つでまたすべてが水の泡、なんてこともあり得る。
「そんなはず、ない、でござる。きっとソフィアさんも喜ぶぜ……です。えと、俺がエスコートしますんで、一緒に行ってくれ……じゃなくて、行ってもらえねぇ……でもなくて、ああちくしょー、全然ダメじゃねぇか、俺! ええと、何だっけ」
「一緒に行っていただけませんでしょうか」
「それだ! ……うお、っ!」
教えてくれたオルネラを思わず指さしてしまい、周は固まった。
「お茶会に参りましょう。一緒に行ってくださいな」
そこまで言ってオルネラは、たまりかねたように口元を隠して笑った。
「では、私たちもエスコート致しましょう!」
ばーんと現れた明智 珠輝(あけち・たまき)は、腰簑をつけて釣り竿を持った、浦島太郎の扮装。その恰好で満面の笑みを浮かべている。
その隣では、筋骨隆々の身体に金と書かれた腹掛け、まさかり担いだポポガ・バビ(ぽぽが・ばび)。
「……明らかに浮いてないか?」
桃を描いた鉢巻きに日本一と書かれた旗、桃太郎の恰好をしたリア・ヴェリー(りあ・べりー)が、珠輝にささやいた。珠輝に、これを着たら吉備団子食べ放題、と言われてつい肯いてしまったのだけれど、激しく後悔の念が湧いてきている。
リアのささやきに、珠輝は心外だとばかりに目を見開いた。
「何をおっしゃるのですか、リアさん。これこそが、日本における童話の原点ではありませんか。くしくも、ソフィアさんは日本の漢字がお気に召したご様子。となれば、日本文化でおもてなしするのが最良というものでしょう」
「そ、そうなのか? わ、わかった。きびだ……いや、日本文化のためにひと肌脱いでやろう」
「ひと肌と言わず、すべてを脱ぎ捨てて下さって構わないんですよ。もちろんそれは、私の腕の中で。ふふふっ」
「珠輝! またそういうことを……」
「ささ、オルネラさん。絵本の世界が貴女を待っています。私たちはその道先案内人。どうぞこちらへお越し下さいませ」
リアの反論を封じるように、珠輝はオルネラに呼びかけ、優雅に一礼した。
オルネラが周や珠輝らにエスコートされて行くのを見送った後、変熊は書架のある方へと歩いていった。いつもの仏頂面で絵本を選んでいたアンゴルに、茶会に協力してくれたことの感謝を述べる。
「いや、わしは別に特に何かしたというわけでもないからな」
礼など言ってもらわなくても、とアンゴルが言いかけた時。
「フフフ……全裸にマントは自由の証! 赤い仮面で個性を主張! それが俺様にゃんくま仮面!」
「わー、ヘンな猫。しゅちょーとか、意味わかんねー」
視野を広げようと変熊が連れてきていたにゃんくま 仮面(にゃんくま・かめん)が、子供たちと言い争いしながらやってきた。少々声が大きいが、子供同士で楽しそうにしているから大目に見ようか、と変熊がしらん顔を決め込んだその時。にゃんくま仮面の方が変熊に気づいて声を掛けてきた。
「あれ〜、師匠。今日は裸じゃにゃいの〜?」
「シーッ、あっち行け! しっ、しっ!」
慌てて追い払いはしたものの。
「はだ…………あああっ! まさかあの時の」
にゃんくま仮面の恰好と変熊を見比べていたアンゴルは、大声をあげて変熊を指さしたのだった。
そうしてオルネラがミルムで学生と話をしていた頃。
リッツォ家には来客が訪れていた。
「大奥様も若奥様も外出中ですが……」
屋敷のメイドに言われ、黒崎 天音(くろさき・あまね)は苦笑する。どうやら目指すリッツォ家の当主は、使用人にとっても影が薄いらしい。
「ソフィアさんの旦那さん……ここの当主の方はご在宅ですか?」
如月 佑也(きさらぎ・ゆうや)が尋ねてみると、当主は屋敷にいるとのこと。メイドの頭に浮かばないくらい、当主を訪ねてくる人は少ないのだろうか。
約束が無いと言うとメイドは、旦那様にお伺いしてきます、と一礼して屋敷内に戻っていった。当主が会ってくれるのかどうか、相手がどんな人物か分からないので予測が付かない。
「話を聞く限りでは……彼がしっかりした人物であれば、ソフィアとお姑さんの間のすれ違いの一部は、解消されそうな気がするのだけどね」
望み薄かな、とメイドの背に向けてこっそりと呟いた天音に、ブルーズ・アッシュワース(ぶるーず・あっしゅわーす)は面白がる様子で言った。
「お前がそのような事に興味を持つのは意外だな」
「こういうことは得てして、見えない部分に根があったりするものだからね」
家族であり、ソフィアと姑の間にあるはずの当主の話が、サリチェからは全く出てこなかった。何故彼が蚊帳の外なのか、どんな人物なのかが気になる。
戻ってきたメイドは、当主が会うと言っていると告げ、3人を屋敷の内へと案内してくれた。
屋敷内部のインテリアはどっしりとしたアンティーク。古き良き物が大切にされている。
「お待たせ致しました」
ほどなく姿を現したのは、柔和な印象の青年だった。周囲からお父さんぽいと言われている祐也よりも、リッツォ家当主の彼の方が若く見える。
コラードと名乗った彼は、3人にソファを勧めると自分も腰を下ろした。
「お子さんが生まれるという話を聞いたのでお祝いと、少しだけお節介に」
「でしたら、もうそろそろ母が戻るかと思います。妻は先ほど出かけたばかりですので、戻るにはもうしばらく時間がかかるでしょうが……」
話を切り出した天音に、コラードは全く自分に関係ない話をされたような反応を見せた。
「いえ、今日はコラードさんと話がしたくて来たんです。お子さんの名前でソフィアさんとお姑さんが揉めているそうですけれど、旦那さんの意見はどうかと思って」
祐也が言うと、コラードは視線を泳がせた。
「……2人が相談して決めることですから」
「大事な家族の名前なんですから、こういうことは家族全員で決めないといけないと思いますよ」
「私は別に……2人が気に入った名前ならそれで」
「夜露死苦、になってもいいんですか?」
祐也の畳みかけに、コラードはさすがに言葉に詰まったが、
「それは……母が許さないでしょう」
と弱い声で答えた。
「ということは、コラードさんも夜露死苦は好ましくないと思ってるんですか?」
祐也がそこまで尋ねてやっと、コラードはやっと自分の意見らしいものを口にした。
「……呼ばれ辛い名前ですから。ですが、ソフィアがどうしてもと言うのを無下にも出来ませんし」
「そう思っていることはソフィアさんに伝えたんですか?」
「いや、私が口出しすると余計に揉めるでしょうから……3人で言い合うよりは、2人が折り合いをつけてくれるのを待つのが良いかと」
コラードなりに嫁姑の対立を憂い、その解決方法を自分が黙っていること、としているのだろう。けれどそれでは、ソフィアと姑は直接ぶつかり合うばかりだ。
「本当にそれで良いと?」
天音はコラードの視線を捉えて言った。
「パラミタにもマタニティ・ブルーという言葉があるかは分からないけれど……お腹の中で子供を育てている状態で、ソフィアさんに負担がかかっているのではないかと思う。同じ男として、氏が子育てや生まれてくる娘の事をどう考えているのか、聞かせてもらえないかな」
「生まれてくるのは楽しみですし、幸せになって欲しいとも思いますが、正直……母や妻のように今からその子の将来に大騒ぎするほどには、実感がありません」
2人が揉めれば揉めるほど、自分は蚊帳の外なのだと思い知らされるのだとコラードは苦く笑った。
「別に私が蚊帳の外なのは構わないのですが、反目が続くのは困りものです……。生まれてくる子の為にも、早く折り合いをつけてくれれば良いと願ってはいるのですが」
事を荒立てないように息を潜めて見守っているのだが、一向に2人の間に和解は成立してくれない、と嘆くコラードに、天音はこんな言葉を投げかけた。
「君がそうしている限り、2人の関係の改善は望めないだろうね。父親になる前準備に、2人の母親を安心させてあげてみてはどうだろう」
オルネラには一家の柱としてしっかりした処を示し、ソフィアには夫として妻のことを、また父親として子供の将来を含めどう思っているかをきちんと言葉で伝える。それだけで2人の不安は随分減るだろう。
「私が入ると余計にもめ事が大きくなりそうですが……」
「それでも、伝えることは大切なのだと思うよ」
「生まれてくる子の為にも、家族みんなの話し合いや協力は不可欠ですよ」
気が進まぬ様子のコラードの背中を押すように、天音と祐也は言葉を重ねてはっぱをかけるのだった。
First Previous |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
Next Last