薔薇の学舎へ

波羅蜜多実業高等学校

校長室

葦原明倫館へ

電子の国のアリスたち(前編)-エンプティ・エンティティ

リアクション公開中!

電子の国のアリスたち(前編)-エンプティ・エンティティ

リアクション

 仮の部屋と定めた視聴覚室で、アクリトはヒパティアの筐体を3Dモニターにつないだ。
 モニターに少女が現われ、優雅に一礼する。
「さて、君が校内のネットワークを狂わせ、クラッキングを行った容疑者という、AIかね?」
『…はい、私は自律学習型AI・ヒパティアと申します。お言葉ですが、私は無実を主張します。
 同時刻、私もクラックを受けていました。私と周辺機器のログをご覧下さい』
 簡単なログを眺めると、彼女の使用するネットワーク機器が自動的に立ち上がり、強制的な割り込みを受けている。
 電源を切っていたはずのネットワーク機器は、近隣の無線機器から起動コマンドを偽装されて立ち上げられていた。
「最初に君がアタックを受けたのが、13:02、これは空大がアタックを受けたすぐ後だな」
『経路をご覧下さい、私は空大側から、アタックを受けたのです』
「そして報告のあった14:56、君のところから空大へのアクセスがある」
『それが、私を襲ったものの足跡です。それまでの間私はずっとこの相手から攻撃を受けていました』
「ふむ…」
 その時、ドアがノックされた。
「失礼致します!」
「入りたまえ」
 入室許可に応じて、入ってきたのは藍澤 黎(あいざわ・れい)である。
「ああ君か、こんな騒がしいときに足を運んでくれてすまない。今日のところは論文を見ている余裕はないんだ」
 申し訳ないが、論文は後日…とアクリトが切り出したところで、黎はそれをさえぎった。
「いえかまいません、今回はそれよりも重要なお話があるのです。空京大学の現状にも関わりがあるかもしれないと推測しています」
「…それは、どのようなものかね?」
「今そちらにおられる、ヒパティア嬢についてのことだからです」
 3Dモニターの少女を真っ直ぐに指した青年にアクリトは驚いた。よもやそちらの方から弁護が飛んでくるとは予想もしない。
『黎様…』
「君達は知り合いなのかね」
「はい、学長は『オーダーメイド・パラダイス』というゲームをご存知でしょうか?」
「かなり前に、ちらりと名前を聞いたことはあるな、新感覚ネットゲームであるとか。それ以上は知らないな」
「それは、人間の意識をマシンに繋ぎ、電脳空間で望む振る舞いを、夢を約束するものであることは?」
 アクリトは首を降る。
「それは、このお嬢さんに関係があることだというのだね」
『私達は何度かそのゲームのプレイヤーを募集し、黎様をはじめ、多くのプレイヤーに協力していただきました』
 その本質は人間の行動サンプルの採取であること、今まで事故を起こしたことはないこと等を説明する。
「ほう、魔術的な仮想空間は聞いたことがあるが、それを民間、いや個人レベルで実現していたというのか」
『脳波を観測し、電脳空間でそのフィードバックを行い、私は人の意識を統括し、兄は管理していました』
「話は聞かせてもらったでござる!」
 聞き耳をたてていたのか、そこに突如坂下 鹿次郎(さかのした・しかじろう)が乱入してきた。
「…じゃなかった、それだけではないのでござる!」
「君は誰だ?」
「拙者、蒼空学園の坂下鹿次郎と申す! フューラーの友人として彼の代わりにヒパティアの弁護をしに参上つかまつった!」
 ヒパティアの所へ行くという鹿次郎にくっついて、彼方 蒼(かなた・そう)も転がり込んでくる。
「元気だしてね! 今度また、チョコたべようねー。ねえ、しつじのにーちゃんイコプラわかるかなあ?」
 勢いに押され、ヒパティアはそれまで無表情に近かった頬を緩ませた。ほんの少しの余裕が戻ってきたのだ。
『先日イコプラの特集を見ていましたから、多分わかるでしょう』
「わるいやつは、みんなやっつけるからね。だから一緒に遊ぼうね!」
 わあい!と蒼は手にしたイコプラの手をがしょがしょと振る。
「少し前、記憶喪失の余命わずかな機晶姫が居たことを、覚えておられるでござろうか?」
「覚えているとも、彼らがそれに関わっていたことは知っているが、今回の件と何か関係があるのかな?」
「事件そのものでなくとも、彼女たちを考察する材料にはなるでござる」
「わたしには、いくつかの機器のテストと、予想範囲内だが多少の技術更新と、大学の研究の認知率が上がったという程度の記憶だがね…」
「ヒパティアは、その機晶姫の外部記憶装置として働いていたでござる。彼女の電脳空間で記憶を取り戻す手伝いを一番頑張ったのは、彼女に決まっているでござる」
「ふむ、セラピー空間の役割を果たしていたということだね。彼女の能力はそれほどのものなのか」
「そこは保障するでござる、何度も経験しているので任せるでござるよ」
 そこにシラードが苦しい身体を押して、学長室にやってくる。姉ヶ崎 雪(あねがさき・ゆき)に車椅子を押してもらって、医療スタッフを傍に待機させている。
「シラード教授、すまないな。こちらから出向くつもりだったのに」
「いえ、私のパートナーのことですからな。お手を煩わせるわけにはゆきません」
 アクリトは突如騒がしくなった視聴覚室を静めてから、シラードに話を促す。
「まず最初に私が見聞きしたものをお伝えしましょう。電脳のモニターを、外でちらりと見ただけですが…
 私は、フューラーがヒパティアの偽者と思しきものに、お前は誰だと詰問し、偽者はそれに『貴様がいなくなれば』と応えたのを記憶しております。
 あの時の偽者が直前に何を言ったかは知りえませんが、ヒパティアとフューラーの関係の何がしかに気がついたのでしょうな。
 ここでフューラーの事情についてお話せねばなりますまい。先ほど医師の方が、坊主の脳波がとれぬと慌てておられた、お聞きですかな?」
「報告はうけている、解決したとの報告はまだだが」
「ではお伝えしましょう。脳波のとれぬ理由ですが、あやつの頭の中には金属板が幾つも埋め込んであるからです。一般用デバイスではまともに動作はせんでしょうな」
「何か彼は脳に疾患を持っていたのかね?」
「いえ、電脳空間での優位性を保つためです、さもなくば管理人としては力不足ですからな。ただそれだけのことであやつは頭をパカッとやったのです。そして今回はそれが何か悪く作用したのだと考察しております」
「彼がこの少女のためにやった処置が、偽者の何かを妨害したということであろうか。しかしわからんな、そこまで細工をせねばならんほどの能力を、彼女が持ち合わせているということかね?」
「そうお考え下されば、あやつの必死さも判ろうと言うものでしょう…」
 めまいに襲われて背もたれに倒れる、駆け寄ろうとす医療スタッフと雪を制止して、シラードは言葉を続ける。
「……失礼。あの坊主の人生は、もう既に『兄』であるほうが長くなってしまいましたからな。ティアよ、お前のアバターの身長設定を教えておくれ」
『私の設定は、身長120cmとなっております』
「もう10年になるのだな…あやつがこの『妹』とほとんど同じくらいのチビだったころから、あのように図体がでかくなるまで、そしてこれからも、あの坊主は兄として妹の手を引いていくつもりでおるのですから」
「そういえば、貴方はパラミタが出現した頃、地球に行ったことがおありでしたな」
「ええ、このポンコツの足がまだ現役だったころ、パラミタと地球が結ばれた当初、ガキのようにはしゃいで、私財をはたいて飛んでいったものです。そこであの子らの両親と知り合い、坊主と契約したのです」
 もっとも、契約に気づいたのはごく最近でしたがね。シラードは笑いを挟もうと勤めながら説明をしていった。
「…あの坊主の役目はこうです。両親が彼女により人間らしくあれと成長を願ったことに従い、人間の感覚で彼女を導き、そしてストッパーでもあるのです。多少過保護のきらいはありますが、理想の教師と生徒であり、外界の接点でもあるのです。
 そういった精神的、感情的、科学的に補い合う間柄であるあの二人が、間接的にでもお互いとその周りを危険にさらすような真似ができるとは思えぬのですよ」
 前のめりで長く喋りすぎて、シラードは咳き込んだ、しかし苦しみながらも背筋を正し挙手して、最後の宣誓をする。
「…ゆえに、私はヒパティアの無実を主張します」
 黎も、それをうけて挙手をする。
「それでは私も発言をお許しいただけるでしょうか?」
「よろしい、是非とも皆の意見を聞いてみたい」
「ヒパティア殿には故郷を見せていただいたことがあるのです。
 電脳空間で過ごした時間はいつも優しくて楽しくて、幻だったとしても我には慰めで、とても大きな力になった。
 あれほどの溢れるような豊かさをもたらしてくれる彼女が、人を危険に晒すようなことをするとは思えない」
「拙者もそう思うのでござる、拙者がヒパティア殿にちょっとしたおねがいをしたときのフューラー殿の怒りは本物でござったゆえ、あの二人のお互いへの思いやりは本物以外のなにものでもないかと!」
 あのシスコンぶりは本物でござる!という叫びには、一体何をしたと問いかけずにはいられない。雪の睨みが飛んできた。
「ほんと、チョコおいしかったんだよ、あれは本物だよ! だからヒパティアちゃんは悪いひとのはずないんだよ!」
 蒼がイコプラを振りかざして叫ぶにいたっては、アクリト学長までちょっと笑いをこらえたような顔をしている。
『皆様、ありがとうございます、私達のために…』
「はっはー、事が解決すればまた巫女装束姿を見せてくれればよいのでござるよ」
「だから貴方は、二言三言四言多いんですのよ!」
 いろいろと台無しにする鹿次郎のセリフに、おとなしく隅で弁当をつついていた雪が飛んでくる。
「ゆ…雪さ…あひゃあああががががが…」
 逃げようとした鹿次郎は速やかにひっ捕らえられ、見事なキャメルクラッチが決まった。
「よろしい、話はわかった。それから席を外してくれないか? 私は彼女ともう少し話をしてみたい。純粋に個人としてだ」
 ぽん、と手を叩いたアクリトは、ひとまず視聴覚室に集った面子に解散を命じた。
 それに、シラードにこれ以上無理をさせるわけには行かなかった。フューラーの目が覚めない以上、いつまたパートナーロストの症状が起きるかはわからないのである。
「ヒパティア、我を忘れんでおくれよ、そしてまた笑っておくれ」
『はい、おじさまも無理せず…』

「言われた場所にあったものを持ってきたあよ」
 岡田 以蔵(おかだ・いぞう)はシラードの寮まで使いに走っていた。
 先ほどまで、昏睡状態のフューラーの脳波を取ろうとして、ありえないほど乱れた表示に、集まった医療スタッフがパニックに陥っていたのだ。
 彼の脳内には金属板が埋め込んである、それが脳波測定の邪魔をするのだ。
 目が覚めたシラードが、自分達の部屋からフューラー専用のヘッドセットを持ってこさせて、ようやく事態は収拾した。
「にしても、意味が判らんぜよ、わしゃあその辺うろついてくるき何かあったら呼びや」
 機械だの先端技術だののあれるぎぃを起こしそうだ、とさっさと部屋を出て行ってしまうのだった。
「蒼、大丈夫かなあ…」
 眠り続けるフューラーに付き添いながら、椎名 真(しいな・まこと)はアクリト学長のところへ行ってしまった蒼を心配している。
 蒼も心配だけれど、今は彼の具合も気になる。脳波は昏睡状態だが、夢を見ているような活動電位が混じっている、…らしい。
「何か変化があれば呼んでくれっていわれても、さっぱりだよ…」
 時折肩を叩いてみたり、声をかけてみたりするが、そうやってみても脳波には変化はない。
 (あ、でも今一瞬だけものすごい悪夢を見たような顔したような…気のせいだな!)
 その頃ちょうど鹿次郎がさらりとヒパティアに巫女装束を要求していたが、きっと気のせいである。
 山中 鹿之助(やまなか・しかのすけ)はその傍で腕を組み、じいと押し黙って真がフューラーに行う一挙一動に目を光らせている。
 護衛のために彼はここにいるのだが、さっきまではもっとひどかった。医療スタッフが触診するたび、何か検査器具を取り付けようとするたびに、それはなんだ、貴殿は敵ではないだろうなと誰何するのだった。
「この者と多少は縁があるのでな。殺されるような事があっては夢見が悪いのだ」
「そうですよね」
 実際一度死ぬような目に会わされて、いまこうして昏睡状態なのだから。
「にーちゃんただいまー。ヒパティアちゃんは悪くないよって、ちゃんと言ってきたよ!」
「おかえり蒼、えらかったね。…嬉しいのはわかったから、イコプラは振り回さない」
「あい。…ね、しつじさん、まだ目がさめないの?」
「そうなんだ…って電撃だめー!」
 帯電フィールドで刺激をちょっと(で済むはずがないが)与えてみようとした蒼を、鹿之助が抱き上げて遠ざけ、そして…
「少年よ危険なことをしてはいかん…って何とぉー!」
 電撃の余波をくらうのであった。
 がっつり叱られた蒼は、さすがにちょっといじけた。
「たんこぶできたちゃった…。いいもん、自分がヒパティアちゃんを守るもん」
 部屋のすみっこでイコプラをネットワークにつないでみる、これよりイコプラはねっとわーく戦士になるのだ!
「ええと、イコプラのこの腕はウイルスをやっつける銃になるんだ!」
 ひとしきり設定を決めていると、不意にがたがたとイコプラが動き出す。
「あれ?」
 慌ててケーブルを外す、しかしまだガタガタとイコプラは暴れている、イコプラらしからぬ動きでもんどりうって転げ、手足をめちゃくちゃに振り回して気味のわるい動きをするのだ。
「こらー蒼、静かにしなさいって言っただろ!」
「う…うん!」
 慌ててタオルをもってきて、イコプラをぐるぐる巻きにする。
 とても自分はしてはいけないことをした気がして、こわくて、蒼はその時だれにもその事を言えなかった。
 やがてタオルの下で、内部電源を使い果たしたのか、イコプラは動かなくなった。


「何やら、君には友が多いようだな」
『皆様、私達に良くして下さいます』
 皆が立ち去ったあと、視聴覚室はひととき沈黙が支配した。
「…さて、私が何を言いたいのか、おそらく理解しているだろうと思うのだがね」
『はい、貴方はいまだ一言も、私を『信用した』と類することは仰っておられない』
「先ほど、君達が言っていた『偽者』と、君自身の区別は私にはつかないのだ。そもそも君を知らないのだからね」
 なりすまされていたとしても区別できない、敵は今ヒパティアのところにはいないという悪魔の証明をせねばならない。
「だがしかし、本物ならば己のスペックを正確に把握しているだろう、それを証明してほしい」
 どうしようか、と彼女は悩んだが、すぐに当のアクリトから助け舟が出された。
「もうひとつ条件をつけよう、そこにユーモアがあることだ。君が私をくすりとでも笑わせることができれば、私は君を信用してもよい」
『それは、どのような笑いでもかまわないのでしょうか?』
 ちょっとだけヒパティアは迷う、笑いといったって色々な種類があるのだし、それが苦笑や嘲弄でもクリアされるのなら、手段の一つとして罵声を浴びせたって合格かもしれない。
 だが淑女たれと言い聞かせられている彼女にはできるわけがない。
『…あるところに、ランプの精と会ったものがおりました。彼はランプの精に絶対に解読されないパスコードを求めました。
 ランプの精は困り果て、苦し紛れに箱と猫を用意し、こう応えるように言い含めて手渡しました。
 しっかりと封をされた箱の中から猫はこう言いました。―お望みどおり、貴方に真の乱数を―
「…それが本当なら、私は降参するほかはないな」
 しばしの間があって、アクリトはぽつりと呟いた。笑わせるには到らなかったが、どうやら合格であるらしい。
「己をわきまえた人工知能など、そうはいまい。それとちょっとした興味なのだが、君はチェスは好きかね?」
「好悪の感情は覚えませんが、ある種のストレスは覚えるようです。なぜなら私は、囲碁も将棋もできるからです」
 今度こそ、アクリトは腹を抱えて笑った。