薔薇の学舎へ

波羅蜜多実業高等学校

校長室

葦原明倫館へ

古来の訓練の遺跡

リアクション公開中!

古来の訓練の遺跡

リアクション

「これほどまでに予想通りだと、拍子抜けですわ」
 崩城 亜璃珠(くずしろ・ありす)は、目の前に現れた理想の相手に満足していた。
『この人が現れたら』『絶対に現れるはず』と思ってはいたものの、万が一別の人だったらどうしようとの思いもあった。
 しかしあっさり実現した今となっては、悩んでいた自分を笑いたくなるくらいだ。
「戦わないのであれば、美緒を連れてこなくても良かったですわ」
 部屋に入って、理想の相手と手合わせをすると考えていたが、どうやらそれは違うらしい。結局、ためつすがめつ相手を側に置きながら至福の時間をすごしていた。

 ──少しでもあの人に近づきたい──

 もちろんそれは距離的な意味ではないのだが、例え虚像であっても、2人きりになれるチャンスは滅多にない。黒いセミロングの髪と、深い慈愛をたたえた瞳。端正な顔立ちは、どれだけ見ていても見飽きることはなかった。
 実際には、わずかな時間見つめるだけで、照れながら目をそらしてしまうが、ここではそんなことは無かった。思う存分、近寄って視線を合わせる。どんな形でも近づけるのはうれしかった。
『あれはいつだったか……』
 彼女と体重が同じと分かった時には、それ以来、増えも減りもしないように懸命に維持に努めた。おかげでヘルスコントロールになったものの、相手の体重が変わらないとは限らない。直接体重を聞ける機会などあるわけもなく、思い悩む材料が増えただけだった。
『ずっとこうしていたいけれども、他の学生もいることですし、そんなわけには行きませんわ』
 部屋に付けられていたappassionatoの言葉を思い出す。
『戦うのでないとするのなら……』
 そっと唇を近づける。今は精一杯の思いをぶつけるだけだった。亜璃珠が気がつくと、‘あの人’の姿は消えていた。

 □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □

 広めの部屋に壁一面の鏡。
「どうだ、何か思い出したか?」
 神崎 優(かんざき・ゆう)はパートナーで守護天使の水無月 零(みなずき・れい)に尋ねる。 
「ううん。良く憶えてないの。役に立てなくてゴメンね」
 すまなそうに首を振る零を神崎優は励ました。
「気にするな。もし、何か思い出せたら教えてくれれば良いから」
 神代 聖夜(かみしろ・せいや)陰陽の書 刹那(いんようのしょ・せつな)と共に、手分けして調べようかと相談していると、突然部屋が真っ暗になる。
 優は刀の柄に手を添えると、油断無く身構える。しかし不穏な気配は感じられなかった。
「皆はどこに行ったんだ?」
 傍らの零に尋ねるが、彼女は何も答えなかった。いつもの優しい笑顔で優を見つめているだけだ。そこで零の存在が一番以上であることに気付く。真っ暗闇の中で零の姿だけがしっかし見えていた。
禁猟区で何か感じないか?」
 念のためもう一度尋ねるが、それにも答えなかった。
「つまりこれが俺の理想の相手ってことか」
『きっと現れるはず』と零の登場を予想していたが、実際に零の姿を目の前にすると、安堵すると共に、心の奥底を覗かれたようにも感じる。いつの間にか優の顔は真っ赤になり、あたふたと戸惑うばかりになった。
 零はいつもと変わらず、優しい眼差しを優に向けている。この瞳になんど助けられてきたことか。感謝の気持ちは尽きないが、男として侍として、彼女を守ることができる存在になりたいとも痛烈に感じた。
 立ちすくむ優に、零がゆっくり近づいてくる。いつの間にか朱袴は脱げ落ちて、白衣や襦袢が徐々にはだけかけていた。心の奥底まで染み込んでくるような微笑をたたえながら、優の背中に両腕を回す。わずかに開かれた唇が、下からゆっくり迫ってくる。数センチの空間をおいて、零は目を閉じる。吸い込まれるように優も顔を寄せた。
「!」
 吐息を唇に感じた瞬間。優は零を突き放す。倒れた零が「どうして?」と言いたげに優を見上げた。

 とっさに駆け寄った優の背中が、いつもと違うのに零は気づく。改めて見直すと、姿形こそ優と瓜二つ。そして冷静なところも同じだった。
「誰……なんですか?」
 だからこそ零は気付いた。もし本物の優であれば、自分と2人っきりになれば、冷静さを保ったままでいるわけはない。優の成長を人一倍望みながら、そんなところはいつまでも変わって欲しくないと思う零だった。
「そうか、これが理想の相手」
 光輝appassionatoと名づけられた部屋の効果を思い出す。分かってしまえば、何のことは無い。むしろ優の姿が見えたことは、零にとって無上の喜びになる。
「後はappassionatoの意味ですが……」
 考える零に、優の像がゆっくり近づいてくる。いつもの優とは異なる、余裕たっぷりの表情で零の手を握ると、温かな笑みを浮かべた。
「そうですね。2人っきりの時は、こんな風にしてくれるとうれしいです」
 零も優の手を握り返す。そのまま優の胸に軽く顔をうずめた。
 どのくらいの時間がたっただろうか。零には長く思えたが、実のところは、ほんの数十秒だろう。優の左手は零の背中を力強く抱きしめていたが、右手は首筋から襟をたどり胸元に人差し指を忍び込ませていた。
 戸惑って見上げる零に、優の顔が迫ってくる。耳元でささやいた後に、唇を寄せてきた。そこに零は手のひらを挟む。いきなり止められた優は、不思議そうに零を見つめた。

 突然の暗闇にも神代 聖夜(かみしろ・せいや)は、あわてることはなかった。獣人の彼は夜目に自信があった上に、忍者として闇の中の行動にも鍛錬を重ねていた。
「おっ、刹那、無事だったか」
 陰陽の書 刹那(いんようのしょ・せつな)を見つけると、駆け寄って周囲を見回す。相変わらず誰の姿も見当たらない。
「こりゃ、どうなってんだ。停電じゃないよな」
 油断無く見張る聖夜の背中に、刹那は寄り添った。
「何だよ、怖いのか? まぁ、いいや、何か見つけたら教えてくれ」
 そう言ったものの、違和感が少しずつ大きくなる。相変わらず刹那は聖夜の上着の裾をつかんでいた。
「まさか、これが理想の相手だってのか?」
 その問いに答えるかのように、刹那は微笑んだ。
「ちょっと待て! 確かに刹那のことは嫌いじゃない! 嫌いじゃないどころか、仲間としても信頼してるぜ」
 叫ぶ聖夜に、刹那の微笑みは変わらない。
「でも理想の相手ってのは……、必ずしも違うって言えるわけじゃないが…………」
 いつになく言葉に詰まる聖夜に、刹那の像は魔道書に姿を変えた。そして聖夜へと弧を描いて飛び込んだ。
「おっと」と聖夜が受け止めると、再び人の姿に戻る。自然、聖夜が刹那をお姫様抱っこする格好になった。刹那は聖夜の首に細い両腕を回し、耳元で一言つぶやいた。
 聖夜は反応も鈍く抱いたままでいたが、突如、刹那を放り投げた。どこか打ち付けたのか、涙を浮かべた刹那が聖夜を見上げた。

 陰陽の書 刹那(いんようのしょ・せつな)は暗闇の中で手を引かれる。驚いたものの、相手が優であることが分かるとホッとする。
「面白い仕掛けがあるものです。おそらく全員が部屋に入ると、暗くなるのでしょう」
 冷静に判断したものの、手を握った優がそのまま自分を抱き寄せるのは不思議に思う。
「大丈夫です。身を守ることくらいはできます」
 そう伝えたけれども、優は刹那を抱きしめたまま、油断無く周囲を警戒している。確かに体術では侍である優の方が上だろう。とりあえずは身を任せた。
 十分に確認すると、ゆっくりと離れる。優はそれを許したものの、右手は握ったままでいる。
「心配性ですね」
 そう苦笑したところで、疑惑の念が浮かんだ。
『この部屋では理想の相手が現れるはず。だとすれば……』
 強引に手を振り解くと、優から距離を置く。どこをどう見ても、マスターの優だった。
「そなたが……優が、理想の相手……私の?」
 否定しようと思ったが、つい先ほど抱きしめられた感触がよみがえる。嫌悪感どころか、全幅の信頼感、それ以上に全てを委ねても構わない感覚さえあった。
 それを見通したかのように、優の虚像が再び刹那を抱きしめる。何千年生きてきたかすら想い出せないものの、これほどの安堵感を得たのは何度あったか。
 それでも両腕を伸ばすと、ゆっくり押しのけた。意外そうな優の表情が、刹那の心に突き刺さった。


「俺が好きなのは、水無月零だ。お前じゃない」

「こういう風にされるのは、正直嬉しいけど、やっぱり本物の優の方が良いな」

「俺の仲間はこういう状況でそんな不謹慎な行動はしないぜ。あんたは誰だ」

「残念ながら、その程度で私を惑わす事は出来ません」


 4人は元いた鏡の部屋に立っていた。明らかに虚像とは違う相手に、安心しつつもどこか緊張感が漂う。
「あ、そこ……ホラ……」
 はだけた零の胸元を指摘すると、優は視線をそらす。いつもと変わらない優を見て、零は胸を両手で押さえつつ、うれしさの笑顔を隠さなかった。
「刹那、どうだった」
「そなたこそ……」
「ん、まぁ、いろいろな」
「私もいろいろです」
 2人は少し離れて、優と零を見る。
「似合いの2人だぜ」
「お互いの姿が現れたみたいですね」
 刹那は優しく見守るものの、どこかトキンと心が痛む。
『私は優のことが好きなんだろうか』
 そう思い悩む刹那を、聖夜は横目で見る。
『今ここで抱き上げたら怒るだろうな』などと考えながら。 


 □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □

「まぁ、まるでどこかの遊園地のよう……」
 加能 シズル(かのう・しずる)を伴って、部屋に入った秋葉 つかさ(あきば・つかさ)は全体を見回した。
 鏡を覗き込むが、そこに映るのはもちろんそれぞれの姿。
「これが理想の相手……では、ございませんね。それはそれで一つの趣向ではあるのですが」
 肩の力が抜けない様子のシズルに話しかける。シズルが答えようとした時、部屋の明かりが消えた。

「あら?」
 真っ暗闇の中で、他者の気配すら感じられなくなった。つかさは竹箒をしっかりと握るものの、急変にも対処できるよう余分な力を抜いた。
 そんなつかさの目の前に、自分の姿が浮かび上がった。
「暗くても見える鏡なのですの? とても便利……」
 しかし映ったのはつかさだったが、服装が全く違う。そしてどう動いても、それは立ったままであることから、鏡像ではないことが分かった。
「つまり……私の理想の相手は私なのですね。あまり面白くありませんね。古代遺跡の機能にしては、よく考えたのかもしれませんが、不合格ですわね」
 余裕の笑みを浮かべるつかさに、理想像のつかさがゆっくり近寄ってくる。両の腕を広げると、静かに抱きしめてくる。
「ふふっ、appassionatoとは、こういうことなのですね。いろいろ経験を積んできた私も、自分相手は初めて、いえ歴史上、誰も経験したことがないのではございませんか」
 自らも虚像の背中に手を回す。そこでハッと目を見開く。
「まさか!」
 胸をわしづかみにする。柔らかな膨らみがあった。かつて自分が訳あって失くしたものを、虚像は失っていなかった。そのまま力任せに服を引きちぎる。虚像は一糸まとわぬ姿になったものの、身じろぎひとつするわけでもなく、温かくつかさを見つめている。
 虚像の──理想のつかさは、寸分たがわぬ姿でそこにいる。しかしつかさには分かる。理想のつかさは、自分がこれまで重ねてきた幾多の経験を、全く経ていないことに。 
 つかさは箒を振りかざすと、思いきり袈裟懸けに振り下ろす。決まったと思った瞬間、虚像は消えて、別な所に浮かび上がる。何度攻撃しても手ごたえは感じられない。それでいて虚像は温かな抱擁を繰り返してくる。やがてつかさは箒を投げ捨てた。転がる乾いた音が響く。
 虚像を睨みつけるつかさに対して、虚像は何度も抱擁を繰り返した。
「ずるい……のでは……ございませんか?」
 つかさはされるがままになりながらも、懸命に言葉で抗う。
「今更、私にそんな姿を見せて、どうしろと仰るんですの」
 そう言いながらも、つかさも虚像の背中に手を回した。柔らかな感触と温もり、そして漂う香りがつかさの認識を改めつつあった。
「クッ、ははっ! あははははっ!」
 突然笑い出したつかさは、虚像のつかさを手荒く突き放す。なおも歩みよってくる虚像に、仕込み箒を構えた。 
「先ほどは不合格と言いましたが、ギリギリ合格点を差し上げましょう。ですが、これ以上はもう不要にございます」
 軽く箒を振ると、虚像は姿を消し、部屋に明かりが戻った。

「シズル様、いかがでございました?」
「はい、フリューネさんが……」
 シズルは紅潮した頬をそのままに立っていた。
「それは……ようございました」
「つかささんは、どうでしたか?」
「私? 外れでした。古の遺跡だけに、全てに対応するわけには行かなかったようでございますね」
 ゆったりと微笑んだものの、抱きしめられた感触は当分消えそうにない様子だった。

 □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □

 その後、全員で部屋を調べたが、めぼしい発見はなかった。
 ただしいつの間にか天井に穴が開いていた点については、要報告とされた。