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絶望の禁書迷宮  追跡編

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絶望の禁書迷宮  追跡編

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第5章 敢えての白

 白一色。それ以外は何もない、誰もいない、何も聞こえない世界。地平の果ては、天涯はどこなのか。それすらも白の内に溶けて消えている。
「すいませーん! 誰かいませんかー!!」
 広瀬 ファイリア(ひろせ・ふぁいりあ)が、声を張り上げながら走り回っている。
「ファイリア様、絶対誰かはいるはずなんですっ」
追いかけながら、ニアリー・ライプニッツ(にありー・らいぷにっつ)が言った。
「はっ! そうでした! お願いしまーす、リピカちゃんから事情を聴きましたですー! ファイ達も協力したいので、お話させてくださーい!」
 答えの帰ってこない、そして白以外何も存在しない場所は何だか怖い。
「うぅっ、なんか泣けてくるですぅ」
「ファイリア様……ファイリア様の声は、きっとここの魔道書の方に届くと、私は信じています」
「うぅっ、頑張るですっ。ニアリーちゃんのお願い、ファイきっと叶えるですっ」
 普段願い事など滅多に口にしないニアリーが、同じ魔道書としてこの書庫の住人達の身を案じて、彼らを助けるために動きたいと願ったのだ。それを何としても叶えようと、ファイリアは、滲んだ涙を拭って、また声を張る。

 同じ頃、芦原 郁乃(あはら・いくの)と魔道書のパートナー蒼天の書 マビノギオン(そうてんのしょ・まびのぎおん)も、白一色の世界にいた。
「マビノギオン……これって」
「はい、想像の通りです。魔道書の影響でしょう」
 郁乃は、何もない白の世界を見回す。
「そうなんだ。……見渡す限りの白って何か怖いね……」
 黒い闇とはまた違う。闇の中には、何か隠れているような気がして怖い。だが、白一色の中では隠れることはできない。何も潜んではいないが、同時にそこには何もないということを、誤魔化すことができない。
「あたしには、この世界がわかる気がしますよ」
「そうなの?」
「えぇ……これは主なき魔道書を象徴しているのだと思います」
「主なき魔道書ってどういうこと?」
「自分の力の行使を認め、任せるに足る者に出会えていないということです。いうなれば、白紙の状態といえるでしょう」
 それはつまり、彩りを知らない心。
「白って、魔道書にとっては悲しい色なんだね…」
 そんな心を想うと、郁乃の中には、もどかしいほどに労しい気持ちが突き上げるように溢れてきた。どうにかして解り合い、外の世界を知ってもらいたい。自身が存在することを楽しんでもらいたい。乾いた白色に、彩りを映してほしい。
「ねえ! 過去に囚われないで、前向きに楽しんでいこうよ! まずはその姿を見せてっ! それでもっとお話をしようよ!!
そして一緒に世界を見に行こうよっ!!」

 アルツール・ライヘンベルガー(あるつーる・らいへんべるがー)は、白一色の世界の真ん中で目を閉じ、瞑想していた。
彼は、人を信じられないらしい魔道書が出てくるのを待つのに、呼びかけるよりも時間はかかってもただひたすら穏便に待つことを選んだ。自分も魔術師の端くれである以上、心を無にすることも、精神修養の一環と思えば大した苦にもならない。 心の中の無はやがて、体の外にある白しかない世界と一体化する。
アルツールの隣で、パートナーのソロモン著 『レメゲトン』(そろもんちょ・れめげとん)は、
「人型まで得たというに引きこもりを選ぶなぞ、我には理解できんな。何もせず座してただ待つだけのクソ真面目な本生活なぞ、我は随分昔に飽いたわ」
 こんなところに収まっている同族の生き方に首を傾げざるを得ないらしく、ぶつぶつと呟いていた。
 そんな呟きをよそに、アルツールは瞑目して心の中の無に浸っていた。が、
――……あなたは。瞑想を、するの?
 わずかに、その“無”の水面を揺らすような、微かな声が聞こえた気がして、目を開けた。
――……タイキョが、分かる?
 その謎めいた言葉を残し、声はすぐに聞こえなくなった。
「……タイキョ?」

 真っ白い世界には誰もいない。
 魔道書が隠れているのは最初から分かっていたとしても、他に誰かここに飛んだ契約者はいないのか、今のところ、それを考えるものはいない。なぜなら、白一色の世界の中に他人の影は見えないから、いるのではないかという疑問を抱く余地もない。皆、自分だけ、もしくは自分とパートナーだけしか、この白い世界にいないと思っている。
 紫月 唯斗(しづき・ゆいと)も、この白一色の中に自分と、どこかで自分の来訪を感知しながら身を隠しているだろう魔道書の存在しか感じられない。
「誰かいないのかー?」
「おーい、パレットを助けようぜー?」
 何度か呼びかけたが、返事がないので寝転がった。
「よしっ……と。話す気になったら声掛けてくれよ、それまで待ってるからさ」
頭の上にも白一色、転がった体の下も白一色。見えない相手を一方的な言葉で追いたてることはできないし、するつもりもない。
 根気強く待つつもりだった。けれど、同時に灰の司書やパレットを助けるためには、悠長にしているだけではだめだとも思う。
 そこで唯斗は、寝転がりながら、返事のない相手に向かって、今の状況を話して聞かせた。
 急がなくては、ここの魔道書にとっても悲しい手遅れの事態となるかもしれないから。

「おお、随分白い世界に出たものじゃのう。ここに魔道書連中が隠れておるわけか」
 全くこの白一色の世界に動じていないのは鵜飼 衛(うかい・まもる)だった。圧倒的な白しかない世界を、笑い混じりに見回す。
「まあ無理に出てきて貰う必要はない。食事でもして待つか」
 そうして衛はルーン召喚術式を編んだ。
「……ぬ。さすがに結界が強いようじゃのう。軽い抵抗感はあるが……ま、大丈夫じゃな」
 その言葉通り、お好み焼き屋台『はっくちゃん』が、白一色の世界に出し抜けに出現する。
「よしよし。さあメイスン。お好み焼きを振るまえ! 美味しそうな匂いに釣られて出てくるかもしれんからのう、カッカッカッ!」
 高笑いを受けて、メイスン・ドットハック(めいすん・どっとはっく)はやれやれ、というように屋台の裏に回る。
「全く、こんな客も往来せんような所で営業するハメになるとはのー」
 ぶつぶつ言うが、言葉とは裏腹に手際はあくまで良い。あっという間に、焼ける生地とソースのいい匂いが立ち昇りだす。
「さて、妖蛆。気配は感じ取れるかのう?」
 衛に言われて、ルドウィク・プリン著 『妖蛆の秘密』(るどうぃくぷりんちょ・ようしゅのひみつ)は、艶のある笑みを浮かべて頷いてみせた。
「えぇ、クスッ……こちらに興味津々なのか、気配は察知できましたわ」
 そう言って、白い世界を余裕ありげに見回す。

 白い世界に、あまりに似つかわしくない、あまりに突拍子もない取り合わせのお好み焼き屋台、お好み焼きの匂い。

――え? え、な、何? これ、なあに……?

 白い世界が動揺する。白一色の世界に幾つも現れる人と色彩と言葉とお好み焼き。

――お嬢、落ち着いて。おいらが代わるから。

 突然、世界から白い色が消えた。その代りに、深い緑の森や亜熱帯的な原色の花が、急激に背景に現れ出す。
「ほう、ずいぶん趣向が変わったのう」
「お好み焼きに驚いて、魔術空間の紡ぎ手が変わったようですわ。お好み焼きを知らないのでしょうか」
「どっちにしろ、屋台営業に向いている背景とは思えんのー」

 背景が変わっただけではない。白い世界だった時にはそれぞれ皆、自分とパートナーしかいないと思っていた、その空間が亜熱帯的な深い森の中で一気に繋がったのだ。
 そうなると、驚きながらも深い森の中で顔を合わせた契約者たちは、場違いなソースの匂いに惹かれて屋台の周りに自然と集まってくる。まさかと思いつつ目を疑う。
 そして。
「……あら、ついにお出ましみたいですわ。ずいぶん可愛らしい組み合わせですのね」
 森の木陰に、クルタパジャマ風の服装の少年と、彼に手を引かれたチャイナ服の幼い少女の姿がある。

「あの……それ、何……」
 少女――『お嬢』の目は、未知のものを見る驚きに少しの恐怖を綯交ぜにして、お好み焼きの屋台を見つめている。
「カッカッカッ、初めましてじゃな。お主らには未知のものかもしれんが、あれはれきとした食べ物じゃ。今日の記念に遠慮なく食べていけ。近づきのしるしという奴じゃ」
 お嬢はまだ面食らった顔をして、手を繋いだ少年――『リシ』を見上げる。リシはしばらく考えていたが、
「大丈夫だろう。お嬢、そこに腰かけさせてもらいな。おいらはここにいて、この人たちと話をするから」
 お嬢は、恐る恐る、メイスンの屋台の席の端っこに腰を下ろした。リシはその隣で、自分は立って、集まってくる契約者たちを見ている。
「もうすぐできるからのー」
 メイスンはそう言って、手際よくお好み焼きを返す。緊張していた様子の彼女だが、その手つきを首を傾げて眺め始めた。

「お主等、人間が嫌いか?」
衛は唐突にそう切り出した。面食らった風に、リシが黙っていると、
「答えないならそれでいい。さぞかし酷いことをされてきたのじゃな。じゃから人間を憎み、人間から隔離することを選んだか。
じゃが、何ともつまらんな。お主達、すでに死につつあることを理解しておらんのか?
生きるということは楽しむことじゃ。楽しみとは未知にこそ存在する。このような閉鎖した世界で生きるのは、楽しみの断絶。緩やかな死でしかない」
「……。『ヴァニ』によく似たことを言うね。あの人のはメメント・モリだけど」
 少年らしい姿に似ず、物言いは大人びていて、お嬢のような物怖じはなくはきはきしていた。
「生きることと娯楽を否定する気はないよ、でも今は仲間を守りたい。パレットからお嬢を預かってるんだ。お嬢はパレットのことが一番好きだけど、パレットは今忙しいから」
 なるほど、だから精一杯背を正して、堂々とこちらと渡り合おうとしているのか、と衛は彼を観察した。
 リシは今度は、首を巡らして、こちらを見ている唯斗に気付いた。
「あなただね、灰の司書とパレットの話をしてたの」
「紫月 唯斗だ。よろしくなー」
「おいらは『リシ著 「劫の断章」』。皆にはリシって呼ばれてる」
「作者の名前で呼ばれるのか?」
「リシってのはサンスクリットの聖仙のことさ。大きな経典を書いたリシの名前は伝わってるけど、おいらの作者の名前は残ってないみたい。教義の本筋とは大きく離れたことが書いてあるから、経典として認められずに教義の世界からは追放されたんだよ、おいらも作者も」
「…そうか。俺もリシって呼んでいいか?」
「いいよ。それで、パレットの話は本当? 本当に自分から……司書と一緒に火口に飛び込む気だとしたら、お嬢が悲しむ」
 途中から、隣りのお嬢に聞こえないよう、声をひそめてリシは訊いた。
「あぁ。俺は、司書やパレットを助けたいと思ってる。力を貸してくれるか?」
「……パレットが消えるのは、嫌だ。けれど、司書は……もしかしたら、このまま生きているのは、本人にとって苦しいことじゃないかと、思うことが時々あるんだ」
 大人びた表情が、子供っぽい悲しみとともに俯く。
「ちょっといいですかっ?」
 ファイリアとニアリーも、この話に加わった。
「ファイたちも、リピカちゃんから話は聞いてます! ファイたちもパレットちゃんを助けたいですっ!
 パレットちゃんに何かあったら、お嬢ちゃんやリシちゃんだけじゃなくて、リピカちゃんも悲しみますっ!」
「私たちは、貴方がたを傷つけるつもりはありません。助けに入れるよう、灰の間までの道を作って頂けませんでしょうか?」
 力いっぱいのファイリアの言葉、ニアリーの真摯な言葉に、リシは生真面目な思索顔を向けた。
「…ちょっと待ってて。そういうことなら、やっぱり、お嬢にも訊かないといけない」

「ちょっといいかな」
 お好み焼きをモソモソ食べているお嬢の横に、アルツールが腰かけ、声をかけた。
「君かな? あの時俺に、タイキョって言ったのは」
 お嬢はアルツールを見上げ、こくんと頷いた。
「どういう意味だったのかな。タイキョっていうのは」
「……太虚。虚空。無であり、すべての有の源。瞑想している人は、知ってるのかなって」
 これまた、幼げな物言いに似ぬ単語が飛び出す。
「俺がそれを知っているのか、訊きたかったと?」
「……太虚を真に理解できる人なら、私を破らないから」
「破られたの…?」
 横で聞いていた郁乃が、引くような声で尋ねる。すると、リシがそこに出てきた。
「彼女は『極意書「太虚論」』。古代中国の宇宙観にある森羅万象の根源、「太虚」を論じた書さ。
 ……けど、中身はどこまでも白紙なんだ。
 太虚とはひたすら気が散じた空虚の状態ゆえ、白紙以上にその実像を伝える文言はない……という、作者一流の極意の伝え方、のだったらしい。
 おいらは、なかなか頓智が効いてていいと思うんだけど。読んでて本気で怒る人がいたみたいでね。
 ふざけすぎだって、逆上して、ページを破る人もいたんだってさ」
「乱暴ですわね、それは」
 聞いていた『妖蛆の秘密』が呟く。お嬢はずっともそもそと食べているが、突然、
「けど、私を破っても太虚はなくならない。どこまでも白紙の中に、どこまでも太虚はあるの。読める人には読めるの」
 幼い声で、敢えて白い自分の頁の中に秘められた哲学を、幼い意固地さで告げる。悲しげな眼で、それでも精一杯に。
 マビノギオンはそれを聞きながら、あの白い世界は、単に彼女の書物としての状態を表したものだったのだろうか、と思い、主を持たぬ魔道書の空虚と読んだ自分が間違えたかと一瞬、思った。
 しかし、よく考えてみれば、あの世界では契約者同士は出逢わなかった。それはやはり、彼女の孤独の反映のように思う。
 深い意味が込められているとはいえ、白紙によって傷つけられた彼女が、今も白紙の後ろに隠れようとするということには、彼女の世界の乏しさと乾きが感じられる。
 それが分かっているかのように、マビノギオンの主は、痛々しげにお嬢を見つめていた。

 お嬢も含め、集まった全員で話をした。
「司書をどうするのがいいのか、分からない」
 そう力なく呟くリシに、アルツールが提案した、問題を解決する司書の身の処し方の案は、「イルミンスール校長が灰の司書と『契約する』」というものだった。
「校長は様々な、他の契約者とは一線を画すパートナーを持つから、校長となら契約出来るのではないかと思う。
 校長と契約すれば、司書は今まで通り、「本の再生」を行えるだろう。いや、契約によって却って捗るだろう。
 意思や感情がほとんど確認できないと言うが、そういう話ならうっすらとでも興味を示し、話に乗ってくるんではないか?」
 提案を受け、リシは考え込む。
「どうかなぁ……出来るのかな、そんなこと」
「確実にできる保障は無い。だが、失敗しても恐らくリスクは無い分、試してみる価値はあるのではないかな」
 そうか、と頷きながらも、リシの表情に冴えはない。……やがてぽつりと、
「一瞬でいいから、司書が心を取り戻して、何か、自分の希望を話してくれればいいのに」
 呟いた。それが恐らく、一番の本音なのだろう。
「私、パレットを失うのは嫌」
 お嬢の声は涙混じりだった。
「それだけ自分の願望があるのなら、もっと我を通せ、通したければ我を出せ、自分がしたいことに正直に動いてみろ」
 そう言ったのは『レメゲトン』だった。
「俺たちも一緒に、君たちのしたいことを助ける。だから、灰の間を開いてくれないかな」
 唯斗が言った。他の契約者たちも口々に「そうだ」「そうですわ」などと頷く。

「うん、分かった。……でも、おいらとお嬢だけじゃ、難しいんだ」