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リアクション
第9章
蒼空学園の図書館。
多比良 幽那(たひら・ゆうな)は読んでいた本を閉じ、ため息をついた。
どうしたというのだろう、せっかく調べものをしていたのにどうにも集中できなくなってきた。さっきまではそんなことはなかったのに。
「……そういえば、騒がしいわね」
集中できない理由は分かっている。どうしたわけか特定の男性が頭に浮かんで離れないのだ。
クド・ストレイフ(くど・すとれいふ)。
今も蒼空学園にいるはずの彼の顔がちらついて離れないのはどういうことだろう。
「……噛みたい」
ほう、と色っぽく息を漏らす幽那。
あらかじめ言っておくが、彼女は特にクドと付き合っているわけではない。そもそも調べものに熱中していたのでさっきの放送はキレイに聞き逃していた。
つまるところ、今の彼女は自分がガスに感染していることも無自覚で、それにより特定の人間を噛みたくなるということがどういう意味を持っているのかも無自覚。
ただ、噛みつきたいという想い翻弄される感情を持て余しているのだった。
「……ダメね、これは確かめておかないと」
植物学者でもある彼女は探究心が強い。自分に不可解な現象が起こっているとしたらその理由は確認しておかなければならなかった。
そして彼女は図書館を出て、廊下を走る。
廊下で絡みつく男女の姿はすでに目に入らない。この時点で彼女の症状はすでに重傷だったと言えるだろう。
一人クドを求めて廊下を走る彼女の目は――すでに獲物を求める野獣の目であった。
☆
クロス・クロノス(くろす・くろのす)はパートナーの井上 源三郎(いのうえ・げんざぶろう)と共に学園の図書館に向かっていた。
源三郎は、図書館から出てきて廊下をパタパタと走る幽那とすれ違って振り返った。
「はて、今の女性は……?」
どことなく足元をふらつかせて視線の定まらない様子の幽那が気になったのだ。
源三郎は外見的には40歳の男性。もとは新撰組の六番隊組長であったがその頃から面倒見が良く、英霊となった今もその性質は変わるものではない。ちなみに、外見もその当時のまま、亡くなった40歳の時のものだ。
「クロス君、今の女性――」
は大丈夫だろうか? と一人言のように呟いた源三郎の着物の袖がくいくい、と引かれた。クロスだ。
「――ねぇ、源さん」
「え?」
振り返って幽那を目で追っていた源三郎は、反対側からクロスに袖を引っ張られてクロスの方に向き直る。
その途端、クロスが抱きついてきた。
「ク、クロス君!?」
さすがに驚いたのだろう、源三郎は二、三歩と後ずさるが、クロスは遠慮なく抱きついて自分より10cmほど背の高い源三郎の頬に噛みつく。
背伸びをして抱き付いているので、源三郎が支えてやらないとバランスを崩してしまう。
「突然どうしたんだ、は、離れなさい!」
とは言うものの、生来から心根の優しい源三郎は女性を乱暴に突き飛ばすこともしたくはない。できるだけ穏便にクロスを引き離そうとするが、いつの間にやらすっかり感染していたクロスははむはむと源三郎の頬を噛み続けるのだった。
「一体何をしているのかね、クロス君……」
どうやら危害を加えようという気はなく、本当にただ噛んでいるだけのようだと認識した源三郎は、何とか説得を試みた。
「ほおをはんへいまふ」
頬を噛んでいます。
「どうして噛んでいるのかね……こそばゆいから、あまり噛まないで欲しい」
頬を噛んでいるということは、クロスの顔は源三郎のすぐ近くにある。美しい黒髪、銀色の瞳、大人びている外見で無邪気に頬を噛むクロスをどうしていいか分からない。
クロスはというと、すっかり正気を失い源三郎の頬をすっかり満喫していた。
「ほえもおいひいおえ、はんへいはいえふ」
とても美味しいので、噛んでいたいです。
「――おいしい、のか? 一体どうしてしまったんだ、クロス君!!」
さすがにそこは自分の頬だ、味などするわけがないと分かっている。
学園に来たばかりで、ガスと解毒薬に関する放送を聞いていなかった源三郎はただ戸惑うばかり。
噛み続けていると息が苦しくて疲れる。クロスは一瞬だけぷはっと大きく息をするために口を離した。
「ふぅ……少したるんだ感じがたまらない……」
「た、たるんでるっ!? たるんでいるかっ!?」
軽いショックを受けて、ついバンランスを崩してしまう源三郎。ふらりと足元が揺れて、クロスと共に倒れ込んでしまった。
「おっと!」
「きゃっ!」
何とか自分が下になってクロスを衝撃から守る源三郎。クロスはというとその体勢でも構わずに源三郎の頬を噛み続けている。
「はむはむ、しあわせ〜」
至福の表情を浮かべるクロスに、説得を諦めた源三郎。
もともと年の離れた英霊を望んでいたクロス。彼女には自分に関する全ての記憶がない。
ひょっとしたら、自分に父親の役割を無意識下で望んでいるのだろうかと、源三郎はクロスの頭をぽんぽんと撫でた。
「――まあいい、何が原因かは分からないが、好きなだけ噛みなさい」
「わーい、はむはむ……」
そのまま本当に延々と頬を噛まれることになった源三郎だった。
☆
一方こちらは学内の廊下、状況を分析したクド・ストレイフが一人、猛っているところだ。
「ふむ、好意を抱く相手に噛みつきたくなるということは……今日は噛みついてもガスのせいにして許されるデー!?」
初めて聞いたよそんな日。
「すげぇっ! これはもう噛み放題!! 噛まないわけにはいかない!! おお、噛みたくなってきた、なってきたぁーっ!!!」
一人でもの凄く燃え上がるクド。こうなったヤツは誰にも止められない。
「これがガスの症状かっ! これはもう噛んでしまっても仕方ない!! そう仕方のないことなのだーっ!!!」
ところでキミ、別に感染してないよね。
そう、別にクドはガスに感染していたわけではない。
にも関わらず『噛みついても許されるかもしれない』という状況だけでここまでテンションを上げられるのは、ある意味で羨ましいと言うか何と言うか。
そのクドを遠くから見つけたのが多比良 幽那である。
「……いたわ。さあ、クドを噛みたいというこの気持ちが何なのか確かめさせてもらおうかしら。……クドぉーっ!」
本人としては可愛らしく駆け寄ったつもりだが、実は禁断症状が色濃く出ていた彼女の目は鋭く釣り上がり、その歩みもネコ科の野獣のようにフットワークが軽い。
「おお、折りしも俺の名を呼ぶ女性の声……あれは幽さんじゃありませんか!! よぉしここはひとつ噛みつかせて――」
迫り来る幽那を迎え撃つ構えのクド、しかし実際に感染した幽那の方がやはり勢いに勝っていた。
「おふぅっ!?」
先手は幽那が取った。挨拶もなしに噛まれるクドの頬。
ちょっと考えればクドには分かっていた筈である。
『好意を抱いている相手に噛みつく』という症状。
自分は感染していないとしても、目の前の幽那は今、普段からはあまり想像もつかないような勢いでクドの頬を噛んでいる。
つまり幽那はクドのことを――。
「よぉし、これは噛みデュエルの申し込みだなっ! 受けて立とう!! いざ尋常に勝負!!!」
駄目だこりゃ。
ともあれ二人はその流れのまま噛みデュエルに移行していった。
片や自らの気付かぬ想いに支配され、クドという目の前の獲物に噛みつく一匹の野獣と化した多比良 幽那!
片や自らの邪な想いを逆手に取り、幽那という強敵を相手に心ゆくまで決闘を楽しもうという一匹の猛獣、クド・ストレイフ!
蒼空学園の廊下にふたつの野生がぶつかり合うッ!!
それは、野獣と猛獣の激しい喰らいあいに他ならないッ!!
噛むか、噛まれるかッ!! 噛みつかれたら噛み返せッ!!
倍にして返せッ!!!
☆
ぷに。
ぷにぷに。
ぷにぷにぷに。
芦原 郁乃(あはら・いくの)のパートナー、秋月 桃花(あきづき・とうか)は郁乃のほっぺたをぷにぷにとつついている。
場所は教室。周囲のクラスメイトは噛み合ったりしている者もいれば、辛うじて平静を保っている者もいた。
確かに桃花は郁乃の恋人兼保護者役として周囲からは公認されているものの、あまり表立っていちゃいちゃすることはない。というのも、桃花は今どき珍しいほどの純情乙女で、淑女の鑑とも言えるヤマトナデシコなのだ。
「あの……桃花?」
その桃花が人前で郁乃のほっぺたをつついている。これはとても珍しいことだった。
「うふふふ……」
桃花はと言うと、至福の表情で郁乃のほっぺたをつつき、うっとりと微笑む。
そして頬に自らの顔を寄せ、甘い香りを楽しみ、柔らかさを楽しみ、ほっこりとしたその暖かさを楽しんだ。
そして。
「――いただきます」
行儀良く手を合わせて、郁乃の前できちんとお辞儀をした。
何を? と郁乃がきょとんとしていると、桃花はもう我慢できなかったのか、その柔らかで甘くて素敵な生物――すなわち郁乃、の頬に噛みついたのだった。
「えっ――と、桃花?」
郁乃は戸惑いの表情を見せる。普段であれば間違いなく見られない光景に、郁乃だけでなく周りのクラスメートも驚いている。
そこにふらりと男子生徒が詰め寄った。どうやらこちらも禁断症状に耐え切れなくなったのだろう。
普段から小さい身体で元気いっぱい、明るく楽しい郁乃には隠れファンも多い。どうやらその一人といったところか。
「ア、 芦原さーん!」
だが、桃花がそれを許すはずもない。
「……郁乃様は私のものです。私の許可なく触れることなど許しません」
オートガード! そしてライトニングランス!!
瞬間的に繰り出される攻撃に教室から吹き飛ばされて気絶する男子生徒。桃花は不届き者を成敗し、改めて郁乃の頬をはむはむとし始めるのであった。
「あ、そうか。桃花、感染しちゃったんだ……」
驚きのあまり忘れかけていた可能性に思い当り、郁乃は納得した。
「はむはむはむはむ」
「ま、いいか……桃花になら噛まれても」
と、ひとまずの落ち着きを見せる郁乃だが、事態はこれで終わらない。
「お、お姉ちゃんたち……何をしているんですか……」
現れたのは荀 灌(じゅん・かん)、郁乃のもう一人のパートナーだ。
「あれ、荀灌。どうしてここにいるの? 中等部にいるはずじゃ……」
そう、荀灌は中等部所属の生徒、ここは高等部だ。
もちろん、ガスに感染して郁乃に噛みつきたくなってはるばる高等部の教室までやって来たに決まっているのだが、そんなことを面と向かって言えるはずもない。
「そ、それは……なんか変な事件が起こっているみたい……でしたから、お姉ちゃんたちは大丈夫かなって……」
ぶつぶつと言い訳をする荀灌だが、その視線は郁乃の頬に噛みつく桃花に注がれている。
「その……だから……私……」
じー。
「えーと……荀灌も噛みたいの?」
「是非!! ……い、いや。そうじゃなくて……おほん、そんなことはありません」
今、是非って言ったよね。
顔を赤らめつつそっぽを向いて口だけの否定をする荀灌だが、やはり郁乃の頬が気になるのだろう。ちらちらと送る視線を隠せていない。
桃花に噛みつかれながらも、郁乃はぷっと吹き出してしまった。
「……噛みたいんでしょ? 私、桃花と荀灌なら噛まれても平気だよ?」
「なななな何を言ってるんですか! お姉ちゃんの柔らかいほっぺとかお手てとかおっぱいとかおしりとかそんなの……そんなの……」
さりげなく聞き捨てならない部位が含まれていた気がするんですが。
「ねぇ、荀灌?」
郁乃と桃花の優しい呼びかけに、荀灌は思わず顔を向ける。
「――おいで♪」
「柔らかくて素敵ですわよ♪」
――荀灌、陥落。
「おいしいですぅ〜」
右頬は桃花が噛みついているので、反対の左頬にはむはむと噛みつくことになった。
ちょっと恥ずかしいくらいで実害はないのだが、郁乃はちょっと気になっていたことを聞いてみた。
「と、ところで……あ、味とかどうなのかな……二人とも」
二人は満足気にささやくのだった。
「マシュマロみたいで……素敵ですわぁ〜」
「おいしいお砂糖との……夢のコラボレーションですぅ〜」
二人が満足なら良かった、と自らも幸せな気持ちに浸る郁乃だった。
☆
「おねーちゃん、だいすきーっ!!」
伊礼 悠(いらい・ゆう)のパートナー、マリア・伊礼(まりあ・いらい)は感染した瞬間、何のためらいもなく悠に噛みついた。
引っ込み思案で内気、あがり症で人見知りを治したいという悠の心の葛藤から生まれたアリスであるマリア。そもそもが躊躇というものから最も遠い存在なのだ。
がじがじと悠に登って頬といわず耳といわず噛みまくるマリアに、当の悠は戸惑うことしかできない。
「マ、マリアちゃん? 急にどうしたんですか?」
悠も今の学園での現象は理解しているが、いざ自らの身に降りかかると咄嗟には反応できないものである。
いいように耳や頬を噛まれ、恥ずかしさとくすぐったさに思わず手を伸ばした。
その先には、同行していたパートナー、ディートハルト・ゾルガー(でぃーとはると・ぞるがー)の姿がある。
「ディ、ディートさん、たすけて……」
我を失ったように、マリアが悠に噛みつくその光景を眺めていたディートハルトは、悠の声で我に返った。
「ハッ!? ……こ、こら……離れなさい、悠が困っているだろう……」
何とかマリアを引き離そうと悠とマリアに近づくディートハルト、当然、差し伸ばされた悠の右手をすり抜けて――
――すり抜けられずに、悠の右手をそっと包みこんだ。
「へ? ディ、ディートさん?」
悠はさらに戸惑った。普段から無口でどちらかというと無表情、守護天使という使命から悠を献身的に守り続けるディートだが、その実本心は分かりにくい性格だった。
そのディートが、自分の手を取って愛おしそうに眺めている。
これは夢だろうか、いや違う。
夢でだって、こんな表情は見たことがなかい。
さらにディートハルトは悠の右手を撫で、その甲にそっと口付けをした。
彼もまた静かに感染していたのである。
「あ、あああああの、ディートさんっ!?」
「あーっっっ!!! オッサンなにしてんのよーっっっ!!!」
悠とマリアが同時に上げた声で再び我に返ったディートは、慌てて悠の手を離し、一歩引いた。
「おねーちゃんはオッサンには絶対渡さないんだからね!!!」
べー、と舌を出して悠に噛みつき、マリアはさらに至福の表情を見せる。
だが悠はというと、そんなマリアのことも気にせずに、ディートハルトに口付けされた右手の甲をぼんやりと見ている。
「い、今の……」
だが、ディートハルトは自分の行為に驚くばかりでもはや悠の顔をまともに見られる状態ではない。
「す、すまん……何でも……」
もはや言葉すらしどろもどろなディートハルト。
二人は特に恋人というわけではない。もちろんお互いに好意は持っているが、それはあくまでもパートナーとしての信頼関係――の筈だった。
悠はそっと、右手の甲を撫でた。熱い。
何だろう、これは。
こんな熱さ、知らない。
こんな感情、知らない。
こんな気持ち――知らない。
思わずよろけたディートハルトを、著者不明 『或る争いの記録』(ちょしゃふめい・あるあらそいのきろく)――略してルアラ、は後ろから支えた。
「おっと、大丈夫ですか?」
「あ、ああ……大丈夫だ」
全く、何が大丈夫なものか。とルアラは内心ため息をついた。
二人ともまるで鈍感が服を着て歩いているようなものだ、これで恋愛感情は持ってないというのだから、と。
こんな二人など放っておこうかとも思ったが、逆に少しでも自覚させてやらなければならないと思った。
彼の、彼女に対する気持ちに。
「……ディートハルトさん、悠さんを噛みましたね。感染したんでしょう」
「う、うむ……そうかもしれん……すまない」
実際のところは噛みついたというよりも明らかなキスだったが、そう言うとまた話がややこしくなるので、ルアラはあえて噛みついた、と表現した。
「貴方は悠さんに対して、どのような感情をお持ちなのでしょうか……? 感染の対象者は、普段から好意の持っている相手……ですよね」
「こ、好意は持っていて当然だ……パートナーなのだし、私には悠の守護天使としての使命が……」
もはやそれが何の言い訳にもならないことに気付いていないのは本人だけだ。ルアラは続ける。
「そうでしょうか? では何故、貴方の顔は真っ赤なのです?」
「そ、そんなことはない!」
と否定するディートの顔はますます赤くなるわけで。
「本当はマリアさんのように噛みついてみたいと思っているのではないですか? ほら、あんな風に悠さんに」
そう言われて思わず瞳を上げるディートハルト。相変わらずマリアにいいように噛まれながらもこちらを見る悠と、視線が合った。
「あ……」
何も言えずに、一瞬で視線を外してしまうディートハルト。
悠はもう一度自分の右手の甲を見つめ、ディートハルトに気付かれぬように、そっと口付けた。
こんな胸の高鳴りは、知らない。
こんな熱さも、感情も、気持ちも、知らない。
知らな――かった。
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