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■8


 同様に英霊である瀬伊が背を押すと、トリスタンが一歩前へと進み出た。伴ってやってきた貴瀬やテスラがその姿を見守る。
「私には、決して没した彼女を見ることは叶わないようですが――パラミタに来た後、私が嘗て愛した女性と瓜二つの少女がしばらくの間、蒼空学園へと通っていました」
 語り出したトリスタンの姿を、皆が見守る。
「けれどナカラで全てを消化した私は、二度とあのような悔恨の残る不義を働かまいと誓ったのです。なぜならば、私にはその後愛する人が出来たので」
 トリスタンは思い出すようにそう語った。
「私には、地球において、『白い手のイゾルデ』がいてくれたのです」
 トリスタンとイゾルデとは、三角関係の物語である。一般に、トリスタンの叔父であるマルク王と、婚姻を結んだイゾルデと、その合間にいたトリスタンの――そしてトリスタンとイゾルデが恋をし不貞を働いた逸話として有名だ。
「そうして私はナカラへ墜ちました、けれど」
 トリスタンは過去を懐かしむように語る。
「私の地球における最後を綴ってくれた方がいたのです。そして、私を愛してくれた人もいたのだろうと、私はそう思っています」
 トリスタンは何処か遠い目をしながら続けた。
「だからこそ、名も姿も同じ彼女に出会った時、私は困惑しました」
 いったい何の話しなのかと耳を傾ける、集合した一同の前で、苦笑を浮かべるように彼は微笑む。
「イズールト、そう名乗るパラミタ人の彼女は、あまりにも私が知るイゾルデに酷似していた」
「その娘と貴方は待ち合わせをしたの?」
 貴瀬のそんな問いに、ふるふると彼が首を振る。
「私にそんな資格はないと思いました。だから、せめて幸せになって欲しいと」
 続けた騎士は、緩やかに腕を組む。
「だから私はただ見守っていました。彼女に幸せが訪れるように」
「ですがイズールトさんは、いません」
 冷静にイルマが返すと、深々とトリスタンが頷いた。
「事故で亡くなってしまったのです。ただ――まちあわせをしていた今日のこの日は、彼女を見かけたという報告を度々聞くのです。樹の下へと訪れる姿、補講に現れる姿、そんな彼女を目撃する者は多いそうです。私には視えなくとも、皆の想いから具現化するのか、今日だけは、彼女は恐らく多くの皆の前に姿を現すようです。だから、だからこそ、彼も毎年補講を行ってっているのでしょうね」
「彼?」
 蒼空学園に属するテスラが、率直に追求する。
「ええ。きっと彼は、ずっと待っているのでしょう」
 そう告げた後、トリスタンは腕を組んだ。
「自分には視えないんですが、毎年この日、どうやら幽霊になったらしいイズールトは補講に来るらしいと、もっぱらの噂です。その為、数年前にトリスタンとイゾルデの作者――アイルハルト・フォン・オベルクの英霊で、私の最後を……白い手のイズールトとの恋を、トリシュトラムで唯一彩ってくれた彼は――今でも待っているようです。作者が登場人物に恋いする事など嘲笑する人間もいるでしょうが。待ち合わせ場所で、待ちぼうけた過去を持つ彼は、教職を退いた後も、毎年この日に蒼空学園で補講をさせてもらって、幽霊でも良いから来てくれればと彼女を待っているとの話しです。その為、いくつチョコを貰っても、お返し用に持参している品は一つだけだとか」
 伴い話を聴いていた瀬伊が細く息をついた。
「貴殿も苦労したようだな」


 自分の素知らぬ所で、自分の話題が出ているとはつゆ知らずアインハルトは自室へと戻った。彼は英霊になる前は、一介の地球人に過ぎなかった。アインハルトとは元々建築家の名前である。同時にカール大帝伝を記したかの人に憧憬を抱いた一人の青年に過ぎなかった過去を持つ臨時講師は、生前のある時森でパラミタ人の女性と出会ったのだ。
 だからこそ他の言語の断片にはないトリシュトラム――トリスタンの物語を描写した彼だったのだけれど、自身がナカラへ下ることも、その後英霊となることも、一切当時は考えてはいなかったのである。
 彼の本当の名は、アイルハルト・フォン・オベルクという。
 アインハルトは、彼が尊敬してやまなかった建築家の名前で、いつか森でイゾルデと名乗るパラミタ人と出会った頃、特にその著作を敬愛していた記憶が朧気に残っている。
 だからこそ自身が英霊になった時、名乗る名を思案して、彼はスペルを変え、尊敬する人物と同じ名を名乗ることを決意したのだ。
――自分自身が、詩人だった時の記憶は曖昧である。
 ただナラカに墜ちるその直前、彼は確かにパラミタ人の少女と地球上にて偶然遭遇したのである。だからこそトリシュトラムとくくられる、古いトリスタンとイゾルデの物語を嘗て綴った彼だった。そして――ナカラを経てこの地に至った直後、自身が紡いだというイゾルデに酷似したイズールトと恋におちたのも若かりし頃の彼である。結局、古い伝承にある、嘗て自分が出会ったはずのイズールトを見つけることは出来なかったのだけれど。
 けれどそれでも、その頃の彼は幸せの絶頂にいた。
「今年も会えなかったし……渡せなかったな」
 思わぬ騒動で、叶わなかったその事実に、あるいは毎年繰り返しているその出来事に、例年一つだけ用意しているホワイトディのお返しを、ひきだしを開けてアインハルトは一瞥した。既に古びてしまった青いベルベット張りの小箱がそこにはある。
 補講に現れるという噂を何度耳にしても、彼は一度もイズールトの姿を目にしたことはないのだ。
――それでも、もしかしたならば。
 そんな心中で、彼は小箱を無造作にポケットへ入れ、廊下へと歩み出たのだった。
 いくらラブホ仕様になってはいても、自分が貸し与えてもらっている教室は一つなのだから。
 そうした思いで補講が行われるはずだった教室へと向かったアインハルトは、こめかみと両腕、そして左足から流血しているヘイズの姿を見て取った。
 血塗れで倒れている彼は、普段は優しげなその瞳に、疲れきった色を浮かべている。
 彼の血の気の失せた手には、ワインレッドの小箱が握られていた。
 色こそ違えど、先程アインハルトが外套へとしまった箱に酷似している。
「大丈夫か?」
 そんなことを考えつつも、アインハルトはそう声をかけた。
「……大丈夫に見えますか……?」
 掠れるような声音で呟いた彼をかかえおこし、アインハルトは呟く。
「見えない。――それにしても、その手にしている箱はなんだ?」
 手持ちの痛み止めなどを飲ませながら尋ねると、ヘイズが苦笑するように吐息した。
「ヴァレンタインディのお返しです」
「中を見ても良いか?」
「……どうぞ。このままじゃ、渡せそうにもないし」
 そんなことはないだろうと思いながら、アインハルトは中を見て息を飲んだ。
 そこには嘗て自分が購入したペンダントによく似た銀色のアクセサリーが鎮座していたからである。
「諦めるな、渡すが相手がいるんなら」
――渡す相手がいない自分ですら、未だ諦めていないのだから。
 そうは続けずにアインハルトが告げた時、勢いよく補講の教室の戸が開いた。
「ヘイズさん!」
 扉を開け放ち現れたのは、レンジアだった。
 彼女は、ハイドや氷雨、オルフェリア達から、禁猟区を駆使して逃れながら、ここまでやってきたのだった。歩み寄った彼女は即座に、ヒールでヘイズを助ける。
「レンジア……」
 お返しをしようとしていた相手の出現に、狼狽えるように、回復したヘイズが唇を振るわせる。
「よく此処にいると分かったな」
 二人の姿を見て、大丈夫だろうと判断したアインハルトが、静かに立ち上がり扉へと歩み寄った。それは何気ない呟きで、また返答したレンジアも素直に返しただけである。
「ええ、ここまでイズールトさんという方が案内してくれたんです」
 だがその言葉に、アインハルトが勢いよく振り返った。
「なんだって? それで? 彼女はどこへ行ったんだ!?」
「えっと……多分、私を連れてきてくれた後、右側の、玄関側へ……」
 レンジアの回答を聞くやいなや、アインハルトは乱暴に扉を開けた。そうして彼は走り出したのだった。