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魔の山へ飛べ

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魔の山へ飛べ

リアクション

   五

 一雫 悲哀(ひとしずく・ひあい)は、気配を出来得る限り断ち、木から木へと移動していた。
 願いを叶えてもらった者もそうでない者も、皆「神さま」についての記憶はないという。これが偶然であろうはずがない。おそらく、「神さま」が意図的にそうしているのだろう。
 理由は分からないが、記憶を奪うということは、知られたくない情報があるに違いない。意に反して、一年前にはブームが巻き起こってしまったわけだが。
 その情報が何であれ、「神さま」に見つかれば記憶ごと奪われる可能性がある。従って、「神さま」に見つからぬよう行動する必要がある、と悲哀は考えていた。
 悲哀の後ろからは、カン陀多 酸塊(かんだた・すぐり)がついていく。
 悲哀は酸塊が見える距離にいるのを確認しながら、次の枝へ移っていた。体長五十センチほどの蜘蛛型ギフトはまだ子供なので、彼女に遅れぬようにするのが精一杯だった。
 何十本目かの枝に飛び移った悲哀は、突いた手の平が枝から離れぬことに気付いた。べっとりとした樹液のようなもので貼りついている。
「これは……?」
と思ったときには、目の前に目の前に大きな蜘蛛がいて、悲哀は一瞬、息を飲んだ。
「引っ掛かった引っ掛かった」
 大蜘蛛の頭胸部に人に良く似た顔がついていた。表情はほとんどないが、顔つきや声からすると男――いや、雄のようだ。
「人間は久しぶりだ」
 舌なめずりでもしそうな声で、大蜘蛛は言った。
 悲哀は手の中で「ナラカの蜘蛛糸」を繰った。大蜘蛛が近づいてきたら、これで手足を切断するつもりだった。
「待って! 待ってよ!」
 後ろにいた酸塊が追いついてきて、叫んだ。ああ、と悲哀は唇を噛む。敵が現れたら隠れているようにと指示してあったのに、我慢できなかったらしい。こうなれば、酸塊には指一本触れさせず、敵を倒してみせる、と悲哀は大蜘蛛を睨んだ。
 ところが大蜘蛛は、酸塊を見て「何だ」とがっかりした。
「これはお前のか。だが俺の縄張りに勝手に入ってきたんだ、タダじゃすまないぞ」
「ご、ごめんなさい……」
「――まあ、いい。仲間の餌に手を出すほど、落ちぶれちゃいない」
 どうやら大蜘蛛は、酸塊を仲間と勘違いしているらしかった。
「お前の縄張りはどこだ? 何で俺のところへ来た?」
「え……と、その、ボクたちは神さま……」
「なに、頂上へ行くつもりか? 行ってどうする?」
「やはり頂上に『神さま』がいるのですか?」
 大蜘蛛は悲哀を蔑むように見た。「餌の分際で、それを知ってどうする?」
「――餌だからこそ、知っておきたいのです」
 話を合わせれば、ベラベラ喋ってくれそうである。悲哀も決して話し上手ではないが、酸塊よりはましだ。彼女は大蜘蛛から話を引き出そうと試みることにした。
「私は、貢物だそうですから」
「人間みたいなことを考えるんだな、お前」
 大蜘蛛は酸塊を見ながら言った。
「『神』は俺たちを見守ってくれるだけだ。手出しはしない。知ってるだろう?」
 そういえば、先日の反乱でも「神さま」が何かをしたという話は聞かなかった。
「では、『神さま』は何のためにいるのですか?」
「知るかよ。けど、この山で食い物がなくなったことはこれまで一度もなかった。何千年もだぜ? 奇跡的じゃないか?」
 葦原島の長い歴史の中で、飢饉は一度ならずあった。ミシャグジが復活しかけたときも、あちこちで植物が枯れ、魚や動物が激減したという。しかし、大蜘蛛の言うことが真実ならば、この山に限ってはそんな事象とは無縁だったらしい。
 なるほど、「神さま」は確かにいるのかもしれない。
「けど、『神』も今は力不足なのかもしれないな」
「どうして?」
「餌が足りないからだよ。食っても食っても腹が減る。なのに、力だけは漲っている。運よく、人間どもがどっと入ってきているから、今の内に食い溜めするんだ。お前もそうだろう?」
 酸塊は悲哀をちらりと見て、うんと頷いた。
「もうすぐ子供たちが生まれるからな。餌はうんとあった方がいい。……お前、『神』に願い事をするなら、俺たちの餌もついでに頼んでくれないか?」
「う、うん、いいよ」
「あなたは、『神さま』に会ったことはないのですか?」
「ある奴はいない。九尾も鴉天狗も、大鬼だって会ってないだろう。実際にいるかは眉唾物だ。何しろ頂上には、でかい岩が一つ転がっているだけなんだからな」
「それなのに『神』がいると?」
「さっきも言ったろう。この山では食い物がなくなったことはないと。ここから出なけりゃ、俺たちは幸せなのさ。――ああそうか、お前たち人間を呼び寄せたのも『神』だな?」
 悲哀はぎょっとした。正確には「御筆先」に呼ばれたのだが、その「御筆先」の示す「答え」がイコール「神さま」のことだとしたら、確かに大蜘蛛の言うとおりだろう。
 自分たちは、妖怪たちの餌として呼ばれたのだろうか?
 だが悲哀にはいくつか疑問があった。
 これまで不足したことのない餌がなくなりかけていること。
 それは、妖怪たちが食べ尽くしているから。
 なぜなら、力と共に食欲が増しているから。
「神さま」の力が減退しているからなのか、別の理由があるからなのか。
 答えが分からぬまま大蜘蛛から釈放され、悲哀と酸塊はまた気配を消しながら頂上へ向かった。


 狼の群れから逃げきった平太たちは、セレンフィリティ・シャーレットとセレアナ・ミアキスとは完全にはぐれ、彼女たちの目印を見つけることが出来なくなっていた。
「完全な迷子ですね……」
「心配ない心配ない」
 平太がため息をつくと、東雲 秋日子(しののめ・あきひこ)が笑いながら彼の肩をぽんっと叩いた。
「みんないるんだから、何とかなるよ!」
 秋日子の能天気さは、時に救いになる。道が分からないという現実は変わらないにしても。
「誰かいるぞ!」
 遊馬 シズ(あすま・しず)は「守護の刀」に手を掛けた。
 細い木の下に女が一人座り込んでいた。着物や荷物を見るに、旅の途中だろう。
「怪しい者ではございません……」
 山の中、それも獣道に女が一人いて、怪しくないわけがない。シズは柄に手を添えたまま、「誰だ?」と尋ねた。
「わたくしはこの山にいる『神さま』を訪ねて参った者でございます。道に迷い、途方に暮れていましたところ、あなた方の話し声が聞こえて参りまして、もしや噂に聞く妖怪かと怯えていたのでございます」
「なーんだ。私たちと一緒じゃない」
「あなた方もですか……?」
「うん。ね、遊馬くん?」
「まあね」
 ピークは過ぎたとはいえ、まだ「神さま」詣でがなくなったわけではないのだろう。それにしても、他人に願いを叶えてもらって嬉しいのだろうか?
 悪魔であるシズには、人間の考えはよく分からなかった。