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あわいに住まうもの

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あわいに住まうもの

リアクション

 開戦――失うもの、守るもの

「ここが、あわい、か」
 門を抜けた先、異空間に突入した佐野 和輝(さの・かずき)が意外そうに声を漏らす。それもそうだろう。高濃度の瘴気を予測して来てみれば、入空間そのものは異常なほどに澄みわたり、そこに何も存在していないかのような静謐さを生み出している。踏みしめる大地の感触は固く、リノリウムのような質感を持っていた。周囲にはどこか見覚えのある結晶が無数に浮かび、どこまでも続く平坦な世界が広がっている。ただ一つ、背後に開いた巨大な穴を除けば。
「この空間のどこかに標的がいる――時間がないとはいえ、この場で策を確認しておこう」
 アクリト・シーカー(あくりと・しーかー)が手に持った奇妙な機械の錫杖をその場に突き立てる。みしり、と音を立てて機械が駆動をはじめ、ゆっくりと周囲の空間が同調していくのが感じられた。和輝が頷き、アクリトの言葉を待った。
「私はこの場を離れられん。この出口を維持する。門を開けるのはリィ、エイラ両名ともだが、根源を失えばその能力を失う。その時、維持できるのは擬似的に生み出したこの錫杖のみ……安定に欠くが、暫くは持つ。安定させられ次第、これを残し、私は門を通る。その時のため、協力者が必要だ。多ければそれだけ、時間が稼げるだろう」
「了解した。護衛二名、支援三名を割く――他に特記事項は?」
 和輝が頷き、他の契約者とコンタクトが可能か確認しながら策を更新していく。その言葉に、アクリトがつい、と視線を和輝の隣に控えるアニス・パラス(あにす・ぱらす)に移した。
「私よりも、そちらの方が今は情報を持っているだろう」
 きょろきょろと周囲を見渡すアニスが、ふわふわと浮かぶ結晶を覗き込んでは声を上げている。何が起きているのか問い質そうとした和輝に、アニスが駆け寄って来る。
「和輝、和輝! これ、全部窓なの!」
「窓?」
「うん! ここから、ここにいない『皆』の声が聞こえるの!」
 片眉を吊り上げた和輝に、つかつかと歩み寄ってきた禁書 『ダンタリオンの書』(きしょ・だんたりおんのしょ)が補足した。
「あの巨大な穴が『門』だというのなら、まさしくこれは窓ということになる。正直、潜る気は起きないが、パラミタ、ナラカの別なく、あらゆる時間と場所に接している……その接点があの結晶ということになるだろう」
 ふむ、と和輝が回線と連絡手段の最終調整を行いながら頷く。距離の概念が希薄らしく、通信に問題はないが、認識そのものがその個体の周囲を規定している部分があり、遠い、或いは届かない、という認識があった時、空間が干渉されるということが確認できていた。窓を眺めながら、和輝が問いを重ねる。
「それでアニス、その声は何か言葉を拾える状態だったか?」
「うーん……こちらからの声はね、届かないの。でも、向こう側にもそこに窓がある、っていうことは分かるみたいなの。そうしたら、皆『繋がる』って」
「繋がる……」
 近くの窓を精査していたリオンがふっと眉間に皺を寄せる。一歩その窓から離れ、すべての窓を見回す。
「厄介なことだ。これの一つ一つが通路になっている。この空間の主は、入れ子構造になった窓のどこかにいる、という事になるな。アニス、声がしない窓はないか?」
「うんと、うんと」
 アニスの瞳から輝きが失われる。極度の集中と知覚の拡大で離人を引き起こしているのだろう。だが、即座に復帰すると、三つの結晶を続けざまに指し示す。
「あっちと、あっち! それから、こっちからは、声はしないけれど、こちらの声が届くみたい。ちょっと、変?」
「確度が高いのはそちら、か……」
 和輝が編成を考えている所へ、リィが歩み寄ってくる。
「あちらとこちらが同じ空間なのなら、私が窓を開いて行き来を短縮できます。入口と違って、同じ空間を繋ぐ扉のようなものですから、開ききってしまえば維持は容易です」
 リオンが和輝を軽く見、和輝がそれに頷いてからリィに返答した。
「任せる。本隊は確度の高い方へ。もう二つには……幾らか戦力を割く。こちらに接続可能な出入り口である以上、警戒を厳としなければ何が起きるか分からん」
 あちこちで返答があり、契約者達が別れる。和輝達はそれを確認すると、本隊に加わったリィ、エイラ両名に従った。だが、進む皆から少々遅れて、リオンが足を止める。そしてちらとアクリトに視線を向けた。
「……あの二人、もしもの時は」
「その可能性はないと信じたい、が、もしもの場合は伝えた通りに頼む」
「本使いの荒い事だ」
「知識と己の為、という意味では利害が一致すると思っていたが」
 そうアクリトが返すと、リオンは不機嫌そうに、しかし、口の端を歪めて苦笑した。
「だからここまで来ている。貴様がため込んだ知識、いずれ此方にも寄越すというのだからな」
「必要な知識だ」
「ふん……帰り道は任せる」
 リオンが背を向ける。それを確認したリィが一度頷き、かつん、と手に持った杖で無限に続く床を叩いた。ひときわ大きな三つの結晶がぐにゃり、と歪み、溶けて扉の形を為す。中空に生まれたそれがぎしり、と音を立てて開き、昏い通路がそこから伸びていることを認めた。
 契約者達が次々と扉をくぐる。あとに残った数名の契約者とアクリトを残し、全員が扉をくぐったことを確認すると、ふっとアクリトは背後で口を開く巨大な門を振り返った。
 鬨の声が聞こえた気がしたのだ。



 中央。昏く続く通路を契約者達は走っていた。吸い寄せられるような、奇妙な重力感。どこか現実感を失いそうな意識をつなぎとめ、己と仲間だけは見失わぬように走る。そんな皆の意識に語りかけてくるものがあった。
『来たか』
 緊張が走る。だが、通路には何の異常もない。杖を強く抱え直し、リィが叫んだ。
「ええ、決着をつけに!」
『力の断片を持っただけで、根源に至ろうと欲するか。それもいいだろう。愛すべき混沌には、全てがある。それを望むのは無理もない。好ましく思うぞ』
「そんなもの、要りません。そんな小さなものと引き換えに、私達の大切なものを差しだせません! 言葉はもう不要です、姿を現しなさい!」
 重く響く言葉を、足を止めずにリィは否定する。声はぐつぐつと、煮える湯のような音で笑った。
『それは、根源に触れてから考えることだ……望め。距離など、この場では意味を為さん。我が声を頼りに、扉を開くがいい』
 その声がした途端、遠くに一枚の扉が現れる。リィがそれに意識を集中した途端、それは急速にこちらへ近づいてきて、巨大化する。開け放たれた扉の向こう、三つの結晶が放つ輝きに縁どられ、黒い、只々黒い人影がそこに立っていた。
「ようこそ、境界を越えるもの、契約者達よ」
 気づけば全員がその存在の目の前に立っていた。通り抜けたはずの扉は既にない。浮遊する窓は遠く離れた場所にひしめき、その場にあるのは巨大な三つの結晶と、大きさすら定かではない、深遠の闇が凝った人型だけ。
 めいめいが武器を構える中、親しげにその人型が語りかける。
「そしてようこそ、我が力を受けた者よ。ここまで踏み入る者があったのは久しぶりだ」
「……言葉は不要だと言ったはずです」
 油断なく杖を構え、力を集中させながらリィが言う。
「さてな。根源に至るという意味が、本当に理解できていないと見える。それを知らずに消えるのは、少し不憫に過ぎる――」
 言葉を吐くごとに闇が揺らぐ。ぶう、ん、と耳鳴りのような音を立てて、リィが結界を展開した。
「あの闇は、瘴気の根源です。濃すぎるが故に色を失っていますが、なんとか防げるはずです。お願いします、皆で帰るために……」
「その帰る場所すら、手に入ると何故わからん」
 リィの言葉が止まる。人型は愉快そうに続けた。
「知っているのだろう。家族がもう戻らぬことを。ここに至る前に砕け散ったことを。それすら自在になる。人としての体を取り戻す者もあろう。死者とも出会えよう。混沌とは全て。そこに至るからこそ、こうして世界を繋いでいる――もはや帰れぬ日常へ帰れる。本当に帰りたい場所は、どこか。己の事は、己が最も良く知っていよう?」
 一瞬、結界が揺らぐ。その様子を見て、リリ・スノーウォーカー(りり・すのーうぉーかー)が一歩前に進み出た。
「理解していないのはそちらの方なのだよ。それは帰るとは呼べない、永遠の停止なのだよ。この先に繋がる未来をこそ望んだリィ達に、そんな言葉は意味を為さないのだよ!」
 リリの魔力が集中する。二人を守るようにララ・サーズデイ(らら・さーずでい)が槍を構える。
「君は聊か無粋に過ぎる。こと、ここに至って矛を交える以外にすることがあると考えるのは、少々思慮が足りないと言うべきだね」
 ぐつぐつという、煮えるような音が強くなる。笑っているのだという事を理解するのに、しばしの時を要した。しかし、それが笑い声だけではないことを意識した時、リリは召喚の印を結んだ。
「いいだろう。先ずは我が力にて、その価値を知るがいい……!」
「させないのだよ! 我が呼びかけに応じ、冥府より出でよ、薔薇の盾騎士団!」
 リリの召喚術が成る。地に、中空に、無数に浮かんだ陣が展開され、不滅の兵団が姿を現す。薔薇の意匠を持った盾が列を為し、黒い人影に迫る。それを皮切りにして、契約者達が武器を執り、主に迫った。
 だが、呼び出された騎士の剣が中空で折れ飛ぶ。三つの結晶のうち一つが輝き、リィが展開するものと同じ――いや、それより尚強力な結界が展開されていた。次いでもう一つの結晶が輝き、細く鋭い、紫色の棘が無数に吐き出される。盾を貫いて、兵団が次々と動かなくなっていく。そして三つ目の結晶が、おびただしい紫色の雲を吐き出した。途端に兵団が動かなくなる。
「ま、まずい。完全に騎士団の制御を奪われたのだ。冥府に戻すこともできないのだよ」
 無数の魔法が、無数の武器が人影に飛ぶ。だが、あるものは結界に阻まれ、あるものは棘に阻まれた。一人として無力となる者はいなかったが、雲はわずかに、ほんのわずかに彼らの動きを妨げる。魔力によって操られる召喚獣は抵抗すらできず、融合させられていた。
「見るがいい。一つ一つ、汝らの悔いを、望みを。委ねれば手に入るそれを、拒絶する理由が何処にある?」
「言葉通りだよ! すべてなんていらない! 失ったものがなかったことになるなんて、そんなの、大切なものを、なかったことにするのと同じだよ!」
 結晶が様々な景色を映す。それは見る者の心を写し、大切な者の顔を取る。断ち切ろうとしたエイラの刃が一瞬だけ止まる。その瞬間に棘が彼女を吹き飛ばした。
「エイラ!」
「やはり、エイラでは使いこなせない……?」
 リリが悔しげに呟く。結界に槍を阻まれたララが飛び退り、次の一撃を構えながら冷笑した。
「修行が足りないと? それでは、君があの呪具を使うか?」
「血筋でない者が使った末路が、あの変異した世界なのだよ。エイラが、あの力を使う事をためらわなければ、あの程度の力、切り裂けるはずなのだよ! 剣がため込んだ、無限の知識を使うつもりさえあれば……!」
 かたかた、とリィの仗持つ手が震える。苛立たしげに咆えたリリが訝しげにそれを見、顔色を変えた。震えているのはリィではない。
「リィ、それは……!」
「確かに、欲しいです。失くしたものは、多すぎるから。大きすぎるから」
 背後で支援魔術を唱えていたリオンがわずかに眉を顰める。だが、リィが杖を握り直し、再度力を集中させる。杖が鳴動する。
「でも、それを失ったことの方が、私にとって大切な、願いの力です。エイラも、この記憶も、誰にも渡さない――!」
「やめるのだよ! そんな犠牲は、誰も望んではいないのだよ!」
 ごう、と結界の範囲が拡大していく。混沌の結界を飲み込み、さらに肥大するそれは、契約者達を飲み込み、周囲の空間を飲み込んでいく。
「ありがとうございます……でも、私が、そうしたいんです。リリさんたちが、いてくれたから、こうできるんです」
 杖から力が逆流する。リィの胸に緑色の結晶が現れる。流動する力が、一つの回路を形成した。混沌の王が展開する、三つの結晶の力が和らぐ。
「……通る!」
 ララの槍がわずかに結界を貫通し、結晶に損傷を与える。リリがそれを見て再度騎士団に強制介入を試みる。ぎこちなくも、盾を再び抱え、鎧の一団が棘を受けた。
「奪い返したのだよ!」
「私の力で出来るのは、ここまでです。あれを倒せるのは、皆さんだけ、です――!」
 脂汗を流しながらリィが言う。リオンがふっと彼女から視線を外した。にやり、とララが笑う。
「それなら、これが」
 ぐるりと槍を回転させ、跳躍する。目指すは雲を吐き出す結晶。
「反撃の狼煙という、ことだね!」
 一撃が結界を貫通し、結晶に傷をつける。
「――いいだろう。その抵抗もまた、一つの混沌なれば!」
 契約者達の力が本来のそれに戻る。長い戦いの火ぶたが、切って落とされた。