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あわいに住まうもの

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あわいに住まうもの

リアクション

 脱出――形を変えるもの

「固定術式、作動しています!」
「補助一号から三号まで起動。足場の崩落が加速している。杖を固定できなければ帰還は難しいぞ」
「先生ー。扉の維持はー?」
「四号から先の出力を回せ。全員の帰還が確認でき次第出力をこちらに」
「がんばれー、がんばれー♪」
 門の手前。アレン・オルブライト(あれん・おるぶらいと)が必死の形相で、錫杖を支えるアクリトの周囲に魔方陣を展開していた。大きな陣が一つ。周囲を取り巻くように小さな陣が展開されている。時折ばしり、と不安定な明滅を繰り返しては、時見 のるん(ときみ・のるん)が呼び出した稲荷様の使者がきゅう、と声を上げて倒れる。外部エネルギータンクとして活躍するそれらは、アクリトやアレンの魔力消費を遅らせる役割を担っていた。キグナス・ハミルトン(きぐなす・はみるとん)もまた、アレンと同様に術式の整備を行い、陣に力を供給していた。
「でも、先生、どうやったらそれを置いてここに……」
「現在、この錫杖は、この錫杖自身が維持する空間座標を根拠として作動している。この循環構造を、私が再指定せずとも続けられるようになればいい。エラーが出るまでほんの数秒持たせればいいが……それだけでも辛いのが現状の安定度だ。陣の改善を急いでくれ、アレン」
「は、はいっ」
 言いながらアレンは再度明滅した陣を調整する。四人のエネルギーを錫杖と陣に通して展開し続けるそれは、錫杖の力を拡大したものだった。アレンの周辺調査によって判明した空間の崩落を逆手に取り、崩壊していく部分と、その力の集中を割り出して、錫杖の力の分散を防いだ。問題なのは、どこでもあり、どこでもないこの空間を定義する、誰かが錫杖を握り続けていなければならないということだった。
「もうちょっと、もうちょっとだけがんばってね!」
 のるんの力もまた稲荷神の使者と同様、陣に吸われている。かすかに辛そうな色を浮かべながら、のるんは同じように明るい声を出していた。それをアレンがちらと見、再び陣に目を落とす。今のままでは、誰かが空間の崩落に巻き込まれてしまう。この三人がいなければ、既に扉をくぐろうとする契約者達は無明の闇に呑みこまれていたことだろう。しかし、それでもまだわずかに力が足りなかった。
「皆来たよ」
 キグナスが補助陣の力を扉に回しながら言う。転がるように飛び込んできたリィ達が、肩で息をしながら、門の維持をしていたアクリト達を認めた。
「先生も、早く……!」
 そう言いながら苦しげに呻くリィをちらと一瞥すると、無表情にアクリトはリリに告げた。
「二人を門へ。決してここへ残らせるな」
「わかったのだよ」
「先生、でも!」
 リィがもがこうとするが、それを抑えこんでリリ達が門へ飛び込む。次々と飛び込んでいく契約者達をしり目に、アクリトはたらり、と汗を流した。
「これで全部だね」
 キグナスが飄々とした態度を崩さずに告げる。アクリトが頷き、指示を出す。
「四号、五号をこちらに回せ。……それと、お前たちも戻れ。もう、固定も終わる」
「んん? 先生、まさか一人で残ろうってつもり?」
「結果的にはそうなりかねん。しかし固定は間に合う。早く行くがいい」
「それは、アクリト先生じゃないとできない事かな?」
 キグナスの目が光る。心の裏を読む悪魔の瞳が、アクリトの心の内を暴こうとする。だが、アクリトはすんなり首を振った。
「いや。しかし残念ながら、お前たちにやり方を教えている時間は既にない。私がこの場に残るのが最適だ」
 キグナスが肩をすくめると、周辺を警戒し、未帰還者がいないかを確認していた吹雪が口を挟んだ。
「とにかくヒゲグリーンもつべこべ言わず来るであります。急ぐであります」
「……了解だ。しかし、その名前は」
「先生! これならあと十数秒はもちます!」
 アレンが叫ぶ。それを聞くとアクリトは頷き、予想以上の優秀さにほんの少しだけ口の端を吊り上げた。
「善し。門へ向かえ。この場を」
 放棄する。そう言って身を翻そうとしたとき、全員の耳に、呪わしい沸騰音が聞こえてきた。ぐつぐつと、煮えたぎる何かの音が。だが、それと相対した者は既に門へ飛び込んでいる。それが何かを考える前に、吹雪がマチェットを抜き放った。だが、眉を顰める。
「非実体であります。こちらの兵装では――」
『逃さぬ……憑代さえあれば、何度でも我らは……!』
 沸騰する混沌。浸食され尽くし、融合を果たした憑代を失った王の姿。無力にして無形のもの。染み出すように結界に侵入したそれを、のるんが光の呪法を展開して防ぐ。だが、それも勢いを止め切ることは出来なかった。
『無駄な足掻きを……』
「のるんちゃんの、先生は、あげないんだからね!」
「のるん!」
 アレンが混沌を止めようとし、弾かれる。徐々に展開するそれに、アクリトが意を決し、錫杖を陣の中央から外そうとしたとき、くすりと、可笑しそうに笑う声が全員の耳に届いた。アクリトの真横を、何か温かいものがすり抜けていく。その一瞬、懐かしい横顔と、膨大な記憶が、アクリトに流れ込んできた。
「相変わらず、無茶をするよね、センセは」
 ばちん、と、核を失った混沌が弾かれる。全員がはっと振り仰いだ、瘴気の風が吹き荒れる、無明の闇の向こうから、パルメーラ・アガスティア(ぱるめーら・あがすてぃあ)が姿を現した。
「パルメーラ……!?」
「久しぶり、だけど、挨拶をしている暇はあんまりないよ! すべてに繋がるこの場所なら、あたしでも少しだけ干渉できる! アガスティアの大樹からでも、思念体だけなら、飛ばせる!」
 非実体の力が混沌をわずかに押し返す。のるんの隣に降り立つと、パルメーラは共に手を翳して声をかけた。
「ありがとう。アクリトを守ってくれて。さあ、早く行って!」
「キグナス!」
 一瞬の躊躇い。しかし、アクリトが叫ぶ。呼びかけの意図を余すところなく察したキグナスが、倒れるアレンと、息を切らせたのるんを回収した。
「はいはい〜っと! 掴まって!」
「キグナス、ちょっと痛い〜」
「我慢してね〜」
 アレンが声を上げる間もなく、キグナスが一息に門に飛び込む。その一瞬、吹雪に視線を送り、吹雪が頷いた。王と力のぶつけ合いを続けるパルメーラに、アクリトが声をかけようとする。その袖を吹雪が掴み、そっと首を振った。その表情で、アクリトは意を決した。
「パルメーラ、待っている!」
 たった一言。それだけを残すと、アクリトは吹雪に連れられ、門へ飛び込んだ。その姿に、パルメーラは再びくすりと笑った。
「本当に、不器用な人。こうして、離れた方が、よっぽどパートナーらしいなんて」
 ぐつぐつ、と混沌が門へ向かおうとする。だが、パルメーラの輝く掌がそれを許さない。
『おお、おおお……あの混沌の宇宙へ……あの闇へ、還るのだ、なんとしても……』
「そっか、センセは、そこ、教えてくれなかったんだね」
 びしり、と錫杖にひびが入る。門へ飛び込むわずかな時間だけ、空間を維持できる力しか持たぬそれが、限界を迎えたのだ。瘴気の風が門を押し込める。足場が崩れ、門が徐々に縮んでいく。
「どうして人間に憑依できたのかな。どうして、彼らの心と一緒でいられたのかな。本当のキミなら、理解も出来ない、異質なものだったはずなのに」
 徐々にぐつぐつ、という音が静かになっていく。吹き荒れる瘴気の嵐に、不安定になる空間に、無の泡が浸食していく。その中に紛れ、王の気配が小さくなっていった。
『人……間……』
「キミに施された封印は、分断の封印。人の心に、すべてのものに、キミ達は偏在しているんだよ。真なる混沌は、人間の心に。そしてそれが織りなす物語の中に。キミが還るためには、彼らの中に入ればよかったんだよ」
 混沌が、沈黙する。吹き荒れる瘴気の風以外、語る者はない。その、荒々しい静寂の中で、こぽり、と吐き出すような言葉が漏れた。
『いられる……だろうか……』
 パルメーラは笑顔で答えた。
「命は形を変えるだけ。キミの娘たちがああして受け入れられたんだもの。大丈夫だよ」
 パルメーラが光の粒子になり、どこかへと吸い込まれるように消える。直後、風鳴りすらも飲み込んで、無の泡がすべてを消し去った。混沌が最後に吐いた言葉すらも飲み込んで、門が閉じた。