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あわいに住まうもの

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あわいに住まうもの

リアクション

 第一結界――取り戻せないもの

 開いた三つの通路。王の間へ繋がらない二つの通路。その向こう。無限に続く閉鎖空間である「あわい」の中では、距離の概念はない。それゆえに、王の間での戦いも、入口も、出口も、本質的には同じ場所で行われている戦いと言えた。
 だからこそ、隙があった。王を取り囲んでいるようでいて、その実、契約者達の背後は常に狙われている。いつ、その首に刃を押し当てられても不思議ではないほどに。
 引きつる様な笑い声を上げて、それは疾走していた。リノリウムのような、不透明なような、透明なような、そんな大地を音もなく走る。手には紫に輝くナイフ。胸に核のきらめきを宿して、走りながら、それは殺意を振るう相手を吟味していた。同じ空間に飛び込み、刈り取る命を気まぐれに、慎重に選んでいた。それが今、一つの背中に狙いを定めた時、冷たい声がその足取りを止めた。
「そこまでにして貰うよ」
 風切り音。過たず狙いをつけられた矢を、滑るように回避したそれが、存在感を回復させる。爛々と目を輝かせた少年。痩せぎすの体にぼろを纏い、ナイフを一つ手に持ったまま、姿勢を低くして矢の主を見る。
 清泉 北都(いずみ・ほくと)がぴたりとその眉間に狙いを定めていた。傍らに控えるソーマ・アルジェント(そーま・あるじぇんと)が杖を構え、避けた先をいつでも狙えるよう集中している。
「空間移動能力、それに擬装能力……ここで見つけられて良かった。皆の所には行かせない」
「もし、こいつが門を出ていたら、って思うとぞっとしねぇな。時間はかけられねぇぞ、北都」
「わかってる」
 リィが開いた扉を通過した北都は、王以外の気配を探り、わずかな違和感を探り当てた。北都の超感覚を以てしてもわずかにしか分からないそれを、ソーマが悪意の塊を感知して突き止めたのだ。第一矢を避けた動き一つで、油断ならない相手と知れる。かつて王と戦い、敗れた結界師の一人……寄生種と化した元人間に相違なかった。
「――ぃひっ」
 痙攣したかのような笑い声を上げ、少年がだらりと脱力する。ナイフは下に。ゆらり、と体が揺れて、飛び出す瞬間を予測させない、ゆっくりとした、本能的な恐怖を感じさせる歩みで一歩ずつ近づいてくる。足先が浮き上がり、重心の位置が変わる瞬間、その瞬きよりもわずかな隙間に、北都は二の矢を放った。
「ぃひはははははぁ!」
 壊れた笑い声を上げながらぐにゃり、と体を折り曲げてそれを回避する。再び空間に溶け込もうとしたそれをソーマの魔力が妨害する。
「闇を睨む双眸、光を厭う者よ、悔い改めよ!」
 光の魔力が少年を穿ち、偽装をはぎ取った。跳躍して回避した少年はしかし、楽しそうに表情を歪めた。
「やるじゃないかぁ、おにいさぁん」
 初めて少年が意味のある言葉を吐く。次の矢が放たれるより早く、少年のナイフが翻る。一本、二本、無数に飛んでくるそれを、殺意を乗せられたものだけを北都の矢が的確に撃ち落とす。そのわずかな手数のうちに、少年は北都の背後に回っていた。冷たい吐息が北都の首にかかる。
「寂しさの匂い?」
「っ! 機晶石よ!」
 ばぢ、と空間が焼け付く。雷の力が機晶石から解放され、周囲の空間ごと少年を焼き払おうとする。だが、それを笑いながら少年は回避した。雷光を避けたのではない。北都の殺気を避けたのだ。着地点にたどり着くより先に、ソーマの詠唱が完成する。
「汝、天の怒りにして、神々の武器、大地を焼く、不朽の槍!」
 機晶石の力とは比較にならない威力で稲妻が走る。確かに直撃したと確信したとき、少年の姿がどろり、と溶けた。
「哀しみとぉ、挫折の匂い」
 ソーマの隣で吐息。ぞっと血の気の音と同時に「ソーマ!」と叫ぶ北都の声。さらに風切り音。何を考えるよりも早く姿勢を低くしたソーマの真上を矢が通過する。その矢は少年の頬をかすめ、一筋の血を流させたが、動きを止めるまでには至らない。振り上げられたナイフがソーマに届くより先に、ソーマが繰り出した蹴りが少年の腹部に突き刺さった。
 笑い声を止め、吹っ飛んでいく少年が宙で体勢を立て直し、着地する。蹴り足を戻したソーマが顔を顰める。ぽたりと血が大地に落ちる。少年がナイフをちろり、と舐めた。
「ぃひっ、なぁんだよ、おにぃさん達も、あるんじゃないか。失くしたものも、諦めたものも」
 痙攣を繰り返すように、少年が笑う。冷や汗を流すソーマの脚は徐々に治癒していた。毒の類はない。だが、攻撃する一瞬の隙すら突いてくるその技量が驚異だった。もし彼が命を擲っていたなら、北都かソーマ、どちらかが致命傷を負っていた。一人であれば確実に始末されていただろう。
「だったらぁ、わかるだろぉ? 俺達の、主がさぁ、ぜぇんぶ、全部、戻してくれるんだぜ? 幸せだったかもしれない暮らしも、苦しまなくて済んだかもしれない過去も、全部全部、手に入る……なぁ、もしそうなら、良かったってこと、ないのかい? おにぃさん」
 引きつった笑いを浮かべていた少年が、そこだけ、年相応の少年の顔になる。北都達は一つも表情を変えない。
「あぁ、失くしたもんはでっかかったさ。死ぬも生きるもなかった。戻って来るなら、戻ってきて欲しかったさ」
 ソーマが呟くように語る翳した杖はしかし、輝きを失わず、双眸も少年を捕え続ける。
「でもな、帰れねぇんだ。出会っちまったからには、なかったことになんてできねぇんだ。誰も代わりにはなれねぇけどよ、北都といる今に不満なんて、言えねぇよ」
 少しだけ北都が笑い、ぎりり、と弓を引き絞った。
「ごめんね。その誘いには乗れない。僕たちは、帰る場所があるから」
 少年が俯く。口元だけが、にやあ、と笑みを浮かべた。
「ころす」
 姿が溶ける。全く予備動作も何もなかった。放った一矢は虚しく空を裂き、直後に殺気。矢とは違う風を切る音。姿勢を低くして北都が呪文を呟く。中空をソーマの雷鳴が引き裂いた。
「ぎ、ぃぎひっ」
 少年が姿を現す。泣き笑いのような表情で、怨嗟と嫉妬を全身に漲らせながら。雷に体を焼かれながら。ナイフを振り上げる。一瞬だけ、北都が早かった。
「光にして刃、我が敵に眠りをもたらす、凍れる吐息」
 ごう、と冷気が少年の腕を捕える。ナイフが北都に届く前に、腕が凍りつき、失速する。再びソーマの蹴りが突き刺さり、少年を宙に蹴り飛ばす。
「さよなら」
 体勢を整えた北都の矢が、まっすぐ少年の核を貫いた。ばきり、と少年の全身にひびが入る。
「ぃひっ、いっぺんでいいから、道具以外として、さぁ」
 言葉が終わる前に、少年は砕け散った。ぶわり、と紫色の霧が広がり、霧散していく。かつん、とナイフが落ち、それもまた砂になって崩れ落ちた。蹴り足を戻したソーマが無言でそれを見つめる。
「――ええ、確かに撃破しました。今です」
 北都がHCに報告を入れる。その頃には、崩れ落ちた砂さえも、跡形もなくなっていた。北都もまた、少年がいたはずの場所を見る。ソーマが小さく言った。
「行こうぜ、北都」
「はい。アクリト先生の時計に感はありませんが、一度戻りましょう」
 ソーマが頷く。二人は、リィが導く扉にもう一度飛び込んだ。
 二人が消えて少しの後、びしり、とその大地にひびが入る。やがて空にも。数秒の後に、無数の破片となって、その空間は砕け散った。
 


「……全く、無理ゲーもいいところよ、瘴気漂う中でこんな敵と殺り合うなんてね!」
 叫んだセレンフィリティ・シャーレット(せれんふぃりてぃ・しゃーれっと)が降り注いだ棘を回避する。周囲に満ちていく濃い瘴気から逃れながら、結界に守られた王に肉薄する手段を探した。だが、仲間達が何度結界を発生させていると思われる結晶に攻撃を仕掛けても、砕くには至らない。
「我らが女王よ、その輝かしき威光もて、闇よりのものから護り給え……」
 何度も雲に解除されながら、セレアナ・ミアキス(せれあな・みあきす)がセレンを守る。瘴気そのものであり、弱体化の呪法の媒介である雲に触れれば、こちらにかけた強化が根こそぎにされた。それでも、直撃をなんの備えもなしに食らうよりはよほどマシといえた。
「このままじゃジリ貧じゃないのっ! どーすんのよ!」
「とはいっても、もし加護を切らしたら、その服装じゃ致命傷よ!」
「これじゃなくても致命傷、よっ!」
 一瞬の隙を突いて結界をわずかに貫通し、結晶に一撃を叩き込む。だが、浅い。ぐらりとわずかに揺らいだだけで、亀裂すら入らない。
「どうしてどうして、なかなか粘る。だが、勝ち目のないことはそろそろ見えてきたように思うが?」
「じょーっだんっじゃないわよ! 私はね、諦めるっていうのが、大っ嫌いなのよ!」
「その肌に傷がついても、同じことが言えるか、試してみるか」
 揺らめく闇がセレンの啖呵を受け、言葉を発する。ふう、と棘を発する結晶が高く上る。ぶわり、と全員に向けて無数の棘が降り注いだ。先ほどまでの攻撃よりはよほど密度が薄いが、それは全域に、止まることなくばら撒かれる。
「ちょっ、反則っ……!?」
 ぎりぎりの見切りで回避するが、負傷は避けられない。何本もの棘が肌をかすめ、白い肌に血が滲む。セレンだけでなく、背後で呪文を切らさぬよう、ひたすらに詠唱を続けるセレアナも同様だった。防戦一方になる契約者達、だが、中衛を預かっていた和輝から、あくまでも冷静な言葉が飛んだ。
「北都より入電、敵結界の一つを無効化」
 時を同じくして、ぶるり、と雲を吐き出す結晶が震え、輝きが失われる。吐き出される瘴気が消え、結界が緩み、その半径を縮めた。
「一人やられた、か――ぬう!」
「貰ったぁっ!」
 その隙を逃すセレンではない。手元にため込んだリトル・バンを続けざまに放つ。飛び込む先に打ち込まれた棘を、爆裂する礫で吹き飛ばす。それでもすべては捌ききれない。負傷を覚悟した時、背後から無数のナイフが飛来し、セレンを狙った棘を叩き落す。
「届くのは今だけよ、セレン!」
「いぃっけえええええええ!」
 セレアナの投擲が活路をこじ開けた。輝きを失った結晶にセレンの拳が突き刺さる。ばきり、と蜘蛛の巣のような罅が入り、ぐらりと結晶が傾ぐ。さらに追撃。長く響く、悲鳴のような残響を残し、結晶は砕け散った。瘴気の雲が完全に霧散する。契約者達の動きを妨げるものは、最早なかった。
「やってくれたな、女!」
「私を甘く見たのが悪いのよ!」
「これで無効化も弱体化も使えない……畳み掛けるわよ、セレン!」
「当然ッ!」
 セレンの速度が倍加する。魔力の輝きが、裂帛の気合が、セレンの拳を速く、重くする。もはや棘に捉えられる事もない。だがそれでも結界は強固にセレンの攻撃を防いだ。
「往生際が悪いのよ、あんたは!」
 ばちり、と拳が撃ち込まれ、光が弾けるたびに闇が緩む。砕け散った結晶に流れ込んでいた力が霧散し、瘴気を纏った昏い人影がわずかにその輪郭を見せ始める。だが、まだその姿を見る事は叶わない。
「同じ言葉を返すぞ。お前たちの決意も、願いも、届くことはない。諦念のみが唯一、ここへ至る道だ――受け入れろ」
「はっ、いい加減、その口上も聞き飽きたわ!」
「直ぐに黙らせてあげるわよ……!」
 セレンに迫る棘をセレアナが叩き落す。支援が持続するようになった今、防御に手番を使うこともない。より苛烈になる戦いの中、どこかで罅の入る音がした。