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【蒼フロ3周年記念】蒼空・零 ~1946年~

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【蒼フロ3周年記念】蒼空・零 ~1946年~

リアクション

 小雨降る中、ガラガラと音を立てて屋台は進んだ。
 何かの符号かと思いきや、『屋台』というのは本当にただの屋台だった。『めし』と書かれたのれんを下げ、銀シャリ(白米)一椀に漬け物や味噌汁、上にかけるおかずをつけて十円から二十円くらいのメニューを揺らし、石原肥満は渋谷駅の方面に屋台を引いていく。もちろんその原材料は闇市で買ったものであり、ゆえに厳密にいえば禁制品を売っていることになるが、それ以外、たとえば盗品や中毒性の薬物を隠していることはまるでないのだった。
 それでもロザリンドは用心しいしい随行したが、いささか拍子抜けする結果となった。
 彼に近づいてくる人間は確かに多い。だが、命を狙ってくる種類の者は皆無だった。道すがら、老いも若きもたくさんの人々が、肥満に気づくと声をかけてくる。ただ挨拶しているだけの人、なにかに感謝している人、礼と言ってはなにか食べ物を握らせて来る人などさまざまだが、いずれも肥満に好意を持っているのだ。愚連隊の棟梁、裏の世界の顔役、そういう風に呼ばれる人物にはおおよそ似つかわしくない愛され方であろう。まさしく渋谷は彼の街なのだ、ロザリンドはそう思った。
 人の住む区域と繁華街、その半ばほどにぽっかりと空いた暗闇、そこに彼の屋台が乗り入れたときである。
 ロザリンドはそっと身を隠した。
 2022年から来たと思わしき姿が見えたからだ。味方なら見守るだけ。敵なら……彼女の鼓動は高まる。
 杞憂であった。
 暗くなってきた路地を歩いて、五十嵐 理沙(いがらし・りさ)、それにセレスティア・エンジュ(せれすてぃあ・えんじゅ)の二人連れが姿を見せたのだ。
「ひょっとして石原さん!? 石原さんよね」
 理沙はこの時代に到着してすぐ石原の姿を探し、あちこちでその噂を聞いた。この時間帯なら屋台だという話だったが、これほど早く会えるとは思わなかった。
「ああ」肥満は別に、驚く様子もなく屋台を停めた。
「良かった。実はね……」
 息せき切って話そうとする理沙に、
「どうやら屋台のようです。せっかくですので食べながらお話ししてはどうでしょう?」
 と言ってセレスティアは彼女をやや遠くに引っ張ってくると、その手に柔らかい紙を押しつけた。柏の葉のような感触に驚いて理沙はこれをよく見た。何枚かの紙幣ではないか。
「これ……?」
 セレスティアは声を落として、
「当時の流通貨幣、十円札の束です。事前に用意して来ました。わたくしは身を隠しますから、あなたは石原氏の仲間に加えてもらいなさい。今は暗がりだからいいけれど、わたくしがいると目立ってしまいます」
「でも」
「大丈夫。ここから死角になる場所に、一人味方が隠れて見張ってくれているようですよ。わたくしもそうするとしましょう」
 それだけ言い切ると、セレスティアはそそくさと姿を消した。
 じゃあまあそういうことなら……と理沙は気を取り直して石原の屋台に戻って、
「連れは帰ったよ。それで……」
 改めて彼女は石原肥満を見た。
 あれ、と思った。
 だいたい、『肥満』なんて名前なのに全然太っていないところからして不意打ちされた気分だ。
 しかし問題はそれに留まらなかった。
 存外……格好いいではないか。
 確かに、理沙の時代のアイドルタレントのように小綺麗な美形ではない。ゴツゴツして男っぽい容姿だし、すべてのパーツが整っているわけでもないが、それでも苦み走ったいい男だ。昭和という時代とともに滅び去った男前かもしれない。しかし理沙にとっても十分に魅力的ではある。ハンサムという言葉で表現したくなる。
 そう意識するとなんだか緊張してきて、用意していた言葉すべてが、綺麗にシュレッダーされてどこかへ消えてしまう理沙なのだった。
「え、えーと……」
 困った。困ったあげく彼女の口を滑り出たのは、
「お酒、ある?」
 だった。
 なんでやねん、と自分にツッコミを入れたい。ここに来て酒好きな部分だけ目を覚ましたとでもいうのか。
 しかし肥満はこともなげに返事した。
「すまねぇ、いま切らしてるんだ。そこいらでひとっ走り買ってきてもいいが、この辺で手に入るのはバクダン(※)くらいしかないかなあ」
「や、やめとく」
 幸いこれで冷静になってようやく、石原の仲間に加えてほしい、という要望を理沙は口にすることができたのであった。

※バクダン――石油の代用燃料として作られたエタノール(飲用ではないので毒であるメタノールが混入してある)を無理に飲用に転用した粗悪な密造酒。終戦直後に闇に出回った。一応メタノールを取り除く努力はしていたようだが、そのまま水で割っただけという酷いものも多数あった。