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【蒼フロ3周年記念】蒼空・零 ~1946年~

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【蒼フロ3周年記念】蒼空・零 ~1946年~

リアクション


●Interlude part1 -1

 その男はロクと呼ばれていた。
 本名が『六郎』とか『六輔』とかそんなところなのだろう。歳は四十をやや超えたあたり。極端なまでに猫背で、下ばかり向いて歩いている。
 ロクの生業(なりわい)はこれといって定まっていない。ただ、煙草の吸い殻拾いをしばしば行っていた。
 街を清潔にするため――などと考えるのは二十一世紀の人間ならではの発想だ。全部自分のためである。まだ吸える吸い殻は吸い、吸えないものは数本まとめて、中の葉を集め一本の煙草に作り直すのだ。銘柄無関係のめちゃくちゃなミックスとなるが、薄紙で巻き直せば立派な再生煙草となる。おおむね三〜四本の殻から一本、作ることができた。モノ不足の時代だ。一箱分も作れればちょっとした収入(みいり)に化けた。食い詰めるたびに、あるいは博打の借金がかさむたびに、ロクは吸い殻を集めて回った。
 といっても同じことを考える者はあるもので、本日、ロクは渋谷の闇市をとことん歩いたものの、使えそうな吸い殻を丸っきり拾うことができなかった。先を越されたかほとんど拾われてしまったらしい。だから今日は黴の生えたようなのまでほぐしてやっと二本、作るのがせいぜいだった。
 仕方がなくロクはひたすら歩いて、新宿まで繰り出したのである。新宿は、ロクにとってはかなり『おっかない』土地であった。石原肥満の愚連隊が最低限の治安を維持している渋谷界隈とは違って、この地では複数の暴力団がナワバリ争いをしており、勢力図は次々と塗り替えられている。
 春先ごろまでは、蓮田組という新興のヤクザの台頭が目覚ましかった。しかし蓮田組は渋谷に手を伸ばそうとして石原の愚連隊と激突、返り討ちに遭って手ひどい打撃を受けた。以来、蓮田組は弱体化の一途をたどっており、渋谷に対してその恨みを晴らす機会を虎視眈々と狙っているという噂だ。
 かわりに急速に力を付けてきたのが、『新竜組』と呼ばれる組織である。いくつかの弱小暴力団が寄り集まってできたものなのでこの名前は仮称だ。複数の団体をまとめるには強力なリーダーシップが必要である。最近、大陸系の団体のひとつが力を付け、蓮田組を除く複数の団体をまとめ上げたらしい。組長とされる人物は他にいるが、その影にはウォンと呼ばれる黒幕があるという噂もある。
 おっかなびっくり新宿を探して、ロクはそれなりに吸い殻を集めることができた。煙草も作ったが、新宿の闇市で売りさばく気はなかった。自由な渋谷とは違い、新宿は新参の商売者には厳しいのだ。ちょっと前までは蓮田組、現在なら新竜組の連中にみかじめ料、場所代の名目で大量の金を奪われる上、つけいる隙を与えることになりかねない。連中の財布がわりにされるのは我慢がならなかった。
 こうしてすっかり暗くなった。当然電車なんか走っていない時間帯であるし、そもそも電車賃すらない。ロクは歩いて渋谷のねぐらへと急いでいる。
 ところがロクはある地点で、慌てて来た道を引き返したのである。しかも、一メートルもいかぬうちに足が竦み、歩けなくなってしまった。
 二人連れの、一見してすぐヤクザとわかる男たちが、何か引きずって歩いているのである。
 死体だ。どこかに捨てに行くのだろう。
 死んだ男の顔に、ロクは見覚えがあった。名前は忘れたが、渋谷で情報を売って暮らしていた男だ。石原のやっかいにはなっていたが、重度のヒロポン中毒で、石原には薬をやめろとよく言われていたと聞く。
 死んだ男の胸に赤い染みがあった。刃物で斬られたのだと一見してわかった。
 それにしても……大胆過ぎないか。
 一応は人の絶えた時間帯だが、闇市からそれほど離れていない往来だ。いくらヤクザとはいえ、こんな場所で殺人に及ぶなど狂気の沙汰である。誰かに見つかれば言い逃れできない。
 やがてロクは真相に気づいた。あれは死体を捨てるため持ち去ろうとしているんじゃない。わざわざ人目に付くところまで運んできたのだ。
 その証拠に、闇市に続く通りに男たちは死体を捨てた。
 石原に世話になっている人間の死体で、石原肥満と渋谷愚連隊に対し挑発をしているのだ。とすればこれは宣戦布告か。
「う……うう……」
 ロクの口から言葉が漏れそうになった。
 ヤクザ二人の顔を見てしまった。ロクは知っている。いずれも若い組員で、西山というサディスティックな男と、沢口という陰気な男だ。どちらも、道の向こうから来るのを見たらすぐに曲がり角を曲がりたくなるような連中である。けれどあの二人だって、あそこまで常識外れではなかったとロクは思うのだ。しかも、燃えるようにらんらんと目が輝いていたのが見えた。
 だがロクを心底怯えさせたのはそこではなかった。ここまでで十分怯えていたが、この夜のことをそのご何度
も悪夢に見るほどになった理由は別だった。
 それはヤクザ二人が仕事を終えるや、人間離れした速度で闇に紛れて消えたことである。
 彼らは去り際、三メートルは高さのあるバラック建設の屋根にひょうと飛び乗ったのである。しかもそこから疾風のように駆け去った。妖怪でもなければできないことだ。
 飛び乗った瞬間、西山が振り向くやニヤリと、紅い唇をぱっくりと開けて笑ったのが見えた。
 その顔が忘れられない――人間の顔ではなかった。

 一睡もせず翌朝を迎えたロクは、自分のねぐらの有り金を集めるなり故郷に戻る電車に飛び乗った。
 何年か後、彼は地元で、賭博にまつわるつまらないケンカのあげく刺されて死んだ。
 死ぬまでロクは二度と東京の地を踏まなかったし、この夜の記憶について誰にも話さなかった。ただ、悪夢を見て眠れないという理由で、生涯ヒロポンを手放せなかったという。

 閑話休題。
 このとき、西山と沢口を目撃したのはロクだけではなかった。
 西山が飛び乗ったバラック建設から、瓜生ナオ実(うりゅう・なおみ)は姿をのぞかせる。中折れ帽の鍔から影が伸び、目を覆っていた。
 リンク・オブ・フォーチュン――石原肥満が『勾玉』と呼ぶものを求め、ナオ実は焼け野原となった東京の地を踏んだのである。あれはこの国の人間が持っていていいものではない。本来あるべき場所に戻すべきだと信じている。ナオ実が事件に遭遇したのは、この秘宝を取り戻すため、肥満とその周辺を探っていた矢先である。
 肥満の知人だという情報屋を尾行していたナオ実は、彼が一瞬にして斬殺されるのを目にした。
 西山と呼ばれる暴力団員が、死角から突然、情報屋にナイフを突き刺した。喉の下に刺しただけでなく、そのナイフを滑らすようにして袈裟状に斬り下げたのである。犠牲者は瞬時にして絶命し、内臓がはみ出たのをナオ実は目撃した。
 特筆すべきはそのナイフが、怪我はさせられても人を刺し殺すには難しいほどの刃先の短いナイフだったということである。それでこれだけの被害を与えたということが、にわかには信じられない。加えてあの身体能力である。目の光も尋常ではなかった。
 ナオ実は探偵だ。仕事柄これまで散々、命の危険にさらされてきた。信じられないもの、普通の人間なら一生縁がないものも多数目にしている。
 だが、あんなものを見るのは正真正銘はじめてだ。
「まるで化物だ。僕ではとても敵わない……しかし、いったい何者なんだ?」
 我知らず口に出して呟き、はっとなって背広の胸元から手を放した。
 時間にして数秒間だが、ナオ実は力の限り拳銃を握っていたのだ。
 どうする。
 自らの使命は肥満から秘宝を奪還すること、それのみだ。
 肥満の敵対者が怪物であろうと関係ない。むしろ怪物が肥満を襲い、その混乱に乗じて宝を盗み出すことができれば一番いいのではないか。
 しかし……。
 果たしてそれで、自身は満足だろうか。
 考えがまとまらない。こういうときは麻雀でも打てれば落ち着くのだが、場所も相手もないのが口惜しかった。


※ヒロポン――代表的な覚醒剤。強い依存症があり、現代では当然使用・所持が禁止されているが、この頃はまだ法律で禁止されていなかった。