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そんな、一日。~九月某日~

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そんな、一日。~九月某日~
そんな、一日。~九月某日~ そんな、一日。~九月某日~

リアクション



7


「ねえ、藍。ケーキ、食べに行こうか」
 と、三井 静(みつい・せい)三井 藍(みつい・あお)に提案したのは、九月も後半に差し掛かったある休日のことだった。
 藍とは普段一緒にいるし、二人で出かけることもよくあるけれど、こうして静からきちんとお誘いをするのはあまりないことで、だからか返答を待つ時間が妙に長く感じた。
 藍は静の誘いに驚いたのか、何度か目を瞬きさせた。その後でふっと柔らかに微笑み、読んでいた本に栞を挟んで立ち上がった。
「行くか」
「……うん」
 自然に差し伸べられた手を、躊躇うことなく静は取る。
 外気はひんやりしていたので、繋いだ手から伝わる体温が、ひどく心地よかった。


 二人が『Sweet Illusion』に着いたのは、丁度おやつの時間を過ぎた頃だった。客足が一段落した時だったようで、店内のイートインスペースにもいくつか空きがある。
 静はここでゆっくりとした時間を過ごせることにほっとした気持ちになりながら、藍の手を引きながらカウンターへと向かう。
「こんにちは」
 と声をかけると、忙しかった頃の余韻など感じさせない、いつも通りの涼しい笑みのフィルスィック・ヴィンスレット(ふぃるすぃっく・う゛ぃんすれっと)フィルが静に笑いかけた。
「こんにちはー。どうしたの? 今日は何か、いい日?」
 フィルの問いに、静はきょとんと藍を見る。そうだったっけ? と無言のまま尋ねると、藍にも心当たりはないようで、静かに首を横に振った。
 それを見た後で、フィルが「違うのかー」と独り言のように声を繋ぐ。
「いやー、なんだか幸せそうな顔で入ってくるから。特別な日なのかと思ったよ」
 言われて初めて、静は自分が無意識に口角を上げていたことに気付いた。それに、藍との距離も、たぶんいつもより、近い。
 その距離感を嫌だなんて思わなかった。思わなかったけど、指摘されたことによる気恥ずかしさで、一歩だけ後ろに引いた。
 藍やフィルは、静の行動を見て、それから顔を見合わせて苦笑するように笑った。
「とりあえず二人共、オーダーどーするー?」
 それ以上の追求はなしに、フィルが静と藍へ声をかける。話題の転換のお陰で、恥ずかしいという気持ちは少し和らいだ。この店の繁盛の理由の一つとしては、店主がこうして気遣いを忘れないからだと静は思う。
 さておき、静と藍は、ショーケースの中身を見ながら食べるケーキを選び始めた。
「店内でお召し上がりで?」
「うん。そのつもり」
「かしこまりました」
 選んでいると、上の方で皿やフォークを用意するカチャカチャという音がした。特に気に留めることもなく、静は一目見て心惹かれたケーキを選ぶ。
「僕はこの、タルトタタンにしようかな。紅茶はおすすめで」
「おすすめなら、ダージリンのストレートかなー」
「ミルクの方が好きなんだけど、駄目かな」
「駄目じゃないけど、タルトタタンは甘いからストレートの方が楽しめるよー」
「じゃあ、今日はストレートにしてみようかな。藍は、どうする?」
 自分よりも悩ましげであった藍に目を向けると、丁度、ガラスケースの前でのにらめっこをやめたところだった。
「俺はこれにする」
 藍が何を選んだのかが気になって手元を見ると、そこにはミルフィーユがあった。美味しそうな段々に、絶妙な果物の配置やクリーム。タルトタタンを食べる、と決めたのに少し揺らいでしまうくらい、美味しそうなケーキだった。
「藍ちゃん、飲み物はー?」
「コーヒーをブラックで」
「大人ー。かーっこーいー」
 フィルの、本気か揶揄かがわかりづらい声を受けつつ、飲み物を入れてもらうのを二人は待った。
「はい、お待たせ」
 ややしてトレイに乗っていたのは、アングレーズソースやチョコレートソースでデコレーションされた皿に置かれたおしゃれなケーキと、芳醇な香りを上げる飲み物だった。
 トレイを持って、隅の方の席へ向かう。座って初めて、静はふう、と息を吐いた。
「疲れたか?
「あ、ううん。なんていうか……普通の日を、過ごせているんだな……って思って」
 朝、思い立ったように大事な人を連れて、行きつけのお店へ行って。
 好きなケーキを食べ、飲み物を頼み、一息入れることも出来て。
「こんな風に一日を楽しく過ごす日が来るなんて、正直思ってなかったんだ」
 静の言葉に、藍が黙る。静は慌てて、「暗い話じゃない」と注釈を付け加えた。
「こんな風に、当たり前の日常を過ごせて良かった。
 ……それも、藍と一緒に過ごすことが出来て……なんだろう、この気持ち。……これをうまく言葉にするのは、まだ難しいけれど……」
 途中まで言ったところで、藍が静の肩を抱き寄せた。ほぼ、抱き締めるような形だった。けれども店の隅の方にいたからか、誰も気付いた様子はない。
「傍にいる」
 藍は、静の耳元で低く囁く。
「俺は、いつでも静の傍にいる。いつでも一緒にいる」
 たったそれだけの言葉で、何故か頬が赤くなって、何故か鼻の奥がつんとした。
 なんだろう、この気持は。
 わからない。
 わからないけれど。
「……ありがと」
 藍の気持ちは、ちょっとだけ、わかった気がする。
「これからも」
「ん?」
「これからも、一緒にいよう」
 ぽそり、と藍にしか聞こえない声で静が言うと、藍はひどく嬉しそうに微笑んで、「もちろん」と返してくれた。
 そのことが嬉しくて微笑んだことに、静自身はまだ、気づいていない。