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リアクション
第四章 覚醒6
大奥では許しがでるまで部屋から出るなとの号令がかけられた。
とくに理由は聞かされてはいない。
きっと嵐が通り過ぎるまで、部屋にじっとするようにとのことだろう。
暴風はいっそう酷くなり、雨戸の木板まで飛ばされそうになる。
御花実候補の樹龍院 白姫(きりゅうりん・しろひめ)は蝋燭の明かりを頼りに読書するも、さっぱりと頭の中に入ってこなかった。
思い出すのは唇に残った将軍の温もりばかりである。
白姫がそろそろ休もうかと思ったとき、土雲 葉莉(つちくも・はり)が慌てふためいてやってきた。
「ご主人様、縁の下に……誰かいます! ど、どうしましょう」
白姫が葉莉にいわれた場所をのぞき込むと、そこにはうずくまったまま荒い呼吸をしている人影があった、
将軍貞継である。
白姫は驚き、葉莉と二人がかりでようやく部屋に運び入れる。
「上様!? 一体どうされたのですか……血が!?」
将軍の着物は血と泥と雨水にまみれている。
白姫は、医者を呼びに行こうとして将軍に止められた。
「誰も呼ぶな。呼んではならん……怪我はない……」
「でも、そんなに苦しそうに……熱も出てらっしゃいますよ」
「どこにも行くな……再び鬼にならぬよう、見張っててくれ」
将軍は懇願していた。
付着している血は貞継からではなく、大量の返り血だとわかる。
彼女にもこの状況がただ事ではないとすぐに理解できた。
白姫は葉莉に、湯と清潔な綿布をたくさん持ってこさせると、貞継の顔を丁寧に拭いた。
「ぐ……あああああああ」
やがて白姫の目の前で、貞継は身を掻きむしるかのように苦しみだした。
額からは汗が噴き出し、歯を食いしばっている。
首筋や腕、足と血管が浮き出ており、見開かれた目玉が今にも落ちそうだ。
白姫は耐えられなくなって貞継に抱きついた。
「もう、おやめください。私がどんな悪鬼羅刹でも受け入れます。白姫を貞継様のお役に立たせてください」
「無駄だ。天鬼神の血からは逃れられん。逃れられたとしたら、それは命が尽きたときか、新たな将軍を継嗣したとき……」
「ですから、托卵をされれば……私が」
「これを見てもまだそう申すのか……」
貞継は上半身を脱ぎ、背中を見せた。
無数の血管が彩り、まるで一つの絵……鬼の面妖が現れていた。
将軍が将軍となる証――天鬼神の啓示だ。
「醜いだろう……これが鬼だ。神だ。そしてこれが、母上の命をも奪っていったのだ。母上は托卵で死ぬほどの苦しみを味わった。今でも、泣き叫ばれる声が耳に残っている」
貞継は母親の乳房が徐々に腐れ落ち、その痛み、苦しみからついには発狂して死んだのだと語った。
「これが托卵だ。天鬼神の血を受けて、まともに生きられる女はいない。それなのに、托卵でなければ将軍の後継をつくることはできない」
「今まで……どれほど苦しまれたのか。お辛かったでしょう。白姫の決心は変わりません。どうぞ、その血をお授けください」
「聞いてなかったのか。この血を受ければ、お前は自分の体の一部を失うことになる。それでも良いと?」
白姫はためらいもせずに、貞継の背中に覆いかぶさった。
「何を言われようとも、この背中を愛おしく感じます。それだけです」
貞継はしばらく身じろぎしなかった。
ただ苦しそうな荒い息づかいだけが聞こえ、彼の葛藤を物語っていた。
「本当に……良いのだな」
彼女は短くはいと答えた。それ以上の言葉はいらなかった。
貞継は起き上がると、手のひらに刀を押し当てた。
白姫にも同様に行う。
刀は震え、なかなか思うように切れなかった。
二人は向かい合い、互いの手のひらをあわせた。
赤い血がつと流れ落ちる。
「托卵は国作りの神話に乗っ取って行われるもの。男は血を捧げ、女は自らのもっとも美しいものを一つ捧げねばならないのだ。それは目か、声か、腕か足かはわからん。母上は乳房だった……だから」
「あ……ああ……貞継様。私……からだが」
「そのままで良い。お前の感覚は、血を通してこちらにも伝わる。お前が感じていれば、こちらも……」
二人が合わせた手の平がどくんどくんと脈打つ。
貞継の天鬼神の血が白姫の体内を駆け巡り、彼女にとって未知の快感をもたらした。
全身が、頭が、麻痺したように何も考えられなくなっていた。
「私……なにも……わからなく、て」
突然涙を流す白姫を貞継は口付けた。
両手に力を込め、指を絡ませる。
身体を押し付けながら彼女を優しく寝かせた。
「お前にとっては辛いことになるだろう。だが、誰かが引き受けなければ。許してくれ……」
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嵐は過ぎ去った。
将軍の乱心と凄惨な所業は一斉に伏せられた。
家臣と女官の死に関して、関係者には徹底した緘口令が敷かれ、すべての情報が伏せられたのだ。
その多くは病死、暇払い、行方知れず、逃亡などとして処理された。
大奥に侵入した賊は、決して将軍でなければ、他の誰でもないのだ。
『はじめから何もなかったし、何もなかった』
老中楠山はそう言い切った。
しかし、白姫に将軍のお渡りがあったという話は、瞬く間に大奥内に広まっていた。
彼女は御花実様と呼ばれるようになった。