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【●】月乞う獣、哀叫の咆哮(第2回/全3回)

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【●】月乞う獣、哀叫の咆哮(第2回/全3回)

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「具象化された記憶の断片、にしては、中身は随分と抽象的なのですね」
 東 朱鷺(あずま・とき)が溜息のように、感嘆の声を漏らした。


 そこは、奇妙な場所だった。
 輪郭の歪んだ時計が至る所に浮かび、壁らしきものもなければ、地平線の類も見えない。それでいて、その空間が「区切られている」というのは妙にはっきりと感じられるのだ。
「まるで、ダリの絵画の中だね」
 殺気看破で警戒しながら歩きつつ、思わず天音が呟いた。皆の感想も似たようなものだろう。天地の概念もあやふやな世界の中に、唯一平面的な道が、左右に歪曲しながら伸び、その脇を這うようにして茂った茨が、その傍らの時計を侵食するように蠢いている。
「素晴らしいですね。これが時計の中の空間とはとても思えません」
「一体どういう仕組みなんだろうねえ」
 殆ど知識欲のみで訪れた朱鷺と、元々好奇心が旺盛な性質である天音が興味深そうに周囲を眺め、瓜生 コウ(うりゅう・こう)はカモフラージュで出来るだけ接敵状態に陥らないように慎重に進みながらも、二人に負けず劣らず、関心深げだ。
「時間に付随する記憶の象徴が、時計となって顕れているのかも知れない」
 絡み付いて、時計を覆ってしまおうとする茨は、さながら忘却そのものだな、と続けたコウに同調するように、それを観察しながら、ダリル・ガイザック(だりる・がいざっく)が、そうだな、と興味深そうに目を細めた。
「封印された存在を茨が隔てる……か。神話や伝承では茨の障壁というモチーフは珍しくない」
 そして、神話において、それは異界……冥界や死との境界を意味する。そう言うと、ダリルは更に続けた。
「媒体が時計である事も興味深い。時間が巻き戻った時計とは、巻き戻り停止した記憶を象徴するかのようだからな」
 死が、眠りと忘却にも喩えられるように、記憶を蝕む黒い茨は、死とも喩えることが出来る、というのだ。それから解放する、という行為は、死からの再生とも言えるだろう。
「記憶を魂の一部と解釈すれば、取り戻す、というよりは、死の眠りから”起こす”に近いのかも知れんな」
「茨に、死の眠り、かあ……まるで眠り姫だね」
 ダリルの説明に、レキ・フォートアウフ(れき・ふぉーとあうふ)が連想されるおとぎばなしを口にしたのに、ミア・マハ(みあ・まは)も「そうじゃのう」と同意した。おとぎばなしは、そういったキィワードをモチーフで繕うことで、様々な意図が潜まされていることが多いからだ。とはいえ、レキの関心はそちらではなく、眠り姫本人のことのようで、それじゃあ、と首を捻りながら続ける。
「アーデルハイトさんの記憶の中なら、眠っているのは若かりし頃のアーデルハイトさん?」
「そう……かもしれませんね」
 相槌を打ったのはザカコだが、封印の入り口をくぐってからこちら、ザカコの表情は優れない。
「必要なこととは言え、アーデルさんの記憶に土足で踏み込むようで……」
 過去を知りたい、という気持ちも否定は出来ないが、記憶の中を踏み荒らしているかのような罪悪感が拭えないで居るのだ。そんなザカコの言葉に、ふむ、とコウも難しい顔をした。
「人の記憶とはある程度あやふやで、刺激に対応して再構築されている部分も大きい」
 何がしか影響が出ないといいが、と言うのに、今度はノート・シュヴェルトライテ(のーと・しゅう゛るとらいて)が「そういえば」と反応を示した。
「望が気にしていましたわね。記憶の中に異物が混じって、本人に影響が出ないかどうか……って」
 ザナドゥへと帰還するアーデルハイトについていった風森 望(かぜもり・のぞみ)が、ノートに代わりに向うよう、頼んでいた時の事だ。
「記憶の中に、アーデルハイト様との相合傘を書いたら、両思いになれないかしらとかなんとか」
「え……っ」
 その呟きを拾って、十人十色の声が漏れたが、伯益著 『山海経』(はくえきちょ・せんがいきょう)がはああ、と盛大なため息を吐き出した。
「無駄じゃて。切り離された記憶領域じゃからの」
 しかも今のところは、取り戻すべき記憶の本の入り口に過ぎない。ほっとしたような残念なような、妙なものがその場にあったが、それには我関せずといった様子で、それじゃあ、とノートが首を傾げた。
「多少暴れても、アーデルハイト様が痴呆になってしまわれたり、ということはないんですのね?」
 そう呟いた瞬間。その声は響いた。
”痴呆とはなんじゃ、失礼な!”
 突然に聞こえた声に、皆が目を見開いてその声の主を探したが、姿が無い。
「アーデルさん、いるんですか?」
 その戸惑った様子を面白がるように「ふん」と鼻を鳴らした”声”は、正確には違うがの、と否定した。
”この記憶野と、時計に残っている残留思念のようなものじゃよ”
 じゃから、残念ながら姿はないのじゃ、と説明すると、先程までの言葉をどこまで聞いていたのか、軽く肩を竦めるような気配と共に、アーデルハイトの声は説明を続けた。
”推測のとおり、切り離された記憶じゃ。本体に戻ったところで、記憶が整合されるじゃろうから、影響は出んじゃろうよ”
 だがその説明には、コウが「そうだとしても」と首を緩く振った。
「記憶に対して強い刺激を与えすぎれば、防衛機構が働いて内装を作り替えたりしてしまうかもしれない」
 やはり、慎重に行動した方がいいだろう、と続けるコウに、そうじゃな、と声も同意した。
”それから……道を離れることで、記憶に飲まれぬように注意することじゃな”
 記憶の中に飲まれてしまったら、最悪現実世界へと戻れなくなってしまう、と告げる。だが、それを聞きながら、天音は小さく苦笑した。
「注意する……って言ってもね」
 呟いたその目線の先では、道の脇を這っていた茨が、わしわしと蠢き、地面側へと侵食しようとしているのだ。それらが寄り集まって、段々と人の――真っ黒い女のような形を作っていく。まるで、行く先を塞ぐように。だが、それを避けようとするなら、道を外れてしまうしかない。

「つまりこれって、迂回は出来ない……ってことだよね?」

 倒していくしかない、か、と肩を竦めた天音の口元は、僅かに笑っているようにも見えた。