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魔女が目覚める黄昏-ウタカタ-(第3回/全3回)

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魔女が目覚める黄昏-ウタカタ-(第3回/全3回)

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第9章 アタシュルク

「おっと。先客がいたか」
 気軽にドアを開けた毒島 大佐(ぶすじま・たいさ)は、なかに入ろうと一歩踏み出した足が床につく寸前で動きを止めた。
 この部屋にいるのは大けがを負って意識不明となった女性1人と思い込んで、とりたてて何も考えずにドアを開けてしまった。ところが想定外になかには高月 玄秀(たかつき・げんしゅう)がいて、まだ寝台に伏せているがティアン・メイ(てぃあん・めい)も目を覚ましている。
 大佐はちぎのたくらみを解いていた。
(――チッ。この2人、どうも仲がうまくいってないように見えていたんだが)
「邪魔してすまなかった。どうぞ続けてくれ」
 内心の舌打ちをおくびにも出さず、回れ右をして部屋を出ようとする大佐を玄秀が呼び止めた。
「待ってください。ティアに何か用があるから来たんでしょう?」
「ああ、いや、けがの具合はどうかと見に来たのさ。ここにはじきにハリールを奪い返しにやつらが来るだろう? そのとき、あのけがで大丈夫かと急に心配になってね。ちょっとした老婆心というやつだ」
「……なるほど」
「戦力が欠けるのは痛いからな。他意はない」
 まだ納得している風でない玄秀に、大佐はさらに言葉を付け足す。
「だが見たところ、傷はおまえが癒したようだし。私の手は不要だろう。私はハリールの元へ向かうとしよう。またあとでな」
「ええ。すぐに」
「主よ。つけましょうか?」
 大佐が部屋を出てすぐ、彼の影にひそむように床に手をついていた式神 広目天王(しきがみ・こうもくてんおう)が提案をした。戸口からは玄秀が盾となって、彼の存在は気づかれていなかっただろう。あとをつければ、彼の本意がどこにあったか探ることができるかもしれない。
 同じアタシュルク側とはいえ、大佐は味方ではない。数日前のヤグルシの行動を思えば、広目天王のする懸念は当然のものだ。
 大佐の消えた戸口を見つめ、玄秀もまた逡巡するよう間をあけたが「いや」と首を振った。
「そうするまでもないだろう。やつのねらいがティアにあったとしても、その可能性は消えた。第一、ティアはまだ動けない」
「シュウ、私動けるわ」
 もぞもぞ上掛けの下から出ようとするティアンを玄秀は冷たく見下ろした。
「寝ていろ」
「でも…」
「必要ない」
 声を荒げたわけでも、憤慨している様子もない。抑制の効いた、いつもの声だった。いつもの玄秀。
 ティアンはぴたりと動きを止め、床に下ろしかけていた足をまたのろのろとベッドの上に戻す。
「……分かったわ」
 全く覇気のない声で、あきらめたようにつぶやく。ヘッドボードに背中を預け、動かない彼女に、それが言葉だけでないことを確認した玄秀は背中を向け、部屋を立ち去る。
 ああついにこの時がきてしまった――ティアンは目を閉じて、深々と息を吐き出した。
 いつか自分が彼にとって必要なくなる日。ずっとその日が来ることを恐れ、見えない恐怖におびえていた。きっと耐えられない、どうしたらいいか分からなくなってパニックに陥るに違いないと。でも、こうしていざその時がきて、彼の言葉を聞いた瞬間彼女が感じたのは……「無」だった。
 絶望も、安堵も、何もない。何も感じない、からっぽな自分…。
 指1本動かす意味も見出せず。ただうつろにしていると、傍らであるかなきかの音がしたような気がした。
 いつも玄秀に影のように付き従っている広目天王が立っている。何の感情も映さない緑の目でティアンを見下ろし、彼女が気付くのを待っていたように彼女のシュトラールを差し出した。
「……戦えと言うの…?」
 よりによって彼が。ティアンはかすかに皮肉めいたものを感じつつ首を振る。
「無駄よ。あなたも知るとおり、身も心も、良心までも、彼にささげたわ。そんな私に唯一残っていた剣技すら、彼はもう必要ないと判断した…。
 シュウは私を見限ったの。無価値だとね」
 もう二度と剣など持つまい。私の剣に、意味なとないのだから。
 顔をそむけたティアンのひざの上に、広目天王はシュトラールを放った。
「……こんな物」
「おまえはいつも己ばかりだ。主の情けを量ろうとしない」
「! それはどういう――」
 振り返ったとき、そこにはもう広目天王の姿はなかった。初めからいなかったかのように、遠ざかる気配も、足音すらしない。
 だが彼の告げた言葉はティアンの胸に深く突き刺さっていた。
「シュウの思いを、私が…?」
 ――そんなはずない。私はいつだって気にしていたわ。彼の一挙手一投足を注意深く見ていた。口元に浮かぶかすかな笑み、視線。その意味を探ろうと必死だった。
 いつだって彼を見ていた。彼が私を見てくれることを望み、彼が私に話しかけることを期待し、彼が私の名前を呼ぶことに安堵していた。

 ダッテソウシナイト、イツシュウヲウシナッテシマウカ、ワカラナイモノ――……


「わたし、は――…」
 彼の言うとおり。いつだって、自分のことばかり。
 激しい羞恥と自己嫌悪に襲われて、ティアンは両手に顔をうずめた。
 初めて彼に身を委ねたとき。彼が浮かべたのは失望だった。彼が私に失望したのは解っていた。彼に悦びすら与えることのできないお粗末な自分。この方法ですら彼をつなぎとめるには不十分だと悟った。
 私はあのとき、なぜ彼が失望したのかについて、もっとよく考えなくてはならなかったのではなかったの? 彼のもとを離れ、戻ったとき、なぜあれほど激しく拒絶したのに再びそばにいることを許してくれたの? 彼は決して裏切りを許す人ではないわ。口もきいてくれなかったけれど、それでも本気で追い払おうとまではしなかった。
 この腕だって。見限ると決めたのなら、どうして癒してくれたの? 今から戦いが始まるのよ? 少しでも魔法力は温存しておかなくてはいけないんじゃない?
 ――ああ。もしかして、彼は――……


※               ※               ※


「……行ってくる」
 何かに気をとられているような横顔、声で、だれともなしに告げると新風 燕馬(にいかぜ・えんま)扮する女医希新 閻魔は部屋から出て行った。
「ウッソー、ツバメちゃんったら、真っ暗暗。昨日からずーっとあの調子なのですぅ」
 気配が十分遠のいて、戻ってこないのを確信してからフィーア・レーヴェンツァーン(ふぃーあ・れーう゛ぇんつぁーん)はぱたぱたとリューグナー・ベトルーガー(りゅーぐなー・べとるーがー)の元へ駆け寄る。
 もともと落ち着きに欠けるところがあるフィーアだが、いつになくそわつくのも無理はないだろう。昨日部屋へ戻ってからの燕馬は、まるで親しい人を亡くしてその通夜にでも参列してきたかのような様相だった。窓辺の長櫃を椅子がわりに腰かけ、黙りこくったまま夕食の席にも出ず、いくらリューグナーたちが声をかけても休もうとしなかった。
『燕馬……病人にいちいち感情移入していたら、いずれ心が磨耗の果てに壊れますわよ』
 深夜。フィーアを含め、屋敷の者はとうに眠りについているだろうに一向にベッドへ入ろうとしない燕馬に、リューグナーが起き出してそばに寄った。
 見守るのもいい加減限界だ。肩に手を置き、もう寝た方がいい、とそれとなく誘導しようとしたリューグナーに、部屋へ戻ってきて以来初めて燕馬は口を開いた。
『……うん、分かってる。あの人はとっくに、俺がここへやって来る前から決めているんだ。きっと何年も前から。その覚悟を俺がどうにかできるとは思ってないし、患者が余命の使い方を決めたのなら、たとえそれが延命につながらずともそれを手助けするのが医者の務めだと思う。だけど……だけど俺たちは、それを阻む側なんだ。あの人に、たった1つ残された希望なのに』
『何か聞いたんですのね』
 それが何か、リューグナーもうすうす知っていた。リューグナーとフィーアはここ数日、そのための諜報活動を行ってきたのだから。パシャン・アタシュルクについて知ることは、最優先事項だ。ただ、できれば燕馬の耳には入れたくなかった事もあった。
 フィーアはその点問題ない。何も考えてなさそうなぽわぽわ頭に見えていても世事に長けていて、「知る」ことは大事だが必ずしも「理解」する必要はないのだと、割り切るすべを心得ている。しかし自分たちと違い、まだ20年にも満たない経験しかない燕馬にそれを求めるのは、いささか酷というものだろう。
『かわいそうな人なんだよ。裏切られて、失望してばかりの人生で、支えになる手もなく1人で生きてきた人なんだ』
『そうですわね』
 リューグナーが見つめるなか、燕馬はうなだれるように手元に視線を落とした。
『だけど、彼女にイルルヤンカシュを鎮めさせるわけにはいかない……そうだろ? みんな、そのために頑張っていて――』
『あら? 悩みはそんなことでしたの? なら簡単ですわ。燕馬は燕馬のしたいことをすればいいんですわ』
『……え?』
 まさかそんな言葉を聞くとは思わなかったと、燕馬は目をしぱたかせてリューグナーを見上げた。
『みんな、好きなことをしているだけですもの。燕馬だけがしたくないことをするっておかしくありません?
 燕馬は燕馬で、したいことをすればいいんですのよ』
 さあこれで心配事はなくなったから休めると、笑顔になったリューグナーの思惑とは裏腹に、燕馬は再び何か考え込んでしまった。そして訪問するに礼を失しない時間になるまで待って、ああして出かけて行ったというわけだった。
 途中で待つのを放棄して寝てしまったから、燕馬がいつ眠ったかも知らない。あの様子だと、一睡もしてないかもしれない。だが、とにかくああやって動き出したのだから、前進したのだろう。
 何をしに行ったのか、大方想像はつく。儀式の場へ参列の許可を求めに行ったに違いない。それが通るかどうかは燕馬の話術によるだろうが、6・4で通りそうな気がしていた。
 昨日、バシャンは燕馬と話していたし、もらった鎮痛剤を投げ捨てたりもせず、懐へしまっていた。あの様子からして、燕馬の厚意は必ずしも一方通行というわけでもなさそうだった。
(燕馬は燕馬の好きなように動けばいいんですのよ。でも、裏切り者と思われるのは回避してさしあげなくてはね)
 それはパートナーである自分たちの役割だ。
「ウッソー?」
「さあ、わらわたちも行きますわよ」
「って、どこへですぅ?」
「もちろん対話の儀式の情報収集ですわ。氏族長さまの周囲は口が固いかもしれませんけれど、全員がそうとは限りませんもの。いつ・どこで行われるか、口をすべらせる者はいるでしょう」
 滞在している間に顔見知りになり、手伝いや談笑で2人はそれなりに屋敷の者と関係を築いてきていた。2人に声をかけられた屋敷の魔女たちは、にこやかな笑顔で2人を受け入れ、リューグナーの思ったとおりあっさりと今日の予定を彼女たちに話してくれた。
 部屋へ戻ったリューグナーはさっそく銃型HC弐式を取り出して高柳 陣(たかやなぎ・じん)たちと連絡をとる。
「でも、やっぱり一緒に行くのは断られちゃったのですぅ」
「それはしかたない――」
「そっちは俺がなんとかした」
 部屋を出たときと変わらない沈うつそうな表情で、燕馬がドアを開けるなり言った。
「本当ですの!?」
「ああ。ちょっと言いあいになったが、同行することに妥協してくれた」
『あなたを診てきた医師として、あなたの命、なんとしても儀式終了まで保たせたい。そのためにもどうかお近くに控えさせていただきたいのです』
 駄目もとの請願だった。対話の儀に参加できるのは一族のみ。バシャンは一考にも値しないと相手にもしなかった。セイファも、このことでは頼りにならなかった。しかし燕馬はさらに自分の医師としての優秀さ、薬の有効性についても重ねて強弁した。
 決め手はやはり燕馬の持つ薬だった。東カナンの薬師が用いる薬には長年の使用で耐性ができていたのだろう。シャンバラの薬はよく効いて、十数分とはいえ立って歩けたことが大きな力となった。
『いいわ。あなたの同行を許可します。ただし――』
「途中までだそうだ。儀式の邪魔をする者が現れないか、要所で見張りを立てることになっている。その位置で待機しろということだ」
「いざそのときとなればすぐ駆けつけられる距離ということですのね。十分ですわ」
 リューグナーは、何か思案するように口元に手をあてると、保留にしてあった銃型HC弐式のスイッチを再度入れた。
「高柳さん、お待たせしましたですわ。少しお話がありますの――」