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【十 電離崩壊の使者】

 ザカコ、ヘル、エヴァルトの三人が、巨大な窪地脇の冷たい地面に横たわるミリエルのもとに到達した。ヘルが周囲を警戒する中、ザカコとエヴァルトがゆっくりとしゃがみ込み、あどけない幼女の寝顔をそっと覗き込んだ。
「良かった……怪我は無いようだ」
 エヴァルトが幾分、安堵した様子でひとつ吐息を漏らした。
 ところが、傍らのザカコは表情が硬い。いや、寧ろ愕然とした色すら浮かべている。その理由は、ザカコ本人にしか分からない。
(何だ……今のは、一体……?)
 ミリエルの寝顔を覗き込んだその瞬間、ザカコの視界の隅で、例のオブジェクティブ・オポウネントの認証コード発動のデジタル文字列が、淡い明滅を放ちながら一瞬、その姿を現したのである。
 もしや、マーダーブレインが、とも思ったザカコだったが、しかし今のところ、周囲にその気配は無い。
 では、あのオブジェクティブ・オポウネント発動の契機は何だったというのだろう。
 いつの間にか、ザカコの傍らに雅羅のフィギュア姿の式神が、姿を現していた。巨大地下空洞に突入した唯斗が放ったものであったが、ヘルが事前に話を聞いていた為、誰も気に留める者は居ない。
「ミリエルさん……起きてくれないか」
 エヴァルトが金属特有の冷たい掌でミリエルの肩を僅かに揺すると、ミリエルは両の瞼をぱちっと開き、すぐに上体を起こした。寝起きは、良さそうである。
「あ、その声は、エヴァルト兄ちゃんだねー」
 ゾーデ家でエヴァルトが短期間ながら厄介になっていた際、ふたりはすぐに親しくなった。
 ミリエルは人懐っこい性格なのか、エヴァルト兄ちゃんと呼んで甘えてくることが多く、エヴァルトも悪い気はしていなかった。
「ミリエルさん、怪我は、無いようだね」
「うん、元気だよ。あのね、ミリエルさっきね、寝てる間にお父さんと会う夢を見たんだ。それでね……」
 無邪気な笑顔を見せてはしゃぐミリエルだったが、そこで、彼女の言葉は途切れた。
 ザカコも、ヘルも、そしてエヴァルトも、突如窪地の底から噴き上がるような勢いで宙空に姿を現したマーダーブレインの禍々しい姿を見た。
 だが、三人が戦慄したのは単に、マーダーブレインが出現したからではない。この凶悪なる魔物が右の掌を頭上にかざしたその瞬間、ミリエルの体が光の粒子となって雲散霧消し、大気中に散らばった、ミリエルだった光粒子は、マーダーブレインが掲げた右掌に、ほとんど一瞬で吸い込まれていってしまったのである。
「き……貴様ッ!」
 エヴァルトが逆上した。
 たった今の今まで、無邪気な笑顔を見せていた幼女が、一体どのような方法を用いたのかは不明だが、マーダーブレインによって瞬時に、存在そのものが失われてしまったのだ。
 怒るな、という方が無理な話であろう。

「あっ……もう、始まってた!」
 同じく地下の巨大空洞内に走り込んできたリカインは、遅れて参戦する破目になったことへ、多少の苛立ちを見せた。
 別にサボっていた訳ではなく、単に複雑な城内で道に迷ってしまっていただけの話である。
「お嬢、敵は三箇所に分散している模様……どこに、散布しますか!?」
 ヴィゼントが珍しく、焦りの色を浮かべた視線をサングラスの奥から投げかけてくる。しかし、リカインには一切の迷いは無かった。
「マーダーブレインに撒いて。でも、気をつけてね」
「拙者がお守り致す。ご安心召されい」
 印加反転粒子散布装置を抱えたヴィゼントがナラカ・ピットの縁沿いに走り出し、その後を明日風が追う。リカインとアストライトは、対マーダーブレイン戦に突入しようとしているザカコとエヴァルトに助太刀する気はあったのだが、しかしその前に、どうしてもやりたいことがあった。
「……本当にあの、オブジェクティブが意思疎通してくれると思ってるのか?」
「それは、分からないわ……でも、彼らが何故生まれてきたのか、そして何を目指そうとしているのか……それを知ろうともしないままっていうのは、別問題なんじゃないかと思うの」
 リカインは真剣な表情で、アストライトに答えた。
 もしかしたら、意思疎通を図った瞬間、脳波に何らかの影響が出る可能性も十分に考えられたが、しかしどうやら、リカインは既に腹を括っているらしい。
 最早こうなると、誰にも彼女を止められない。アストライトは苦笑を浮かべ、自らも覚悟を決めた。
 と、その時である。
「連中が何を目指しているのか、か……どうせ貴様らコントラクター共は、この場で全員屠られる身だ。せめてもの冥土の土産に、ひとつ教えてやろう」
 リカインとアストライトは、思わず目を剥いた。誰あろう、ヴィーゴ・バスケスが、薄暗い地下空洞内の壁面に、寄りかかるようにして佇んでいたのである。
 既にふたりは、このヴィーゴがカニンガム・リガンティと同一人物であるという情報を、コントラクター達が構成するネットワークから拾い上げて、その詳細を全て把握している。
 ミリエルの大好きなお父さん、というイメージでカニンガムの人物像を把握していた者が大半だっただけに、この傲慢な領主とのギャップが大きな混乱を引き起こしたのも、また事実であった。
「教えてやろうって、どういうこと? もしかして、あなた、オブジェクティブ達と……」
「そうだ。私は連中と直接アクセスし、意思の疎通経路を完成させている」
 アストライトが息を呑むその隣で、リカインは燃えたぎるような視線をヴィーゴにぶつけた。ヴィーゴの唇には、ただ余裕の笑みばかりが浮かぶ。
「連中の真の目的は、地球降下だ。地球全土に広がる膨大なネットワークが標的らしい。だがその為にはまず、地球に降下する為の経路が要る」
「それが……Xルートサーバーね。確か、対ピラー特別救済措置法が適用されれば、あなたは新しい領地で、Xルートに直結するルーターマシンのアクセス権を握ることになるそうね」
 そして更にリカインはいう。
 そのルーターマシン『ウィルビングル』には致命的なバックドアが残されており、このバックドアを通じてパラミタ上のネットワークに侵入すれば、Xルートの制圧も可能になるだろう、と。
 勿論、ヴィーゴには地球のネットワークなど眼中には無い。彼はただ、ツァンダ直属という家格と、新たな領地が欲しいだけである。だが、その領地にウィルビングルが存在するということで、オブジェクティブ達とは利害が一致する。
 しかし、ひとつだけどうにも分からない。ヴィーゴはオブジェクティブと結託することで、一体どのような恩恵を得られるというのだろう。
「……ミリエルだ。三百年前に死亡した柱の奏女の精神体をクロスアメジストから引きずり出し、映像体として完成させる。それが出来るのは、奴らだけだ」
 流石のリカインも、この時ばかりは絶句した。
 本人は自覚していなかったらしいが、ミリエルもまた、オブジェクティブだったのである。

 リカインが驚愕の真実を、ヴィーゴの口から聞かされていた頃。
 美羽はバスターフィストを相手にまわして、苦戦の真っ只中にあった。コントラクター十人分の脳波を取り入れている相手に単独で立ち向かうのは、余りにもリスクが大きいというものである。
(流石にちょっと……拙い、かも)
 美羽の全身には大小の傷が縦横に走っており、体力の消耗も尋常ではない。
 片やバスターフィストは生物ではない以上、当然ながら疲労というものを知らず、肩で息をしている美羽とは対照的に、余裕のたたずまいを見せていた。
 足元が覚束ない状態で、力が入らない。美羽は、圧倒的不利を悟った。
 逆にバスターフィストは、いよいよとどめを刺さんとばかりに一歩踏み出してきた。美羽は、覚悟を決める以外に無い。
 だがその時、光明が射した。
 突如、カイの長身が美羽の傍らを後方から追い抜く形で猛然と突撃してきたかと思うと、バスターフィストとすれ違いざまに、両手にそれぞれ構えた黒刀を一気に薙ぎ払った。
 美羽は、我が目を疑った。
 カイの二刀流による斬撃は、バスターフィストの防御を一切無視して、的確な打撃を与えていたのである。その証拠に、バスターフィストの右脇腹と左肩が、光粒となって一部、宙空に消失していたのである。
「さすがマスター。早くも、バティスティーナ・エフェクトをものにしているようですね」
 ベディヴィアが続いて現れ、更にその横には、コハクの姿もあった。
 コハクは美羽の惨状に気づくと、慌てて駆け寄ってきて、心配そうな面持ちで肩を貸した。
「ねぇ……バティスティーナ・エフェクトって……?」
 美羽が訊いたのも当然である。
 彼女の記憶が正しければ、それはドロマエオガーデンの魔獣共を制御する為のシステムであり、既にオブジェクティブスナイプフィンガーが奪い去った後だった筈だ。
 それがどうして、カイの手によって駆使されているのか。
 しかしコハクは落ち着いた口調で、僅かな笑みを湛えて優しく答えた。
「ネオさんが、最近のオブジェクティブの動向を密かに探っていた際に、スナイプフィンガーの残存波形を解析したらしくてね……ドロマエオガーデンの魔獣に対しては何の役にも立たないけど、対オブジェクティブ戦には使えるってことで、電子結合映像体への電離崩壊作用を形成するエネルギー波動を作り出し、これを認証コード化したんだ」
 それが、バティスティーナ・エフェクトなのだという。
 ネーミング的にいささか難はあるが、新しい名前を考えるのが面倒臭かったので、そのまま採用したのだという。そしてこのバティスティーナ・エフェクトは、オブジェクティブ・オポウネントのようにクロックダウン機能は含んでいない為、対オブジェクティブ戦に於いては、オブジェクティブ・オポウネントとセットで運用するのが望ましい、という話であった。
 ただ、オブジェクティブ・オポウネントの認証コードを既に保持している者は、バティスティーナ・エフェクトの認証コードは獲得出来ない、という制限もあったのだが、それは然程大きな問題ではない。
 ともあれ、この場では美羽がオブジェクティブ・オポウネントを保持している。条件としては、完璧であったといって良い。
「後はゆっくり休んでくれ……いや、前言撤回。そこで、奴のクロックダウンを維持してくれ。後の始末は、俺がつける」
 カイの全身から、鬼気が激流となって噴き出した。