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リアクション
●春色の残像
二人分の飲み物を持ち、
「よろしいですか?」
アイビス・エメラルド(あいびす・えめらるど)がユマのもとを訪れた。
「ええ」
ユマが頷くのを確認すると、アイビスは一つを手元に残し、もう一つをユマに手渡した。
「私は、人間のように頻繁に飲料水を摂取する必要がありません。ユマさん、あなたもそうでしょう?」
「……そうです」
「それなのにこういう場にあれば、人の真似事をしてしまう」
飲み物を一口、唇を湿らせてアイビスは続けた。
「なぜなのでしょうね?」
ユマの返答をアイビスは待たなかった。無口だったアイビス、今でも、求められれば一週間だって一ヶ月だって言葉を発せずにいられる彼女だが、この日は饒舌だった。
「魍魎島では私は何もできなかった。私が目覚めた時は既に終わっていた。そして……美空もあの島で命を落としたと聞いています……」
なぜなのでしょうね? と再びアイビスは呟いてユマを見た。
「それを無念に、悲しく思うのはなぜなのでしょうね? 自分の無力を悔しく思うのは……? 以前の私ならきっと、そんなことはなかった」
「答はわかっているはずです」
ユマは静かに応じた。
「アイビスさん。それはあなたが、かつて人間だったから……その頃の心を取り戻しつつあるからではないですか?」
「……喜ぶべきことなのでしょうか?」
「私にとってと言うのなら、嬉しく思います」
ユマははっきりと伝えた。
「なぜってそれは、私にとってアイビスさん――あなたという友達ができたということなのですから。……感情のない方とはきっと、友達にはなれませんからね」
アイビスの表情がわずかに緩んだ。
「ユマさんと少し話したいんだ」
榊 朝斗(さかき・あさと)が来た。アイビスは軽く会釈して座を空け、そこに彼が座る。
「ユマさん、教えてもらいたいことがあります」
「くだけた口調で結構ですよ」朝斗がかすかに緊張していることを見抜いたのか、ユマ・ユウヅキが微笑を浮かべて言った。
「え……あ、いいの?」
「もちろん。私はこの話し方しかできないだけなのでお気遣いなく」
ユマの笑みは朝斗を優しく受け止めてくれる。なるほど――彼は思った――彼女に恋する男性が少なくないわけだ。
「知りたいのは『ドクター・ミサクラ』という人物について、それに『RIB計画』という言葉だ。もうクランジ関連の事件は一段落したことはわかってる。でも、これだけは気になるんだ……だってこれは」
アイビスの姿が離れていることを確認し、それでもぐっと小声になって彼は続けた。
「これは……アイビスのお母さんにつながる手がかりだから」
「ミサクラというのはおそらく『御桜凶平』という科学者のことでしょう。クランジシリーズの開発者と言われています。ですが私はクランジの中でも下級のタイプIII(スリー)のせいか、その人に直接の面識はありません。RIB計画というのも残念ながら……。『rib』……? 『肋骨』という意味の英単語と想像するのはいくら何でも奇妙ですので、何かの頭文字と思います。たとえば『R』なら『return(帰還)』とか『restore(修復)』とか……」
上位種のシータならば何か詳しいことを知っていただろう。しかしユマにそこまでの知識を求めるのは酷といえた。それは、やはりローラやパイでも同じかもしれない。
朝斗は落胆したが絶望はしていない。
「本音を言えば、もう誰かを失うのは真っ平御免だ。止めなくちゃいけないんだ、こんな悲しいことは……」
アイビスが悲劇の連鎖を断ち切る鍵になれるのであれば、命に代えても彼女を支えたいと朝斗は思うのである。
アイビスは今、ルシェン・グライシス(るしぇん・ぐらいしす)と向き合っている。
「聞いちゃったわ。ユマさんとの会話……ごめんね。盗み聞きしたかったわけじゃないのよ」
と断ってからルシェンは改めて述べた。
「仕方ないわよ、アイビス。あの状況じゃ倒すのがやっとだもの。でも……色々と失ったものが多すぎる……わね」
見上げれば頭上には桜、そして月の昇った夜の空があった。
その月光を反射し、ルシェンの耳にきらりと輝くものがあった。『月雫石のイヤリング』だ。なぜこれをルシェンが、再び身につける気になったのかは本人にしかわからないことだろう。
……このイヤリングに込められた願い、それは『自分が朝斗の支えになる』である。
感傷的になりたくなかったからか、ルシェンは酒を手にしていた。
「お酒……」
呑みすぎでは、とアイビスは言った。事実、今のルシェンは大酒を呑んでいる。それも、酒呑童子もかくやという勢いで大盃を乾しては注ぎ注いでは乾すというペースなのだ。
「……いいのよ。今日は、呑みたい気分なんだから」
ルシェンは自嘲気味に笑った。魍魎島の記憶、その哀しみに呑まれないために酒を呑むのだ。自分でも滑稽な姿だと思う。
「朝斗……?」
ユマとの話を終え朝斗が戻ってきた。疲れたような笑みを浮かべている。
その顔を見てアイビスは口をつぐんだ。ルシェンも、黙って大盃を傾けた。
このとき朝斗の手が、何気なく自身の懐中時計に当たったのは偶然だろうか。拍子にその蓋が開き、セピア色の音色がこぼれたのは、単なるアクシデントだったのだろうか。
朝斗は眼を見張った。偶然、懐中時計からオルゴールの音が流れたこと、それに驚いたのではない。
ルシェンも杯を置いた。
まるで音楽に導かれるように、アイビスが歌を口ずさみ始めたのだった。
「その歌……」
朝斗の言葉を継いでルシェンが問うた。
「知っているの、アイビス?」
アイビスは黙って首を横に振った。ふと口をついて歌が出てきたのだ。
「続けてほしい」
朝斗が言った。
「聞きたいんだ。アイビスの歌……」
ふたたび、絹のような質感をもつアイビスの歌が桜の下を流れ始めた。