リアクション
…※…※…※… そのころ、1階へ上がった美羽、コハク、セルマ、リンゼイの4人は、とりたてて何の妨害もなく階段横の警備員室へ到着していた。 廊下は真っ暗である。 「急ごう、リン。 俺は階段を見張ってるから、小鳥遊さんたちは廊下の方をお願いします」 敵がどんな相手か知っていることが、彼らにとって有利でもあり不利でもあった。どんなことをしても勝てない化け物。そうと知っているだけに、恐怖は倍加する。 いつ、どこからあのデスマスクが現れてもおかしくない状況で、4人は今にも胸を突き破って飛び出していきそうな心臓の音と戦いながらそれぞれの担当をこなそうとする。 「美羽、大丈夫?」 「うん……暗くて見えないからかな。ちょっと平気」 このときにはもう美羽もコハクも、美羽の症状が対人恐怖症のそれであると気づいていた。セルマたちと背中合わせになり、姿を視界に入れないことで、ようやく美羽は息がつけるようになって、大きく深呼吸をする。 その後ろでは、リンゼイが擦りガラスの隅から中の様子をうかがっていた。 「真っ暗。中にはだれもいないようです」 人の気配もしないのを確認して、リンゼイは次にドアノブに手をかけた。ゆっくりと、音がしないように気をつけて回し―― 「!!」 途中で抵抗があって、ドアノブがそれ以上回らなかった。もう一度確認で回したが、やはり同じだ。 「……鍵がかかっています」 考えてみれば当然だ。警備員がなかにいなければ、警備員室は施錠されているに決まっている。 「なんだって!?」 思わず叫んでしまったセルマだったが、かろうじて声を殺すことは忘れなかった。 「どうしましょう……」 「何か使ってガラスを破るしかないか」 でも何で? 「そうだ、消火器――」 「しッ!」 コハクが口の前に指を立て、音を立てないようにうながす。 カツン……カツン…… こちらへ向かってくる、革靴の立てる冷たい足音が聞こえてきた。警備員が巡回から戻ってきたのだろう。 「……こうなったらやるしかない。彼の持っているに違いない鍵束を奪うんだ」 4人は暗さを利用して、壁側にしゃがんでできる限り身を小さくし、気配を殺そうとした。 しかし直後、警備員の床を照らすライトが彼らの姿を浮かび上がらせる。 「おまえたち、何者だ」 感情の欠如した棒読みの声。ライトのまぶしさにくらんだ目に、警備員の影となった姿はぞっとするほど大きく見える。ライトを持つ手と反対の手に握られた警棒は長く伸びたままで、微妙に着崩れた制服といい、まるでいましがただれかを撲殺してきたかのようだった。 「いまだ!」 消火器を手にコハクとセルマは殴りかかったが、もはや何もかもが滅茶苦茶で、タイミングも最悪だった。 こんなはずじゃなかった――重い消火器では到底警棒に勝てない。頭上高く、大上段に振り上げられた警棒をセルマは途方にくれて見つめる。あとはもう、あれで頭をかち割られるだけ――。 「セル! 逃げてください!!」 セルマの手から転がり落ちた消火器にリンゼイが飛びつき、立つ間も惜しんで噴出した。 真っ白い粉末が廊下一面に広がる。 警備員は1人、自分たちは4人。これに賭けるしかない。 「美羽!」 コハクは警備員らしき影に向かって消火器を投げ捨て、美羽の手を掴んでバーストダッシュで廊下を走り抜ける。だがセルマはそうはいかなかった。リンゼイが、妹が、床に仰向けに転がったままだ。 立ち上がろうとひざをついたリンゼイの前に、警備員がいる。 「リン!!」 とっさに2人の間に身を投げ出したセルマに向け、容赦なく警棒が振り下ろされる。瞬間、ぐしゃりという聞くに堪えない鈍い音が響いて、リンゼイは硬直した。 「リン……」 逃げて……。 ぐらりと揺れて、セルマが倒れかかってくる。命の火が消えてずしりと重い体を抱きとめた、リンゼイのまばたきを忘れた目に涙がにじんだ。 床に転がっていたライトを拾い上げた警備員が、上からセルマとリンゼイを照らす。見下ろす目には、今殺した相手にも、これから殺す相手にも、一片の感慨すら感じておらず、まるでガラスをはめ込んでいるかのよう。屠殺人ですら、自分が殺す家畜に対してもう少し感情を持つのではないか……。 「セル……」 ぎゅっとセルマの亡骸を抱きしめる。覚悟を決め、そっと閉じた目じりから、涙が1粒転がり落ちた。 …※…※…※… 一方、コハクと美羽はバーストダッシュで廊下をまっすぐ走っていた。 混乱した頭にはもう作戦も何もない。ひたすら逃げて、つきあたったドアなり窓なりを破壊して外へ飛び出すだけだ。 そんな2人を援護するかのように廊下にパッとあかりがつく。すぐに地下ロビーのときのようにチカチカと明滅しだしたが、それでもあかりはあかりだ。 いける――そう思った直後、左右の廊下の景色が一変した。 汚れ1つない真っ白い壁だったはずなのに、一面黒い煤(すす)と鮮血にまみれた壁になったのだ。 「そんな……っ」 驚いて思わず止まった2人の周囲で、パッとあかりが消えて暗闇になり、またパッとあかりがつく。白い壁だ。パッと暗闇になり、パッとあかりがついて――また、血まみれの壁。 点滅するたびに白い壁と赤い壁が交代している。 変化しているのはそれだけではなかった。 「コハク、あれ見て!」 美羽が驚きに声を上げる。彼女の指さした先では白い壁に花瓶の描かれた油絵がかかっていたが、パッと赤い壁に変わった瞬間、そこには白い額縁だけがあって、油絵の代わりに赤いクレヨンか何かで書きなぐられた文字が出現していた。 You don’t understand anything. If it was possible to understand, it can’t be alive. I just want your death. I just want your death. I just want your death. I just want your death. 「何よこれええええええーーーーっ!!」 「逃げるんだ! 美羽!!」 絶叫する美羽を揺さぶったコハクは、次の瞬間ぎくりと身をこわばらせた。 赤と白。明滅する廊下の幅いっぱいに人影が広がっている。白い壁のとき、人影は自分たちと同じような寝間着を着た患者たちだった。しかし赤い壁のとき、着ている服もボロボロの腐乱した死体へと変わる。 「美羽、美羽」 いくら揺さぶっても美羽は悲鳴をやめなかった。恐怖症を抱え、病院への恐怖に耐え、セルマたちの死を目撃し、今また理屈では理解できない現象が起きて――そのたびに心のなかでキリキリと撚られていた糸がついにふつりと切れて、恐怖が正気を上回ったのだった。 「いやっ! いやっ! いやああああーーーっ!!」 「美羽……」 暴れる体をぎゅっと抱き締めて、コハクは背中の翼を広げた。彼らの頭上を越えていくしかないと思った。万に一つの可能性を求めるそれは、火中の栗を拾う無謀さにも似ていた。 だが無情にも、廊下にそれだけの高さはなかった。 真下から伸ばされた無数の手がコハクの抱く美羽を掴み、引きずり下ろす。美羽の姿は伸ばされた腕以外、あっという間に飲み込まれて見えなくなった。 コハクだけなら逃れることもできた。彼らが美羽をえじきとしている間に、彼らを越えて――。 そんなこと、できるはずがない! 「……美羽、愛してるよ……僕たちは、どんなときも一緒だ……」 健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、 悲しみのときも。これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか。 そう誓った。 美羽の笑顔がまぶたの裏に浮かぶ。 コハクはぎゅっと目を閉じて、美羽の腕を掴んだまま、ともに引きずり下ろされた。あちこちから伸びた手が先を争うように彼の背中の翼をむしり、バラバラにちぎっていく。 やがて明滅は止まり、煤けた赤い壁一色となった廊下では、ひざをついて背を丸めた腐乱死体たちがひたすら床から何か引きちぎっているような動作と、耳にしたならば生涯こびりついてはがれないような音が支配していた。 Your life ends here. |
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