葦原明倫館へ

空京大学

校長室

天御柱学院へ

【蒼空に架ける橋】幕間 願いは星降る夜に

リアクション公開中!

【蒼空に架ける橋】幕間 願いは星降る夜に

リアクション



●ヒノ・コ


 少し時をさかのぼって、広間の方で天燈づくりが始まったころ。同じ屋敷の別の一室では、ヒノ・コを相手としての話し合いが始まろうとしていた。
「なるほど。そんなことがあったんだねえ」
 長テーブルの一番端についたヒノ・コは、同じテーブルについた者たちを、重そうにまぶたが垂れた、疲れきったような半眼で見渡す。そして伍ノ島を脱出してくる際に黒く染めたままでいまだ色を落とせていない髪をゆっくりと掻き上げた。指の間から見える額のどこにも、天津罪刑を受けた罪人の証拠である刺青は見られない。
 彼はつい今しがた、この数日で彼らが体験したことを聞かせてもらったばかりだった。
 邪魔が入らず静かに話し合えるようにとの配慮からあてがわれたこの部屋は、サク・ヤが開いている天燈づくり教室からも、また島に到着したのが遅かったため、宿をとることができなかった彼らに向けて開放されたはなれよりも離れていて、とても静かだ。
 それっきり、だれも何も言わない。
 ほかの者たちはヒノ・コが何か意見を口にするのではないかと思っているようであり、ヒノ・コはまだ何か続きがあるのではないかと思っているようだ。どちらも相手の出方をうかがっているように見える。
「……おい。少し落ちつかぬか」
 沈黙に耐えかねるのか、そわそわと落ち着きなく身じろぎをしていたティエン・シア(てぃえん・しあ)木曽 義仲(きそ・よしなか)が頭を寄せ、こそっと耳打ちをする。
 周囲を気にして十分にひそめられた声だったのだが、緊張しきっていたティエンは突然耳元でした声に「ひゃっ」と小さく叫び声を上げて椅子の上で飛び上がる。全員の目を引いてしまったことにカッとほおを染めると、突然椅子を引いて立ち上がった。
「ぼ、僕、厨房行って、何か飲み物もらってくるねっ。ス・セリさんたち、遅いし……たぶん、パーティーのお世話で忙しいんだと思う」
 そこで一度返事を待つように言葉を切ったが、だれも何も言わない。
「あ、あと、何か一緒につまめる物もっ」
 大急ぎ付け足したあと、いきなり義仲のそでを引っ張った。
「義仲くんも来て」
「ぬ? 俺もか?」
「行ってやれ」
 反対側に座っていた高柳 陣(たかやなぎ・じん)が素っ気ない声で言う。
「ティエン1人じゃとてもここにいる人数分は運びきれねえ」
「むう」
(俺もヒノ・コどのにはいくつか聞きたいことがあるのだが……陣め、それを許さぬつもりだな)
 2度目ともなれば義仲も多少鼻が利く。
 が、陣の言うことはもっともで、反論の余地はなかった。
「……しかたあるまい。たしかにティエン1人に運ばせるわけにもいかぬからな」
 あとで見てろよ、と言うようにじろりと陣を見て、義仲はティエンの方を向く。ティエンは彼が同意してくれたことにホッとしたのか、みるみるうちに緊張を解いた。
「ありがとう、義仲くん」
「あ、いや、なに」
 ティエンの相手を押しつけられ、この場から放り出されようとしているのだと考えてしまった手前、素直に感謝されると少々ばつが悪い。もごもご返事をごまかしながら、ティエンのあとについて部屋から出ようとする。2人の姿に、ガタンと音を立てて椅子を押しやって立ったのは、リーラ・タイルヒュン(りーら・たいるひゅん)だった。
「私も行くわ。ちょうどお酒がほしいと思ってたとこだったし〜」
「おい、リーラ」
 不謹慎だぞ、ととがめるように名前を呼ぶ横の柊 真司(ひいらぎ・しんじ)をちらと見下ろす。
「べつにいいじゃない。ここにいる人の何人かは、気つけの酒が必要っぽいし〜」
 テーブルについた面々の上で流れる視線が、ヒノ・コで止まった。
「ねえ、あなた。何か希望の銘柄とかある? あったらそれ持ってきてあげるわよ〜」
「ありがとう。しかしお酒じゃなくて、何かのどを湿らせる冷たい飲み物をいただけるかな」
「あら。飲めないの?」
 意外そうな口ぶりにヒノ・コは苦笑を見せた。
「飲めないわけじゃないけど……まあ、強くはないようだねえ。若いころ、それで何度か失敗してね。すっかりこりて、もうアルコールはやめようと決めてからは飲まないようにしてるんだよ」
「ふーん。ま、それならいいわ。飲めないって人に、無理に飲ませたっておいしくないものね〜。
 じゃあお酒と、適当につまみも見繕ってくるわね〜」
 ひらひらと後ろ手を振ってドアへ向かうリーラに、真司は処置なしといった様子でため息をついた。
 ドアを開けたところで、「あ」と何か思い出したようにティエンは振り返る。
「あのね、ヒノ・コおじいちゃん。
 あとでパーティーにも一緒に参加しようね。何がおいしいか、教えてね。おいしい物、一緒に食べて、天燈も流そう?」
 ティエンのおねだりのような言葉に、ヒノ・コは最初ほんの少し驚いたような顔をして、だんだんとそれを緩ませるとほほ笑んだ。
「そうだねえ」
 ヒノ・コから同意をもらえたことに、ティエンはうれしそうにパッと表情を輝かせる。
「じゃあ行ってくるねっ。すぐ戻るから!」
 ぱたん、とドアが閉じて、軽い足音とともに3人の気配が離れていくのを待ってから、おもむろに陣が疑問を口にする。
「おい、じいさん。まず最初に言っとく。ティエンがあんたに懐いちまったし、泣かれるのも嫌だから、あんたをどうこうする気はない。俺らよそ者だけど、もう首突っ込んじまったしな。
 ただ、いくつか疑問がある。それに答えてほしいんだ」
「いいよ。そうするって約束したしねえ」
 鷹揚にうなずくと、ヒノ・コは格好を崩して足を組んだ。
「じゃあ、間違ってたらそう言ってほしいんだが。伍ノ島ではじいさんが逃げたことなんざ、とっくにバレてるだろう。なのにヨモツヒラサカだけじゃない、弐ノ島に来ることもできた。これはどうしてだ?」
「そうだね。いくつか考えられるけど、まずきみはどう見てるの?」
「単純に考えるなら、じいさんとカガミがあっちには不要になったか、じいさんがあっちの味方で俺らを利用しているかだ」
「あっちの味方?」
 くすり。思わぬ笑いがこぼれて、ヒノ・コは「ごめんね」と口元を押さえる。
「あまりに意外だったから、止められなかったよ。ごめん。
 ええと。まず「不要」とか「味方」という表現はおかしいね。わたしにきみの言う「味方」はいない。「不要」になったりもしない。彼らにとってわたしは永遠に罪人だからね。彼らは罪人を捕えている。そして同じ罪人からも私刑を受けないようにわたしを保護している。彼らはわたしという罪人を閉じ込め、監視する役目を負っている。そこに「不要」とか「味方」という言葉は存在しないんだ。分かるかな?」
 陣がうなずくのを見て、ヒノ・コは先を続ける。
「次に、わたしが逃亡したのはバレているかということだが、これはわたしも同意だねえ。ただ、彼らはどうやってわたしが逃げたかが分からない。なぜなら、この浮遊島にはきみたちのような地球から来た……ええと、コントラクター? そういう存在がいないからだ。
 ここはね、無垢なんだよ。そういう意味ではね。7000年の間にはもちろん下へ降りた者もいただろうし、上がってきた者もいただろう。でも、それは微々たるものだった。地上との国交が回復されようとしていて、その先陣としてきみたちがやってきた、これほど人々を刺激する大きな変化の波は、7000年で初めてじゃないかな。
 きみは、彼らに理解できない方法で侵入し、わたしを連れ出した。彼らはわたしが絶対逃亡できない厳戒体制のなかから忽然と姿を消したと思って、動揺しただろうね。なぜヨモツヒラサカに、というか、イフヤに現れなかったのかは分からない。単純に考えれば、わたしの逃亡に気づいたのが遅かった、館内を捜索することに時間をとられた、わたしが逃げる直前ヨモツヒラサカについて公言したためにそれを虚誕(きょたん)と深読みをして、全く別方向を捜索した等が考えられるねえ。
 それに、わたしもそんなに間抜けでもないんだよ。たしかにこれまで何度も捕まってきたけれど、逃亡していた期間の方が長くてね。いろいろといざというとき用の物は分散していろんな所に隠してあるんだよ。たとえば今回使ったこの髪染めとか、瞳の色を変えられる目薬とか、額の刺青を一時的に隠せる人工皮膚とか、偽の身分証明書とかねえ」
 ヒノ・コの指先が重く垂れたまぶたを持ち上げる。ツク・ヨ・ミと同じ、スミレの色をしているはずの瞳は、今は明るい新緑に変わっていた。
「そうか。じゃあそっちは今のとこ不問だな。
 だけどヨモツヒラサカでの一件。あれ、じいさん俺らが死んでもかまわないつもりだったんだろ?」
 ん? というようにヒノ・コの左の眉が上がり、小首が傾げられる。
「だから自分は外に残った。たとえ帰ってこなくても、次の策を立てられる。自分の孫娘を危険な目に合わせるだけの覚悟をしなくちゃいけねぇことなら、他人はなおさらだよな」
「……なんだか先からすごく意地の悪い訊かれ方をされているようだと思ったら。そういうことか」
 やれやれというふうに腑に落ちた顔をしたあと、ヒノ・コはふうと息をついて背もたれに身を預けた。
「死んでもかまわない、なんて思ってないよ。きみたちに行けと強制した覚えもないし。
 ただ、あそこには二度と行きたくない、と思ったのはたしかだねえ。……あそこで起きたことは、まだわたしには割り切れることではないんだよ」
 ぼんやりと虚空を見て、何かを思い出しているかのような視線とあいまいな笑み。そこに、ほんのわずかではあったものの、深刻な苦しみと痛みを垣間見て。
「一体、何があったんです?」
 訊いたのは風森 巽(かぜもり・たつみ)だった。
 机の前でひじを立て、組んだ手の隙間から観察するように見ていた彼は、その手を解いて膝に乗せる。
「秋津洲伝承は読みました。かつてこの浮遊島群は秋津洲と呼ばれる1つの浮遊島で、国家神イザナミによって統治されていた。そして風の神殿イフヤにはヨモツヒラサカと呼ばれる地下区域があり、そこにはかつて国家神アマテラスが退治したオオワタツミの荒魂が5種の神器によって封じられていた。これをあなたが解放してしまったがために秋津洲は5つに割れて、今の状態になってしまった。
 なぜ秋津洲が5つに分かれても……いや、違うな。島を5つに割ってでもあなたがしなくちゃいけなかった事というのは、一体何だったんですか」
「それは――……」
 そのとき、ドアをノックする音が起きて、ヒノ・コは口を止めた。
「ただいま! おいしそーなのいっぱいもらってきたよ!」
 3人が嬉々として、両手いっぱいにほこほこと湯気をたてる食べ物と飲み物を持って戻ってくる。それを各人が受け取って、行き渡るのを待つ少しの間、ヒノ・コは彼らを見渡し、そしてほかの人たちよりほんの少しだけ長く、壁際で目立たないように立っているナ・ムチ(な・むち)に視線をとどめると、彼が視線に気づくより早くその目を伏せて、同じテーブルを囲む彼らの立てる音や話し声に黙って耳を傾けたのだった。