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Buch der Lieder: 歌を忘れた金糸雀

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Buch der Lieder: 歌を忘れた金糸雀

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 屋上のヘリポート、その隅も隅の、今にも落ちそうな位置にハインリヒは居た。契約者の登場に振り返った彼の顔は、雪の様に白くて生気が無く、まるでこの世に有る事が疑わしい程だ。
「あの…………中尉は、生きているんでしょうか?」
 ハインリヒは目の前で動き、歌っていると言うのに、階段の上に配置された兵士がそう呟いてしまったくらいである。地球の伝説に生き人間を死に導く精霊達は、冒涜的な程愛らしく、神秘的な程淫蕩であるとされるが、今のハインリヒは何故かそれに見えた。ハインリヒは確かに美しい青年であるが、ただの人間の男なのだからこれは異常だ。
 ――Freund Hein.
 彼と対峙しているのはパラミタで様々な種族と出会った地球出身の契約者と、自らも特殊な力を持つ者達だというのに怖気が走る。
 勿論彼等が感じている寒さの原因は、気温もあるだろう。
 高層ビルの屋上で、立っているのも辛い程の風が吹き付けているのだ。落ちたらひとたまりも無い中で、一番危険なのは恐らく――、否、確実に縁に立っているハインリヒだろう。
(こんな場所でショックウェーブやルカの剣の『吹き飛ばし』でもすれば結果は見えているな――)
 ダリルは状況を確認しながら、頭の中で作り上げていた作戦を建て直している。
「こんなところで寝ていたら風邪じゃすまないんだからとっととおきなよ」
 託の軽口が飛ぶ中、フランツは風の流れの中に風術を混ぜる事を試みる。
(空気の流れを不規則にすれば歌声イコール空気の振動、は干渉を受けて本来の音の高さや長さを保ちえない。
 また発声される音に重ねた音で和音を合成し別の音にして、元の歌を変える!
 音の運びは、見当がつく)
 彼はそう思っていたが、既に歌い出していたアデリーヌの声が全くぶれないことを考えれば、彼等の歌は風程度に阻害されるものでは無い。それが彼等が『ワールドメーカー』と呼ばれる所以だろう。
 さて、アデリーヌが歌うのは『悲しみの歌』で、ハインリヒの動揺を狙っていたが、ハインリヒの表情はぴくりとも動かない。
 輝の子守唄に対しても同様だ。
 アデリーヌは即座に作戦を切り替え、催眠のスキルを掛け続ける事にした。
(ええ、分かっていますわ。最初は効きませんわよね)
 要は集中力が落ちれば良い。アデリーヌがそれを狙う間に、ジブリール・ティラ(じぶりーる・てぃら)は『大天使の翼』を展開していた。これは使用者を中心に半径5メートル以内の範囲にいる仲間へ重力の影響を軽減し、動きやすくするスキルだ。
 それに加え、ルカルカも『超加速』を皆へ付与し、戦いの効率を上げようとする。
 準備は整った。
 ハインリヒの方は例の歌を歌ったまま、こちらへ何かを仕掛ける様子は無い。
「今のウチに――!」
 真鈴がハインリヒに向かって雷を当てようと試みるが、途端彼は動き出した。
「動きが早過ぎて近づけないですにゃー!」
 媒介にしたのと同じ様に、蚕の糸でハインリヒを絡めとろうとしていた瑠奈が悲鳴を上げる。
「陽動しましょう――!」
 言いながら飛び出した歌菜に、さゆみもハインリヒの足下への射撃を行った。だが左右へ跳び退くハインリヒの歌声は、全く変わらない。歌はハインリヒの口から生まれているのに、まるで別の場所から音源を流しているかのようだ。
 何処を見ているのか分からない、死人のそれのように焦点の定まらないグレーの瞳が、余計にそう思わせる。
「なんや? 攻撃のラッシュでも呼吸が乱れないやんか!」
 泰輔は眉を顰めるが、フレンディスはこの瞬間を利用し、ハインリヒと自分の位置を入れ替えようと動いていた。
(あの動き――、気にかかります)
 ハインリヒは先程から、ビルの一番端から離れようとしない。
 確かに後ろが何も無い空間であれば、銃弾は跳弾せず、背後からの攻撃も無く有利かも知れない。だがもし足を踏み外し、落ちてしまったら――?
 一体あれは、どういうつもりなのだろう。
(もしや……)
 ハインリヒを影で操る者は、最終的に彼をも殺そうとしているのかもしれないと、フレンディスは本能的に感じていた。

 まずはハインリヒの動きを封じようと、契約者達は動いている。
「意に反し『道具として』使われているのは、犠牲者ですね。
 ですが、一旦「道具」には壊れていただかないと……ええ、勿論修理……じゃない、治療は前提ですけれども」
 小型飛空挺アルバトロスの上でレイチェル・ロートランド(れいちぇる・ろーとらんと)が呟く中で、讃岐院 顕仁(さぬきいん・あきひと)は集中する。
(発声、という人間の活動をなさしめる筋肉の活動というのは、すなわち神経細胞を伝わる電気パルスの波形。
 ということであれば『放電実験』で歌い手が予測しない電撃を流せば、思った通りの歌は歌えぬということだ)
 彼が雷を放つと同時にルカルカはジュニアメーカーという機械で小さな分身を、狐樹廊は鉄のフラワシを遣わしたが、ハインリヒの目の前、凡そ1メートルの距離でそれらは全て弾かれた。
「トリップ・ザ・ワールドよ」
「集中力を削いで!」
 ワールドメーカーであるさゆみとリカインの声が飛ぶ。
「…………さっきからスキル封じをしていたのに?」
 輝が漏らした声に、舞花がそちらを向いた。
「私も気絶射撃を一発当てた筈なんです。なのに――」
 ハインリヒは意識を保っている。
 単純に、契約者として彼等を凌ぐ能力を持っているから、と言えば簡単だが、何かが違う気がした。大体あの強制クラスチェンジの能力について、まだ説明がつかないままなのだ。
 二人の会話を耳に入れ、リカインはハインリヒを正面に見据える。
(ソウルヴィジュアライズを使えば……)
 ワールドメーカーが使う事が出来るそれは、実際に見えている表情とは別に、相手の感情をそのまま表した表情が見えるようになるスキルだ。強く本心を隠そうとしている者の場合は、見ることが出来ないのだが――。
(常にごまかすような表情と態度をとっていたハインリヒ君がここまで感情をむき出しにしているとなれば、おそらくは通用するはず。
 目の前にいるのが本当にハインリヒ君なのか……)
 見極めようと目を見開いたパートナーに気付いて、狐樹廊は破邪滅殺の札を取り出した。
(逆にこっちが何か余計なものを見てしまわないといいのですが)
 瞬間、リカインの視界に映るものは、真実となった。
 歌い続けるハインリヒの死体のように色のない顔の上に、苦悶の表情が現れる。
(ハインリヒ君、やっぱり苦しんでいるわ。この事件、彼の意志によるものではないのね。待っていて、今私達が――)
 リカインが瞳を閉じようとした瞬間、彼女の目に――、ハインリヒの真実の表情の上に更に重なって、何かが映る。
 それはぞっとするような微笑みだった。
(あれがハインリヒ君を……!)
 リカインがもう一度目を大きく開く。と、その刹那、微笑みが数十に増え、リカインを取り囲むようにすら感じられた。
「――ッッ!!」
 違和感。
 という言葉では現す事が出来ない程の気味の悪さに、がくんと膝をついたリカインは、強烈な吐き気に襲われる。狐樹廊が破邪滅殺の札を放ったため、禍々しい気配は消えたが――。
「あれは……何!? 私は何を見たの?」
「…………沼」 
「……え?」
 声のした方に振り返ると、ベルクが呆けた表情で固まっていた。
「ディテクトエビルをした……、原因が探れればいいと…………」
 リカインがソウルビジュアライズを行使していた時、ベルクも害をなそうとする存在の居場所を感知するスキルを使用していたのだ。
「それで…………、見えた。
 樹に囲まれてて、草が浮いてる青い…………『沼』だ。
 此処じゃない。否、なんつったらいいんだ? 
 空京とか、シャンバラとか、そういう事じゃねぇんだよ。此処――じゃない。あれは何処だ? あの沼は、一体…………
 ハインツの心は、何処に連れてかれてんだ?」