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てんしが囁いた

 団子が積まれた小机の後ろではススキが揺れている。
 聴こえているのは菅野 葉月(すがの・はづき)の奏でる琵琶の、とつとつと揺蕩う音色。

 五条 武(ごじょう・たける)鈴倉 虚雲(すずくら・きょん)は、男二人、団子を挟んで座っていた。
 武は自ら持ち込んだ日本酒を、虚雲は葡萄ジュースをちびりちびりとやりながら。
 風に、虚雲の黒いコートの端が揺れた。
 武は傾けていた盃を小机の上に置いて。
「結局……まだ覚悟が定まってなかったんだよ、そりゃァ」
「……そうなんだろうか」
 虚雲が独り言のように零す方を見やりながら、武は日本酒の瓶に手を掛けた。
「はっきりとは伝えられなかったってのは、そういうことだ。腹ァ決め直して、今度はキッチリ伝わるまで何度でも気持ちブチ撒けて来い」
「……だが」
「怖いのか?」
 虚雲の視線が、つい、と武の方へ上がる。
「畳み掛けられてるような気分だ。絡み酒か?」
「酒呑んでる時ぐらいは絡ませろ」
 言って眉を傾げた武を前に、虚雲が小さく息をついた。
「そうだ……怖いんだよ。関係が壊れるのが」
 武は猪口に酒を注いでから、瓶を机の上にトンと置き、
「言えないまま相手と会えなくなっちまうってこともある。――言ってやれた筈の言葉が幾つあったかなんてのを肴にして酒を呷ンのは、つまんねェもんだぜ」
「会えなくなる、か。五条さんは――」
 虚雲がこちらを見やって言いかけた言葉を切るように、武はハッと笑み捨てて猪口を傾けた。
 視線が辿ったのは薄明かりの中で黄金色に揺れるススキ。
 ずっと、酒精でわずかに微睡んだ頭には、かつて共に冒険し、共に駆け回った女の金髪が浮かんでいた。そして、
「月を見上げりゃ、アイツの瞳を思い浮かべちまう」
 ――全くもって、俺らしくねェ。
 虚雲が少しの間を置いてから、
「会えない相手を想い続けるってのは、どんな気持ちなんだ?」
「……案外ヤボだな。絡み酒か? ジュースで」
 武は口端で笑んで見せた。
 眉端に指を置きながら、片目をゆったりと閉じる。
「元気にしてんなら、それで良い。こっちは肴にゃ困らねェ。だが――もう一度会えるってんなら、もうちったァ酒を美味く感じられるかもな」

 琵琶の音にススキの囁き――テディ・アルタヴィスタ(てでぃ・あるたう゛ぃすた)は、なんだかぼんやりと月を見上げている皆川 陽(みなかわ・よう)の横で団子をもふもふと食べ続けていた。
「って――ヨメ!! 団子食い過ぎるぞ、このやろう!」
 テディは、自分たちが腰を下ろしている赤布の敷かれた床を、すぱーんっと叩きながら陽に抗議した。
「さっきから、そうやってずっと、ぼけーーっと! 僕は構ってもらえないと団子を食べ過ぎて死んじゃう儚い生き物なんだぞ!」
 ぶーぶーと文句を垂れたテディの方を、陽がきょとんっとした様子で見やり、それから、申し訳なさそうに笑んだ。
「家族のことを思い出してて」
「家族?」
「日本に居た頃は家族でお月見をしたなぁ、って」
「ヨメの故郷にも同じ風習があったのか」
「うん。あ、もちろんこんな立派な感じじゃ全然なかったけどね。でも、中秋の名月の日には、いつもお団子が用意されてた。そういうの、当たり前だと思ってたんだよね。皆が一緒に居た。お父さんやお母さん、妹と、それから僕が小さいときに拾ってきたネコ……そうそう、ネコがお団子に手を出さないよう気をつけるのは僕の仕事で――……あまりにも当たり前すぎて、なんとも思ってなかった光景だったのになぁ……」
 陽が月に視線を返しながら、しんみりと零す。
 テディは、隙あらばじゃれ合おうと準備していた言葉を引っ込めて、片手に持っていた団子を静かに齧った。
 故郷や家族を懐かしむ、そういう気持ちは自分にも痛いほど分かるし……なにより、陽が故郷から離れるきっかけになったのは自分だった。
 月灯りに照らされた陽の横顔をそっと見やる。
(……後悔、してるだろうか)
 もし、そうだったらと考えるのは、とても怖いことだった。
 ひっそり溜息をつく。
「でも、僕だって家族が欲しいんだぞ……家族になれよー」
 思考の続きがうっかり小さな小さな呟きとなった。
 それが聞こえていたらしい。陽がこちらを見て小首をかしげ。
「うちの養子になりたいの?」
「いや、そーではなくて」
 肩をこけさせながら半眼で返し、テディは再び息をついて、陽に団子を渡した。
「ヨメも食べろよ。一人で食べるより、二人の方が美味い」
「うん」
 陽が受け取って、団子を齧りながらまた月を見上げる。
 テディは、何となく侘しい気持ちを誤魔化すように団子を口に放った。

 建物の端に設けられた縁側の端に腰掛け、隅の柱に背を預けていた氷室 カイ(ひむろ・かい)は、葉月が琵琶を弾く様を眺めていた。
 先ほどから薄く掛かっていた朧が晴れ、月灯りが明るさを増して、風に揺れるススキに落ちて影の波を描く。
 その中で、凛と琵琶を爪弾く葉月の姿。
 その音色を聞きながら、猪口に酒を足そうとカイは徳利の方へと手を伸ばした。スッと、徳利が雨宮 渚(あまみや・なぎさ)の手に取られる。
 隣に腰掛けていた渚が微笑んで、カイの猪口に酒を注ぐ。
 カイは徳利を渚の手から取り、彼女の猪口へと注いでやりながら、
「こんなにゆっくりとしているのは久しぶりだな」
「このところ忙しかったというか、騒がしかったというか」
 渚が、緩慢な動作で瞬きをしながら言う。
 カイは薄く笑んで徳利を置き、猪口の酒面に映り込んだ月を見やった。
「たまには、こういうのも悪くない」
「うん」
 渚がどこか曖昧な調子で相槌を返す。ふらり、と彼女の頭がかすかに傾き、髪先が揺れる。
 しばしの間、二人並んで、酒を舐めながら琵琶の音を聴いてた。
 と――カイの肩に渚の頭が触れる。
 見れば、彼女は空の猪口を両手でそっと持ったまま、瞼を落としていた。
 酔いが回ったらしい渚は、カイに寄りかかったまま眠っているようだった。
 
 思っていた以上に、照れくさいものだった。
 お酒に酔っ払ったふりをして彼に寄りかかるという行為は。
(……ちょっと、わざとらしかったかな?)
 少しドキドキとしながら、渚は眠ったふりを続けた。
 触れた箇所で感じる彼の体温。知っていたけれど、彼の身体はやはり逞しかった。
 それは単純に筋肉や骨格の感じだけじゃなくて……なんていうか、自身の身体を預けていられる不思議な安心感。
(――このまま本当に、眠ってしまいそう)
 酒精で微熱を持った瞼の向こうに琵琶が鳴っている。
 カイが静かに猪口を傾けている仕草が分かる。
 月の落とす柔らかな光。
(ああ……そっか)
 渚は、ゆらゆらと微睡んでいく意識の中で、なんとなく気づいたような気がした。
 これが安らぎというものなのだろう、と。

 最後の一音が、風に溶けるような余韻を残して途切れた。
「お粗末様でした」
 菅野 葉月(すがの・はづき)が頭を下げると、武たちやカイ、陽たちといった、そこ此処で演奏を聴いていた者から感謝の篭った静かな拍手が起こる。
 葉月が琵琶を弾く様と音にうっとりとしていたミーナ・コーミア(みーな・こーみあ)は、そこで、はっと我を取り戻した。
 周囲へ礼を返して琵琶を手に戻ってくる葉月へ駆け寄り、
「すっごく良かったよ、葉月。あのね、うまく言えないんだけど、なんていうか、すぅーっと心地良くて、景色が透明な感じがして」
「ありがとうございます、ミーナ。君が熱心に聴いてくれているのが分かって、僕はそれがとても嬉しかった」
 賞賛していたら、逆に褒められて感謝されてしまった。
 ミーナが思わず照れ照れとしている内に葉月が周囲を軽く見回して、
「さて、出遅れてしまい申し訳ありませんが――ミーナはどこに行きたいですか? 何か見たいものや、食べに行きたいものは?」
「え……」
 一瞬、ミーナの頭を、ここに来るまでに見かけた美味しそうな食べ物や楽しそうなイベント事が駆け巡ったが、ミーナはそこをぐっと少し堪えた。
「ううん、大丈夫、かな。だって葉月はさ、こう、静かにお月見したいんじゃない?」
 言ったミーナの顔を見ていた葉月が、くすりと可笑しそうに笑う。
「遠慮なんてしなくていいですよ」
「でも……」
「僕は君が楽しんでいる姿を見たいんです。いつものように」
 その言葉にミーナはパァと顔を輝かせた。
「あのねっ、あっちの方で恋のおまじないが出来るみたいなの! ガーデンパーティーも観に行きたいし、そういえば葡萄ジュースがすっごく美味しいって! あ、でも、その前にお団子! 早くしないと、ほら、あそこに居る大食いなヤツに全部食べられちゃう! 一緒に食べよ!」
 素直な衝動に従ってミーナは葉月の手を引っ張った。
 今日、ここで葉月と一緒に食べたいものや見たいもの、やりたいことが山ほどあって、それが次から次に浮かんで止まない。
 そんなミーナに手を引かれながら、葉月は幸せそうに微笑んでいた。


 建物の裏手の薔薇園――
 璃宇は、嬉しそうだった。
 軽く着崩した浴衣姿の紅 射月(くれない・いつき)の横を歩いている。射月に誘われ、共にこうして月と薔薇の風景を行くことを璃宇は無邪気に喜んでいるように見えた。
 射月は立ち止まった。璃宇が気づいて、振り返る。射月は微笑を浮かべ、
「何故、僕が今日あなたを誘ったのだと思いますか?」
「紅様……?」
「誰でも、良かったのですよ。僕は貴方の好意を利用した。せめて誰かと……”彼”とは違う誰かと共に居れば、心紛れるかと――最低だ」
 己の微笑がわずかに崩れたのが分かる。璃宇の表情から笑みが失われていく。それは分かっていたことだった。それも、これも、分かっていながら、こんな風に自分は……
「幻滅したでしょう? 傷は浅いほうがいい……もう会うのはやめましょう。僕といても璃宇さんは幸せになれない」
 気持ちは、重力に引きずられて深く暗いところへ落ちたまま。そこは余りにも暗くて、重く混沌としていて、とても気持ちが悪かった。
 拭い切れ無い吐き気と鈍重な混乱が頭と胸の中にあった。それが、ずるりと肥大していく。
 そして、惹かれるように。
 射月は薔薇の茎へと手を伸ばしていた。
 茎を握った掌へ幾つもの棘が突き刺さり、痛みが熱を持って脈を打つ。
 引き抜いたそれを喉元へ――
「別に良いんだ、それでも」
 射月の手を、璃宇が両手で止めていた。
 微笑んで。
「璃宇は紅様と一緒なら、それでいいの」
 璃宇はゆっくりと俯き、薔薇の棘を持つ射月の手をかかえ込むように抱いた。
 璃宇が短く息を漏らし、ポツ、と射月の指先に伝う熱い血の感触。
 射月は体を震わせた。酷く怯えた。また己のせいで、身近な者が傷ついた。
「……何故……」
 咎めるように言ってしまう。それは、璃宇だけに向けた言葉では無かった。自分は、もう誰も傷ついてほしくないと思っていたはずなのに。
 再び顔を上げた璃宇は、その首に幾つもの赤を持ちながら、未だ健気に微笑んでいた。
「紅様に傷ついて欲しくない――その想いは虚雲君も璃宇も同じだよ。それに……俺を幸せにしなくたっていい」
 璃宇の両手が伸びて、射月の頭を、ぐっと抱き寄せた。
「璃宇が紅様を幸せにするんだから!」
 光が射した気がした。
 己が堕ちていた重い暗闇の中に射す細い一線。
 璃宇が首の痛みのためか少し苦しげに呼気を取ってから、緩やかに歌い始める。
 その歌声を聴きながら、射月は璃宇の身体を抱き返していた。
 二人の足元に落ちていた紅薔薇が、再び朧掛かった月の加減にか、蒼く色を変えたように見えた。
 蒼薔薇の花言葉は――