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彼氏彼女の作り方 最終日

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彼氏彼女の作り方 最終日

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プロローグ


 花々の甘い香りを運んでいた風が、水を含んだ草の香りに変わる頃。空京には一風変わった喫茶店がオープンするとの告知が賑わっていた。
 その企画書を受け取ったルドルフ・メンデルスゾーン(るどるふ・めんでるすぞーん)は、意外性に飛んだ結果に暫し呆然と書類を眺め、文字の羅列が読み違いでないことを確認する。
「……異性装の、喫茶店? 一体、あれから何があったんだい」
 彼の代わりに蒼空学園へと向かい手解きをしてきた真城 直(ましろ・すなお)も、予想外の結果だったのか手短に理由を説明する姿は苦笑混じり。受講生の意見を取り入れて進行してきたとは言え、予定していた店の形態が大きく異なってしまえば笑うしかないのだろう。
「ことの発端は、僕がみんなに判断を委ねたことにある」
 元々、何か面白い企画を提供してほしいと貸し店舗の主人から相談があったこと。受講生の学びたい分野を、自分の都合の良いように解釈して誘導してしまったこと。
 もちろん最初に断りを入れたとは言え、最終的には異性装の喫茶店となってしまい受講生自体も戸惑ったことだろう。本来であれば、度々男装してまで女性が忍び込むという薔薇の学舎にある喫茶室をイメージした店にするつもりが、正統派喫茶店でもなくホストクラブになるでもなく……この店の需要は、誰にも予想が出来ない方向へ進んでしまった。
「あの頃は忙しかった君も、今は落ち着いているんだろ? 彼らがどう成長したのか見に来てほしいんだ」
「確かに最初は僕宛てに来ていた依頼だ。結果を見届ける必要はあるか……」
 男子校である薔薇の学舎としては、エリート校の名に恥じぬ行動をしてもらわなければならない。だが校長であるジェイダス・観世院(じぇいだす・かんぜいん)が女形などの芸術に理解があるため、我が校の生徒が女装をしても問題は無いことは確かだ。他校の罰則などは知らないが、強制せず本人の意思を尊重する企画であれば問題ないだろう。
 それに、見るだけであれば自分に火の粉がかかることもないだろうと、どこか審査する立場で関わることに安堵感を覚えつつ、ルドルフは企画書にペンを走らせた。
 こうして、正式に成果発表会は異性装の喫茶店を執り行うことになったのだが――。


「どうして受講生でもない俺たちが女装をしなければならないんだっ!」
 この企画を聞いて声を荒げるのはエリオ・アルファイ(えりお・あるふぁい)。健全な男子高生としては最もな反応で、喜んで女装を受け入れる人のほうが稀だろう。反対意見が出ることを覚悟で、直はルドルフがサインをした企画書を再度彼の前に提示する。
「さっきも説明した通り、今回の企画は異色なんだ。客数が読めない以上、不測の事態に備えて人手を増やす必要がある」
「それなら女装に抵抗の無い他の生徒をあたっても問題ないだろう? 俺たちである必要はなんだ!」
 本人の意思を尊重するとは言え、ラドゥ・イシュトヴァーン(らどぅ・いしゅとう゛ぁーん)によって連れられて来たことには意味があるはず。2人を睨むように反発するエリオに、フェンリル・ランドール(ふぇんりる・らんどーる)もまた戸惑いながらラドゥを見た。
「……ジェイダスからの命令だと言えば納得するのか? 異性装の似合う者にはさせよとのお達しだとしたら?」
 口元を歪めてウェルチ・ダムデュラック(うぇるち・だむでゅらっく)を見るラドゥの視線は、明らかに別の意図を含んでいる。人手が足りないと訴える直とは違う意見に、フェンリルは冷静にラドゥと対峙するウェルチの肩を叩いた。
「似合う者が異性装を着るのは美しさの観点からだろう。良かったじゃないか、校長から認められて」
「ランディ……」
「だが、人手が足りないという理由もあるなら誰が着ても同じはず。……俺が着ても問題ないな?」
 自ら進んで女装がしたいと言う男子は少ない。それも、普段から少女趣味であるなどという噂も聞かず、硬派に見える少年であれば尚更だ。猛反発していたエリオが驚いて見返しているのにも構わずに、フェンリルはじっとラドゥを見据える。
「フンっ、どうでも良い。当日は私もジェイダスと共に向かう、あまり見苦しいものは見たくないものだな」
 あくまでこれは、ジェイダスが行く気にしている店を機能させるため。店の人手が足りず困ろうが、女装が特別似合う者がいようがラドゥには関係無いし興味もない。ただ、ジェイダスが行きたいと言うので動いただけだ。
 言い捨てるようにして去って行くラドゥに頭を下げつつ、ヴィスタ・ユド・ベルニオス(う゛ぃすた・ゆどべるにおす)はスケジュールを片手に集まっているメンバーへ声をかける。オープンに向けての内装工事も衣装の発注も行われている以上、逃げることは出来ないのだからせめてモデルくらいは協力しろとエリオにフェンリル、そして流れで直も女装することになりチラシの撮影に応じることとなった。
 生徒たちで作り上げる喫茶店は、どのような評価をもらうのか。様々な不安を抱えながら迎えた当日の朝は、慌ただしく始まった。



すぎるトキとかさねあうトキ


 朝早く包みや消耗品などの資材を運び入れた準備室を訪れたのは、沢山の花を運び込むリュース・ティアーレ(りゅーす・てぃあーれ)。今回使用するプリザーブドフラワーは水をやる必要もなく手軽に生花を長く楽しめるが、それは受け取る立場の場合。作る側は専用の液で半日以上漬けたりと手間がかかり、壊れやすいので取り扱いも難しい。状況別に渡せるようにとリュース側で数種類用意し、リクエストのあった花も用意した。
「さーて、荷物も運び込んだしいっちょやりますか!」
 制服の袖を捲り気合いの入る七枷 陣(ななかせ・じん)へ手順を書いたメモを渡しながら注意する。
「陣くん、花は薬液を含んで壊れやすくなっています。くれぐれも取り扱いには注意してください。そもそも、花は荷物ではありません。今回選ばれたのも花言葉として気持ちを表すことが出来るからであって、荷物呼ばわりは心を蔑ろに――」
「だぁーっ!! わかった、すまんかった! 大切に扱うから早う作業に入ろ、時間ないんやろ? な?」
 丁寧に扱って欲しくて注意をしたつもりが、注意をする範囲を広げ過ぎたかもしれない。この件についてはおいおい陣に説明するとして、リュースは集まった顔ぶれを見る。シーナ・アマング(しーな・あまんぐ)には恋人同士用の赤い薔薇を、ブルックス・アマング(ぶるっくす・あまんぐ)には友愛のシーンに活躍するであろうオレンジの薔薇をそれぞれ脱色液で余分な着色液を落としてもらうこと。自分は難しいガーベラとハナミズキ、そして失敗出来ない注文の品の同じ作業に当たることにし、続いて陣たちのグループが担当することになる。
 陣とパートナーのリーズ・ディライド(りーず・でぃらいど)小尾田 真奈(おびた・まな)の3人で行うのは乾燥作業。しかし、花屋を営むリュースと違い全くの初心者である3人は、乾燥をお願いしますと言われてもいまいちピンとこなかった。ドライヤーにうちわと色々道具を持って来たものの、壊れやすいと聞けば自然乾燥のほうが良いのだろうかと迷ってしまう。
「ま、やってみんことにはな……どれ、そんじゃ1つ洗い終わったんを」
「陣さんお願いします! オレンジの薔薇ってね、希望とか信頼とか爽やかって意味があるんだって!」
 ニコニコと微笑むブルックスは、初めて聞いた花言葉を得意げに話して矢車菊の花びらを揺らす。それは初挑戦の仕事をする前には幸先の良い言葉で、彼女の信頼に応えしっかりと乾燥作業をさせようと気合いが入ってしまった。
「うおぅっ……まじかふぁっく」
 プリザーブドフラワーとは、摘みたての新鮮な生花をまずアルコール主体の薬液に浸けて脱色し、そこからさらに着色液へと漬け込む。そして再び脱色液にて余分な着色液を落とすのだから、通常の生花よりも脆くなっているのは当然のことだ。
「陣くんダメだよー。お花はもっと優しく扱わなきゃ」
「大丈夫ですよ、まだたくさんありますから。それよりもリーズさん、そのうちわってまさか乾燥のために……?」
「うん、そうだよっ! ドライヤーよりもお花に優しそうでしょ? ボクは陣くんとは違うからシーナさんは安心してね!」
 ドーンと小さな胸をはるリーズのもみあげを陣が引っ張り口喧嘩がはじまる。テキパキと作業を続けるリュースを見るに日常的なことなのかもしれないが、少ない時間で仕上げなければならないのにとシーナはオロオロ2人を見やる。
 そこへ、一時的に退室していた真奈が手を叩き喧嘩を仲裁させた。
「キッチンへの交渉は終わりました。ご主人様もリーズ様も、早く準備をなさってください」
「え、キッチン? なんでまたそんなとこに……」
「リュース様から頂いたメモに食洗機やレンジでの乾燥をとあります。自然乾燥を待っていたら、いつまでたっても終わりませんよ?」
 こうして、無事に力加減などに困惑することなく乾燥させる方法を入手できた陣たちは、適度な脱色の終わったものを順次キッチンへと運び込んだ。こまめに様子をみてコツが掴めてくると談笑する余裕も出来、リボンを結ぶ頃にはすっかり気も緩んできていた。
「よーやっと形になってきたか」
 始めは着色液にたっぷりと浸かり茎まで妙な色をしていた花が、シーナとブルックスの2人が濃すぎず落としすぎずの按配で脱色してくれたおかげで綺麗な発色となった。さすがに来客用のプレゼントとあって数が多かったため、疲れが見えたのか普段からリュースの店を手伝う2人も数個失敗してしまったようだが、それでも十分な量を作ることが出来た。
 あとは、このリボンがけを終わらせれば6人の仕事は終わり。見知った顔が多ければ、それこそ楽しく作業は進む。
「ハナミズキは『私の想いを受けてください』って意味があるんだよね? いーよねぇ、ステキだなっ」
「うんっ、真紅の薔薇は『熱愛』だって! お花に意味があるって面白いよね、喜んでくれるかなぁ……」
 静かにリボンを切り分ける真奈も、会話に加わらないものの静かにリーズたちの話に耳を傾ける。大切な人と寄り添える幸せは、教えてあげたくとも手に入れた者にしかわからない。どうか訪れる多くの人に、そんな幸せを得る切っ掛けを与えることが出来ればと願いをこめて作業を続ける。
 ――コンコンコンコンッ
 行儀の良い4回のノック。スタッフが花を受け取りに来たのだろうかとリュースが返事をすると、入ってきたのは椎名 真(しいな・まこと)だった。
「プレゼントの中身は出来上がってきてるから、包みを受け取りに来たんだけど……凄いね、それがプリザーブドフラワー?」
「まだ全部は出来てないけど、あとはリボンをかけるだけだから開店には間に合うと思うよ」
 包装紙の類を探す真の手助けをしながらそう言えば、順調に進んでいることを喜ぶように頬を緩める。しかし、真の格好はいつもの執事服のままだ。
「今日はメイド服を着るんだろ? 早く着替えないとサイズなくならないか」
「いや、まあ……着るつもりではいるんだけど、ね」
 なんとも歯切れの悪い返答をしながら去る親友を見送りながら、リュースは席へと戻る。思い出したようにシーナも手を止め、大事な人を思い浮かべた。
(……そういえば、随分嫌がってたみたいだけど、結局着たのかな?)
 想像してはクスクスと笑みを零し、赤い薔薇をたくさん手に持ったリーズにからかわれる。ニコニコと見守るブルックスと真奈に他愛ない話をするリュースと陣。作業は友人の語らいをしながらでも、順調に進んでいるようだ。



きれいのまほう


 来店プレゼントの花の準備にお菓子の準備、それからもちろんメニューの下拵え。役割分担は人それぞれで、到着時間もまちまち。
 そんな中、緋桜 遙遠(ひざくら・ようえん)は少し早めに訪れて更衣室で女性サイズのメイド服を探す。もちろん、普段の自分ならこんな小さな服は入らないし、今日は紫桜 遥遠(しざくら・ようえん)は男装をする予定なので着ることはない。手にしたメイド服と遥遠を見比べ、イメージを鮮明に持って念じると強い光が遙遠の足下を包みゆっくりと上ってくる。
 小さな足では大きな上体を支えることが出来ずに一瞬よろめくも、何度も使い慣れた技だけに遙遠はメイド服を抱き締めるようにしてバランスを整えた。
「……っと。これくらいでしょうか?」
 遥遠に少しでも似るように、背丈を同じくらいにしてみた。ただ、背の高い遙遠が160強まで背を下げるにはちぎのたくらみを使ってもかなり子供にならなければならず、10歳ほど若くなった彼の頬を遥遠は遠慮せずにつまんだ。
「少し若すぎはしませんか? そういう技ですから仕方ありませんけど……でも、肩幅は大きくなっちゃいましたね」
 丁度、少年から青年に向けて成長し始める頃だろうか。顔はあどけないのに節々はやっぱり男の子になってきていて、背格好が似ているからこそ些細な違いが目立ってしまう。
「まあ、メイクや詰め物をすればどうにかなるでしょう。少しスポーツをする女の子といったところでしょうか?」
 頬を擦りつつ、ちらりと遥遠の胸に視線を落とす。姿を似せて女装すると言ったからには、そこのボリュームも似せる必要がある。だからと言ってサイズを聞くのもなんだし、よもや触って確認するなど言語道断。なんとかサイズがわからないものかと見つめ続ける遙遠の視線に耐えかねて、遥遠がブラウスのボタンをぎゅっと掴む。
「……遙遠なら、実際に触って確認して貰ってもいいですよ? ほら、詰物の量とかも調整しないとですし」
「いや、さすがにそれは――」
「あんまり大きい物ではないですけど、その……出来れば優しくお願いしますね?」
 恥ずかしそうに微笑む彼女を前に、行くべきか気を遣うべきか苦悩する。
(ここは更衣室だ、いつ誰が入ってくるともわからない場所でそんなこと……)
 ――今は子供の姿にゃ、お姉ちゃんに甘える弟で済まされるにゃ。
(覚悟を決めて言ってくれてるんでしょうが、やはりそういうことはもっとこう、そういう場所でないと)
 ――彼女の覚悟を無駄にする気かにゃ! 逃げれば恥をかかすだけにゃ!
「で、では失礼して――……にゃ?」
 自身の葛藤ではなく、明らかに悪魔の囁きが聞こえた。ふとロッカーの上を見れば、目のあったにゃんくま 仮面(にゃんくま・かめん)がピッと尻尾を立てた。
「きゃああっ!?」
 突如頭上から顔を出した大きな生き物に遥遠が悲鳴を上げ、守るように遙遠が覆い被さる。その間ににゃんくまは飛び降り逃げるが、表からもバタバタと走ってくる音がする。
「大丈夫ですかっ!? 今、凄い声が……して、その……っ」
 勢いよく飛び込んできた双葉 京子(ふたば・きょうこ)は、目の前の光景に頬を赤らめる。いつもの身長差なら覆い被されていたのかもしれないが、同じ身長まで小さくなった遙遠には遥遠をロッカーに押しつけることしか出来ない。言い訳をしようにも、原因のにゃんくまは京子の隣とすり抜けて走り去ってしまったし、遙遠は大きくなった服のおかげでなんだかはだけている。
「――お邪魔しましたっ!!」
 盛大に勘違いされてしまった2人は照れくさそうに笑いあい、手早く着替えを済ませて誤解をときに向かおうとする。
 しかし、ぴったり遥遠サイズの胸に仕上げることの出来た遙遠は、それすらも恥ずかしいことなのかもしれない。

 の元まで逃げてきた京子はと言えば、走ってきたせいか先程の光景が頭を離れないのか、冷めない頬の赤味を誤魔化すように深呼吸してみせた。
「どうしたの、そんなに慌てて。何かあったにしては静かだけど……」
「えっ!? えへへ、この格好、動きやすくってはしゃぎすぎじゃった、かな?」
 更衣室から遠くはなれた和をモチーフにしたこの場所までは、先程の騒動は聞こえなかったのだろう。説明するのも憚られて、引きつった笑みを浮かべながら苦しい言い訳をしてみる。しかし、もともと鈍いところのある真には、以前も乗り気だったようだし余程男装出来るのが嬉しいのだろうと納得してしまう。
「いやー、しかし参ったな……」
 襖を開けて姿を現した原田 左之助(はらだ・さのすけ)は、なんとも言えない表情でどっかりと座り込む。よくよく見て見れば、真も佐之助も着替えを済まさず来たときのままだ。
「どうしたの2人とも。とくに、さのにぃなんて着替えに時間がかかるんじゃないの?」
「あのなあ……京子は似合うかもしれねぇが、俺も真もこんなガタイで似合うわけないだろ?」
 それはもう、色とりどりの立派な刺繍が入った着物が用意されていた。振り袖から訪問着に袴、少し肌寒そうだが浴衣までよく揃えたものだと言いたいくらい。しかし、それを取っていくのは少年ばかり。
(これじゃあ、猫耳とかはつけてくれないのかなー……)
「な、なに?」
「ううん、ちょっと残念だなーって。こんな機会、またと無さそうだし」
「そりゃあ、スカート履く機会なんて早々ないと思うけど……って、あの人は!?」
 スカートを履くのかどうか。そもそも、まともに服を着てくれるのか?
 京子を背中に庇いながらキョロキョロと辺りを見回すと、得意げな高笑いが聞こえてきた。
「はっはっは、皆恥ずかしがっているな? ならば俺様が真城様の手伝いとして見本を見せてやろう!」
 いつもの赤い羽根マスクを輝かせ、変熊 仮面(へんくま・かめん)はミニスカメイド服で現れた。そう、方針としては男子はクラシカルメイド服と決まったはずだが、マント1枚がデフォルトの彼がミニスカであろうとなんであろうと服を着ている!
 反射的に目を覆っていた京子も、ずっと彼を警戒していた真も、この変貌ぶりには驚いた。
「良かった、服を着られるんですね! 良かった、本当に良かった……」
「今日は一般のお客様も見えられるからな。きっちりサービスしないといけないだろう?」
「……サービス?」
 任せておけといわんばかりに親指を立て、フロアの準備に向かう変熊。残された3人は、果てしなく不安にかられたのは言うまでもない。そのため息は、遙遠たちがいなくなった更衣室の前にいるヴィナ・アーダベルト(びな・あーだべると)のものと重なった。
「どーしても、ダメ?」
 自分が望まなくとも投票の結果とあれば、今日は異性装を着なければならないと腹をくくったヴィナ。しかし、自分が着るならばどうしてもルドルフにもメイド服に袖を通してもらおうと思ったのだが。
「今回の僕は監督者であり客だ。接客をする責務はなく、皆の成長を見定める位置にいる……君の申し出は受け入れられないよ」
「なーんだ。せっかくルドルフさんが来るって言うから2人で接客出来ると思って楽しみにしてたのに」
「それは残念だ。専属メイドとして珈琲をオーダーしようと思っていたんだけどね。君が淹れてくれるんだろう、ヴィーナスちゃん?」
 クスクスと笑うルドルフに唇を噛むも、それも悪くはない。しかし、インスタントではない珈琲を1から、それも1人で淹れることは出来るだろうか。まさか出来ないと言うわけにもいかず、格好悪いところを見せたくなくてつい強気に出てしまう。
「わかったよ。それじゃあ俺の珈琲に満足してくれたなら、せめて記念撮影ね」
「ふふ、楽しみにしてるよ」
 次の場所へ確認に向かったルドルフを見やり、ヴィナは昨夜作ってきたお菓子の包みを取り出す。ビターチョコがかかったオランジェットは、甘い物が苦手なルドルフのために用意したもので、朝からキッチンに迷惑をかけまいと何度も失敗しながら事前に作ってきた。これに合う珈琲を出してやろうとキッチンにいるメンバーに手順を確認に向かうが、それはルドルフの思惑通りだった。
 数々の家庭科に関する不祥事を直から聞いていたルドルフは、まかり間違っても手伝いなどすることのないように専属としたのだ。
 これで、破損や被害は最小限に抑えられる――そんな思惑は、知らない方が幸せなのかもしれない。