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春をはじめよう。

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春をはじめよう。

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●このうららかな春の日だまりのように

 空京神社の空には雲ひとつなく、気持ちの良い青が果てしなくひろがっていた。
 蓮見 朱里(はすみ・しゅり)アイン・ブラウ(あいん・ぶらう)の夫婦は、揃って着物姿だ。朱里の腕には、やわらかく、小さく、そしてなにものにも代え難い人が抱かれている。娘のユノだ。
 好天に恵まれたこの日、三人はお宮参りをしているのである。ちょうど、ユノの誕生から百日というのも良い機会だ。
 お宮参りは、生後一カ月前後に行くものとされている。しかしそれは厳密なきまりというわけではない。とりわけ最近は、生後何日というものにこだわらず、気候や赤ちゃんの体調に合わせることがむしろ推奨されているのだ。今年の冬は大雪の日が多かったので、朱里たちは大事を取って春を待つことにしたのだった。
 なにより大切なのは、子を想う両親の気持ちだ。そういう意味では、ユノはこれ以上なく恵まれているといっていいだろう。
 桜が咲いている。神社の本殿を取り囲むように一面に咲いている。
「見える? 桜の花が咲いているね。きれいだね」
 朱里はユノの身をやや起こす状態にしてこの光景を見せ、話しかけているが、それが理解できているのかいないのか、ユノはくりっと丸い目で、たくさんの『はじめて』を黙って眺めている。生まれてはじめて見る桜は、ユノの瞳にどんな風に映っているのだろう。
「ユノは、好奇心旺盛なのだと思う。なぜって、はじめてのものを観察するときはいつも、黙って集中するのだから。賢い証拠かな……親ばかかもしれないが」
 アインの顔がほころんでいた。ふっ、とユノの口元に笑いが浮かんだからだ。褒められたとわかったのだろうか、ただの偶然かもしれないが、嬉しい。
「抱かせてくれないか?」
 朱里からユノを受け取り、アインは優しく彼女をかかえた。赤ちゃん特有のいい匂いがした。
 一時期、父に抱かれるとぐずることもあったユノだったが、根気強くアインがなだめ話しかけることを繰り返したおかげで、ここ一週間ほどはアインの腕にあっても落ち着いてくれるようになった。
 それにしても、なんと赤ちゃんとは軽いものか。
 この子が成長し、いつか朱里ほどになるなんて、アインはにわかには信じられないのだ。
(「本来ならば両親の親……つまり、ユノから見れば祖父母が宮参りには付き添うものなのだそうだが、朱里は早くに両親を亡くし、機晶姫の自分にはもとより親はない」)
 すまない、と彼は頭の中で謝罪した。
 だからその分自分が、朱里が無理をしないようにしっかりと支えてやらなくては。
 石畳を歩み、石の階段を昇った。
 壮麗な本殿の前で立ち止まる。
 アインと朱里がともに春を迎えるのはこれが三度目、けれど、春がめぐるたびにその関係は変化していた。
 最初の年は、契約者として。
 二度目の季節は、夫婦として。
 そして今年は、家族として春を迎えたのである。
 面白いものでそのたびに、春の光景も変化しているように彼には思えた。見え方、感じ方が異なっているというべきか。しかしそれはいずれも望ましい変化であった。
(「時と共に季節は移ろい、二人の関係も、それを取り巻く景色も変わる……か。同じ日は二度となく、それ故に過ぎゆく日々は尊い」)
 賽銭を投げ込み、合掌して彼は誓う。
(「この大切な日々を忘れることのないように、妻と、娘と、一つ一つ胸に刻んでゆこう」)
 アインに抱かれるユノの両手を、そっと合掌させて朱里は笑った。やわらかくてぷにぷにしている手だ。母親に触られて嬉しかったのか、赤ん坊は「あー」と小さな声を上げた。
「お参りはこれで完了。ユノ、どんな気分かな?」
 来た道を戻りつつ、朱里はごく自然に、夫の腕に自分の両腕を預けていた。
「悪い気はしなかったのではないかな。一度もぐずらなかった」
「だとしたら嬉しいな……」
 次はショッピングモール『ポートシャングリラ』に向かう予定だ。
「もう少ししたら離乳食も始まる頃だね。ポートシャングリラなら大抵のものは揃うから、しっかり買って帰ろう」
「とすると、いずれ歯も生え始めるということか」
「あと三ヶ月くらいが標準らしいけどね。でも、あっという間に感じるというよ。首がすわるようになって、はいはいしたり、つかまり立ちから歩き始めたり、言葉を覚えたり……そんな風に、日に日に少しずつ変化しながら、成長してゆくんだね」
「そうだな。毎日、着実にユノが育っていくのがわかるよ」
「あれ? もうおネム?」
 朱里はユノが、いつの間にか目を閉じていることに気づいた。小さいながら「くー」なんて寝息まで立て始める。
 二人は顔を見合わせ笑いあった。起こさないように、声を出すのは控えたけれど。
 面白い、赤ちゃんの育っていくさまを間近で見るというのは、こんなにも面白い。
 ついさっき、手を合わせて熱心に祈ったことを、改めて朱里は願うのだった。
 ――このうららかな春の日だまりのように、この子の未来に明るい笑顔が絶えませんように。