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春をはじめよう。

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春をはじめよう。

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●春模様。

 春眠暁を覚えずと言うが、ふて寝であってもやはり『暁を覚えず』なのだろうか。
「あー……やるきでにゃー」
 外の光はとっくに起きる時間だと告げているのだが、伏見 明子(ふしみ・めいこ)は今、全然そんな気持ちになれないのである。まぶしいのでがばっと布団を頭から被り、ぬくぬくとしたまどろみへと逃げ込んだ。
 やる気、出ない。
 春なのにやる気が出ない。
 なんだかまるで、寝ているうちに置いて行かれた気持ち。
(「奴らと来たら逃がしたらはいさよーならで私の見てないところで全部話を終わらせちゃってさ」)
 クランジΘは、魍魎島の戦いで死んだと聞いた。
 味方に裏切られ(といってもそもそも原因は、彼女が味方を騙していたからだそうだが)、銃で撃たれたあげく自爆したのだと。
 ずっと人を小馬鹿にしたような態度だったシータ。
「私たちは改心したり、恩義を感じたりするような人種ではないよ」
 と、のうのうと言ってのけた彼女。
 けれどすべて、その言葉通りだったとは思えない。シータなりにその言葉に、なんらかの意思を隠していたはずだ。でなければあれほど話しかけてこなかっただろう。
 また、伝え聞いた話なのでどこまで真実かわからないが、上陸したシータは、「他にも会いたい人はいたのだが」といった主旨の言葉を口にしたらしい。そこに明子が含まれていたかもしれない。
 しかし今となってはいずれも同じだ。もう、彼女の真意を知ることは明子にはできない。
(「……いいやもう。暫く家からでにゃい。ふんだ」)
 頭に来る、まったく。
 やる気がなくなる、本当に。
 死んだらもう、叱ってやることもケンカすることも握手することもできないんだから。

 近所の公園に引っ張りだすだけでも骨が折れた。
 それほどに、シュリュズベリィ著 『手記』(しゅりゅずべりぃちょ・しゅき)は塞いでいたのだった。
「良い天気ですねぇ」
 と、ラムズ・シュリュズベリィ(らむず・しゅりゅずべりぃ)が話しかけても、せいぜい聞こえるか聞こえないかの生返事くらいしか返ってこない。
 二人並んでベンチに腰を下ろす。
 手記は青い空を見つめていた。
 しかし手記の見る空には升目が引かれている。そこでは、白と黒に塗り分けられたチェスの駒が攻防というダンスを繰り返していた。
(「あと……あと数手で、シータを救えた」)
 魍魎島でシータと行ったチェスを、手記は回想しているのだ。
 あの日、互いの脳内にチェスボードを置いたゲーム、三戦目は絶好の流れだった。ラムズと血を吐くほどシミュレートして、ついに編み出したスティールメイト(引き分け)への棋譜、それに一番近いものだった。まだ序盤のうちに試合は中断したが、シータの性格や癖、とりわけ、クラシックな名手を好むところからすれば、期待通りの結末に持ち込めた公算が高い。あと数手、差す時間があればシータもそれに気づいただろう。
 いやむしろ、初戦、二戦目でもこの展開に持って行けたはずだ。とりわけ、シータがこちらの技量をあなどっている最初のゲームであれば可能だった。
(「あの速さだったら十分、否、数分でかたを付けることができたはずじゃった。何故時間を無碍にした、何故直にでも捕まえなかった、何故リザインなどした!! 何故何故何故……っ!」)
 結局、塔に駆けつけた手記がラムズと目撃したのは、シータの爆発する光と熱だ。
 彼女を救うことはおろか、最期の言葉すら聞けていない。
 悔しくて絶望して、手記は頭を抱えた。あの日の翌日からずっと、繰り返してきたことなのだけれど。
 ラムズには、手記の心に立ち入るつもりはなかった。けれど、独り言のようにこう言わざるを得なかった。
「正直な所、私は貴方のことを知りません。ただ同居してる身として、いつまでもそう辛気臭い空気を纏われると此方まで気が滅入ってしまいます。どうです? 少しは気分も……」
「ラムズ……もう良い」
 手記は手(触手だが)を左右に振った。
「もう……良い。我は帰る」
 暗い表情のまま手記は答えた。立って歩き出そうとする。
 ラムズは困った顔をして、その眼前に回り込んだ。
「辛気臭いまま帰られると、此方が迷惑なんですが……えぇ、それは分かりませんね。はぁ……手記、貴方は桜吹雪を見て、花弁一つ一つに涙を流しますか?」
「一緒にするな」
「そうはおっしゃいますが、しかし私はその彼女を知らない。知らない者が死んだと言われて涙を流せるのは、聖人か詐欺師です」
「ラムズの問題ではない。これは、我が勝手に落ち込んでいるだけじゃ。放っておいてくれんか」
 ぷいと横を向き、ラムズを避けて歩き出そうとした手記を、彼は止めた。
「……いい加減にしてくれ、手記」
 これまでにない、強い口調だった。
「喪に服すのは構わない。過去を引き摺りたいなら引き摺れ。だが限度を知れ。
 お前は一生その死体を引き摺り回す気か?
 心の中で位、生かそうとは思わないのか?
 俺のような欠陥品とは違う、中身の詰まった頭は飾りか?
 それじゃあ救えなくて当然だ……お前も彼女も」
 手記は、唇を噛んだ。なにか言おうとするも言葉が出ない様子で下を向いたままだった。
 はっとなってラムズは強張った表情を改めた。手記を傷つけるのが本意ではないのだ。
「……すみません、言い過ぎましたね」
「言いたいことは、わかっておる……。だが、時間がかかるのじゃよ。時間が……。判ってくれとは言わんが……」
「時間……ですか?」
 ラムズは、安堵の吐息を漏らした。そして、手記が今日、はじめてまともに口を利いてくれたことを嬉しくも思った。なので普段以上にとぼけた口調で、
「んー……まぁ、少し位なら我慢しましょう」
 と言って、頬をぽりぽりとかいた。