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リアクション
●Prologue
老人の繰り言のような雨が、潜水艦の隔壁色した空から降り注いでいた。
どっと降るわけでもないが、止む気配とてない。なんとも収まりの悪い雨だ。
だがそんなものを気にする者はここにいない。構っている暇がない。
1946年夏。渋谷。闇市。
誰もが、生きることに必死だった。
時刻は正午すぎ、空が厚い雲に覆われていようが、太陽が地上に降り立ったよりも市は賑わっている。
雨の匂いに入り交じり、鼻を刺すような強烈な臭気が漂っていた。野犬の死体でも腐っているのだろうか。薄汚れた人々の体臭だろうか。
悪態か売り口上か判らないものを、大声でわめく物売りがいる。針鼠のように背を丸め、こそこそと煙草の吸い殻を拾い集める男がいる。米と野菜を袋詰めにして、銀の皿のような目で周囲を窺い歩く中年の女がいる。どう見ても盗品の革靴を熱心に売り込んでいる老婆は、その腰の巾着をするりと抜き取られたことに気がついていない。かと思えば道ばたで、サイコロ賭博に興じている一群もある。いま、ちょうどサイを手にしているのはまだ中学生くらいの少年だ。非番なのか、着崩した軍服のひょろり長身の米兵が、自分の母親くらいの年の日本人の女に腕を絡ませ、半笑いを浮かべながら二眼レフのカメラででこの光景を撮影している。このとき分厚い眼鏡をかけ骨と皮ばかりに痩せた男が、黒っぽい女物の服を束にして米兵に駆け寄り、「ダラーウェルカム」と言いながらしきりに見せようとする。米兵がいかにも大儀といった顔つきで札を摘んで渡すと、男は米兵の連れに衣装を押しつけ小走りで去っていった。かと思えばもう新しい物売りが、やはりそそくさと米兵に駆け寄っていく。
「ついこの間まで『鬼畜米英』とぶち上げていたのが今じゃ上客だからな。現金なもんだ」
苦笑気味に呟くと、男は熱いうどんの汁をすすった。
青空屋根のうどん屋台、もちろん席などなく立ち食いだ。
額から汗がふきだす。こめかみを伝ってだらだらと流れ、顎から滴になって落ちる。こんな蒸し暑い季節に食べたいメニューではなかった。だが彼の懐事情では、一杯一円二十銭の「かけ」がせいぜいなのだ。しかしそれでも、こうやって食べたいときに食べられるだけでもずっとましというものである。玉音放送からもうじき一年、このような贅沢、去年の今ごろでは考えられなかった。あの頃は他ならぬ日本政府から、一日二食が大真面目に推奨されていたのだ。
「ここに置いとくぞ」
縁の欠けたどんぶりを屋台の親父の前に置き、彼は懐手して歩き出した。
着ているのは木綿の着物、元は薄い緑だったと見えるが、もう完全に色落ちして地は白っぽくなっている。しかもまともに洗っていないのだろう、あちこちうす黒い染みや黄色の汚れがこびりついていた。加えて裸足だ。それで平然と渋谷の闇市を歩くのだが、堅い鉄屑を踏んでも平然としている。年齢は二十歳そこそこに見えるのだが、妙に老成したような風があった。
清華(きよはな)、それが男の名である。少なくともそう、名乗ってはいる。
本名かどうかは判らない。雅号だという説もあるしこれは名前で、苗字は別に玄田か柳玄、玄柳……とにかくそのようなものがあるという噂もある。いずれにせよ本人が何もまともに語ったことがないので、界隈では『清華』の通称だけで呼ばれていた。
清華が渋谷に流れてきたのは数ヶ月前だ。ある日ふらりと現れた彼には医術の心得があり、無許可医として人々の求めに応じて、病気の治療や怪我の手当をするようになった。基本、清華は治療の代金を取らない。取っても、最低限のものでしかない。なんとかその日の糊口がしのげればいいらしかった。
金は求めないが清華は知識を求めた。神話や伝承を好み、様々な人間の集まるこの街で、様々な地域の物語を聞いては熱心にうなずく。とりわけ、「こことは違うもうひとつの世界」といった主題の物語には大いに興味があるらしかった。
戻るか、清華は独言した。
今のところ、本日の闇市に喧嘩騒ぎや怪我人はないようだ。結構なことである。
仮の住まいとしている拳闘(ボクシング)ジムへ清華が足を向けた、そのときだった。
「気をつけろ! 奴らは空からやってきた! 遠い遠い空の彼方から俺達を閉じ込めにやってきたんだ!」
いささかヒステリックだが、聞く者をどきりとさせるほど確信に満ちた声が飛び込んで来た。
――またあいつか。
懐から日に焼けた片腕を出すと、清華は所在なさげに首筋を掻いた。
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