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終わりなき蒼空、涯てることなきフロンティア

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終わりなき蒼空、涯てることなきフロンティア
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リアクション


●練習曲作品10-3 (ショパン)

 もう病床にあってどれくらいの月日が流れただろう。
 その日、芦原 郁乃(あはら・いくの)は夢を見ていた。
 見ているのは過去の思い出、秋月 桃花(あきづき・とうか)と出会った遠い昔の記憶だ。
「私と一緒に世界中を見て回ろう」
 あのとき郁乃はそう言って、封印されていた桃花に手を差し伸べた……。

「夢……?」
 といってもにわかには信じがたい。
 過去の世界で握りかえしてきた桃花の指の、温かみすら感じるほどだったから。
 郁乃は二三度指を握って開くと、布団に横になったまま首を巡らせた。
 視線の先に、ピンク色の固まりが青い絵の具の中に浮いているように見えた。
 どうやら桃花が、縁側に座って庭の桃を見ているようだった。
 左眼の視力をほとんど失い、右目も随分と悪くなった郁乃には、すべてがぼんやりしたシルエットにしか見えない。
 思ったより簡単に郁乃は立つことができた。
「桃花の横に、行きたいな……」
 壁を伝いながらそろそろと桃花に近づく。
 気配を感じたのか、桃花が気づいてくれた。
 彼女が振り向いたのが、わかる。表情まではわからないけれど。
「郁乃様……。起きても大丈夫ですか?」
 桃花の声が心地いい。いまさらながら安心する。
「……うん。今日は少し調子がいいみたいだから……」
 桃花はわずかに腰を屈めたのだろう。動くのが見えたし、声の位置がやや下がった。
 そうして桃花は言ったのである。
「それでは少し、縁側でお花見でもしませんか」
 うん、と郁乃はこたえた。

 手を引かれながら郁乃は歩んだ。
 やわらかな陽差しの中、静かな庭を。ふたりきりで。
 さくさくと土を踏むのが心地良い。
 春風が頬をなでている。
 花の香りを感じる。桃の花だ。
 細密な姿はわからなくても、その色は感じることができる。毎年綺麗な花をつける樹だが、今年はとりわけ盛大だ。
「……こうやって桃の花を見てると、いろいろと思い出すね……」
「そうですね……郁乃様に初めてお会いしたのは、郁乃様が十五のときでしたね……」
「本当に、いろんなことがあったね」
「そうですね……」
「随分と長い時間を歩いてきたんだね……」
「でも、楽しかったですよ。郁乃様と一緒だと」
「そうだね。私も楽しかった。とっても」
 桃の花を見ながら、いろんな話をした。
 ――気持ちいいなあ……。
 ふわっとするイメージががあった。体が一枚の羽根になったような。
 桃花の手を握っていないと、本当に空に浮かび上がってしまいそうだ。
 陽に当たり穏やかな風に吹かれているうち、郁乃には心地よい眠気がやってきたのだった。
 ――本当に、気持ちいい……。
 そう思うと目を閉じた。
 瞼を通して、光が淡く広がる。
 すぐそばに桃花の温もりを感じながら、その心地よさに任せてすべての力を抜いた。
 ゆっくりと春に溶けゆくようにして、郁乃の意識は穏やかな、永遠に覚めることのない眠りに落ちていった。
「郁乃様、少しお疲れですか?」
 桃花は我に返った。夢見心地で郁乃と歩んでいたが、しばし会話がとぎれ、無言で桃の花を見上げていたところ、不意に彼女がもたれかかってきたのだ。
「そろそろ部屋に戻りましょうか……」
 優しく声をかけて肩に手を置く。
 返事がない。
 桃花の胸に嫌な予感がよぎった。
 それは最初、軽石で肌をこすられたような不安、
「郁乃様?」
 郁乃様の肩を軽く揺する。ややあって、少し激しく揺する。
 不安は濃くなるばかりだ。軽い痛みが、急速に熱を帯びていく。
「郁乃様!? 郁乃様!!」
 半ば桃花は気づいていた。けれどそれを直視したくはなかった。
「郁乃様! しっかりしてください! 郁乃様!!」
 思わず声を荒げてしまう。
 そしてようやく桃花は、認識したくない事実を認識せざるを得ないことに気づいたのだった。
 郁乃は全身を桃花にあずけていた。
 とても軽い、軽い体だった。
 花束を抱えているような気がした。
「郁乃様……!!」
 桃花の双眸からぽろぽろと、涙がとどめどなくあふれる。
 郁乃は、既に旅立ってた。
 穏やかに微笑み、まるで眠っているかのように。

 この日、桃花は永遠に郁乃を失った。