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第6章 ロミオの試練

 ジュリエットとパリスの婚約は、キャピュレット夫妻襲撃とほぼ同時にマンチュアにいるロミオのもとまで広まった。
 愛する妻を失い、自身も大けがを負って床についたキャピュレットの悲しみはいかばかりか。そんな父から一生の願いと頼まれては、ジュリエットも到底断りきれるものではないと、ロミオは打ち沈んだ心で納得した。
 ほんの数時間ではあったが、わが妻であった人。彼女には幸せになってほしかった。一緒に地獄へ落ちようとは、全く思えなかった。
 こうなってみれば、ヴェローナでの最後の夜をマキューシオの看護に費やして彼女の元を訪れることなく去った、あれでよかったのだと思う。もしも彼女の元を訪れて、結婚をまことのものにしていれば、彼女は困った立場に立たされるところだった。
「――ああ、だがぼくは? ひとのものとなった彼女を想って、この地獄で独り朽ち果てていくしかないのか?」
 彼のもとを訪れた父母は、涙を流し、いずれヴェローナに戻れるようにしてやると言った。それはわずかな希望だった。彼女との結婚は夢と消えたが、彼女と同じ町に身を置くことができるようになれば、それだけでもいいではないかと自分を騙した。それ以上を望むのは欲深すぎると。
 だが、パリスの妻となった彼女を見ることが幸せとは、今はどうしても思えなかった。
 雨の中、とぼとぼとマンチュアの町を歩く。雨を嫌い、足早に横を通りすぎる者がいても見向きもしない。
 どこ行くあてがあるわけでもなく。ただふらふらと、夕方の白い影のようにうろつく彼の足元に、やがて路地裏から現れた1匹の黒猫がまとわりついた。
    ナァーォ……
 なでてといわんばかりに背をすりつけ、足の間でS字を描く。
 どこぞの家の飼い猫か。
「家へお戻り、おまえを待つ者がいるのだろう? 雨に降られて、心配しているよ。ぼくには何もないから、そうしてなついたところで得られるものはないんだ」
 この冷え切った心と体では、ぬくもりすらも与えられまい。
 求められるまま2度3度となでていると、猫の出てきた路地裏から、辻占らしき者が声をかけてきた。
 目深にかぶったボロボロのローブは路地裏の暗さとあいまって、口元しか見えない。
「ねぇキミ」
 その声は高めで子どもっぽく聞こえたが、話し方は子どもとは思えなかった。
「恋人のジュリエットの裏切りを知った、今の気持ちはどう?」
「――裏切られてはいない」
 愛する人の名前を耳にして、ロミオは幾分用心深く声をひそめた。
 だれも知らないはずの2人の事を知っているふうな、この者は何者…?
 いかにも警戒しています、といった姿のロミオに、ラヴィニア・ウェイトリー(らびにあ・うぇいとりー)は吹き出した。
    ゥナァーォウ……
「ああ、はいはい。分かってるよ」
 黒猫が、差し出された手を上って肩につく。
「キミを愛すると誓った、その舌の根も乾かないうちにほかの男の腕に飛び込んだ、これは裏切りではないのかい? キミはずいぶん心が広いようだね。
 それとも、もう彼女などどうでもいいとか?」
「まさか!」
「去る者は日々に疎しと言うからね。数日会わずにいて、目の曇りも晴れたか。新しい町でさまざまな花を目にして、あれだけがこの世の花というわけでもないことに気づいたか」
「違う!!」
 必死の反ばくに、くつくつと笑うラヴィニア。黒猫の爪が、諌めるようにサクッと肩に入った。
「いたっ……分かってるってば。
 そうでないとすれば、ねぇ、詳しく教えてくれない? 絶望を猫でまぎらわせているときの心情とか、本当にそれでまぎれるのかどうかとかさ」
    ギュムッッ
「――っ! こいつっ!」
「いいかげん、暴言がすぎますよ」
 ラヴィニアの肩から飛び降りた黒猫は、路地の闇でラムズ・シュリュズベリィ(らむず・しゅりゅずべりぃ)になった。
 ロミオは一瞬、黒猫が人間になったような気がしたが、まさかと頭を振ってその考えを打ち消した。あの男性は、最初からあそこにいたのだと。
「おまえたちは…」
「私たちは、通りすがりの富山の薬売りです」
 にこやかに――有無を言わせない笑顔で押し切ろうとするラムズを、次の瞬間ラヴィニアが路地奥へ全力で蹴り込んだ。
「――おい待て。だったらまだ辻占の方がマシじゃないか?」
「だって薬を売るんだったら薬売りでしょう」
 こそこそ奥で話し合ったあと。ロミオからの痛い視線を感じて、ラヴィニアが戻った。
「今のは冗談だ。あいつのことは忘れろ。
 ボクが渡したいのはこれさ」
 小さなガラス瓶を、袖口から取り出した。
「おまえが本当にこの世界を地獄だと思うなら。この先ずっと何も希望が見えないと思うのであれば、そのときはこれを飲めばいい。ほんの数秒でおまえをこの地獄から解放してくれる」
 毒だ。
 そう悟った瞬間、ロミオは無意識にそちらに手を差し出していた。
 ぽとり。ガラス瓶を、ロミオの手に移す。
「代金は――」
    ナァオ
 再び現れた黒猫が、ちょこんとラヴィニアの横に座る。
「そうだね、キミの持ってる短剣でも貰おうか」
 交換成立。
 短剣を手に、黒猫を抱いた辻占が再び路地裏の闇へと消えていく。
「きみは、一体――」
「ボクが誰かって? 『ダンウィッチの魔女』だよ」
 声は遠くから、こだまするように聞こえた。
 この路地はすぐ先で行き止まりで、そんなに距離はないはずだ。
 だがロミオは、後を追って暗闇に入る気にはどうしてもなれなかった…。



「佑一さん、どうしよう? ロミオくん、毒を受け取っちゃったみたい」
 ずっとロミオのあとをつけ、少し離れた曲がり角から様子を伺っていたミシェル・シェーンバーグ(みしぇる・しぇーんばーぐ)があせって隣の矢野 佑一(やの・ゆういち)を振り仰いだ。
「あれ飲んだらロミオくん、死んじゃうかもっ」
 うーん……と考えるそぶりを見せたあと。
 佑一は、すたすた通りを歩いて、路地を見つめて立ち尽くしているロミオの肩をぽんと叩いた。
「やあ。いきなり声をかけたりしてごめん。ちょっと訊きたいことがあって。もしかして、今のフードかぶった怪しい子どもに何か売りつけられたりしなかった?」
「あ、ああ…」
 佑一の視線が、握り込まれたガラス瓶に落ちる。
「ああ、やっぱり。
 実は最近、この辺りで子どもの詐欺師が出没するってうわさでもちきりなんだよ。それで、きみ何か売りつけられているみたいだったから、もしかと思ってさ。知らない?」
 佑一の問いかけに、ロミオは首を振った。
 次から次へと現れるこの展開に、ついていけないでいるようだった。
「そうか。きみ、この辺で見かけたことないしね。もうかなり有名になっているから、旅の人とかそういうのを狙うようになったんだな。
 僕を訪ねてきた友人も、この前やられてね。ネズミ退治に効果があるからって毒を売りつけられたんだけど、ただの水だったんだよ」
 ちょっとごめん。
 さっと手の中のガラス瓶を抜き取り、指につけてなめる。

「あーーーーっっ!! ――ムゴッ」
 毒をなめる動作に、曲がり角で思わず叫んでしまったミシェルの口を、後ろにいたラムズがふさいだ。

「……ほら、なんともない。ただの水だね。騙されたんだよ、きみ」
 佑一は大げさにため息をつき、少し考え込む動作をしたあと、ポケットから別の瓶を取り出してロミオに握らせた。
「きみ、短剣取られちゃったみたいだし。かわりにこれをあげるよ。友人にあげたネズミ退治用の毒の残りなんだけど。ジギタリスから抽出したものだからよく効くよ。扱いには注意してね」
 そう言って、じゃあと手を振って、佑一は長居は無用とばかりにさっさと曲がり角まで戻っていった。
「――毒かもしれないものをいきなりなめるなんて、不自然すぎるぞ」
 自分の毒を回収されたラヴィニアが、ふてくされた声で出迎える。
「ごめんね。でもやっぱり、飲んだら大量の血を吐く薬って聞いたら、なんだか怖くて」
 なだめるように笑って、毒をラヴィニアに返した。
 本当は、ロミオが受け取らないことを期待していたのだ。こんな物はいらないと、つっぱねてくれることを。なんといっても彼はカソリック教徒だし。自殺が大罪であることは知っているはず。
 でも、彼は受け取ってしまった…。
「さて。毒を受け取ったということは、俺の出番かな」
 閃崎 静麻(せんざき・しずま)寿 司(ことぶき・つかさ)とともに修道士姿で去っていく。
 その背を見送りつつ、ロミオの心の傷の深さについて思いを巡らせていると。
「………………佑一さん…っ! あれがなめるフリだったって、どうして前もって教えてくれなかったのっ!」
 ミシェルが顔を真っ赤にして、すっかりおかんむりになっていた。



 一体さっきの人たちは何だったのか…。
 ロミオは呆然となりながらも、再び歩き始めた。
 あまり深く考える気にはなれなかった。先の人たちが何だったのか、考える気力もない。ただ、手の中の毒薬だけが、妙に現実的だった。
「毒、か…」
 ふらふらと町をさまよったあげく、たどりついた修道院の壁を背に座り込む。
 震える手から瓶を落とし、両膝を抱いた。
 親友たちを失い、家族を失い、追放者となった自分。
 この町で、たった独り、だれも気にかける者すらいない。
 ただひとつの心の拠り所だったジュリエットすら離れた。
 何もかも失ったというのに。
「毒を飲む勇気すら、ぼくにはないのか…」
「なにも死ぬ必要はない」
 コロコロと足元に転がってきた瓶を拾い上げ、静麻扮するロレンスはそう言った。
「ロレンスさま……どうしてここに…」
「ここの修道院を訪ねてきたのだ。というのは表向き。おまえに会いに来たのだよ」
「ロレンスさま…!」
 ロミオはロレンスにすがりつき、声を上げて泣いた。



 修道院の中のロレンスの部屋で、ロミオはタオルとスープをあてがわれ、やっとひとごこちついていた。
 不思議なもので、ついさっきまであれだけ絶望で満たされきっていたのに、暖かな部屋で温かい飲み物をいただいていると、ほっとする心がある。
「落ち着いたかね」
 ロレンスは暖炉にかけていたスープ鍋を混ぜながらロミオに笑いかけた。
「ありがとうございます。見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありませんでした」
 と、その視線が、同じテーブルについた司の方へと向く。
「ああ、その者は、わたしがこの町にいると知って、訪ねてきたこの町の者だ。少し縁があってね」
「そうですか…」
「どうやらきみのうわさを聞きつけていて。どうしてもきみに話したいことがあるそうだ」
 司は、ロミオの注意が自分の方に向いたのを確認して、飲んでいたマグカップをテーブルに戻した。
「ロミ君、あのね、私の実家も伝統とか世間体とかうるさい家でさ。女の子はおしとやかにしなさいとか、剣なんてはしたない、やめなさいとか。
 私にはそれがなんだか窮屈に感じられて、嫌で、飛び出してきたの。自分の道を貫くために。
 ロミ君も本当にジュリジュリを愛してるなら……毒を飲もうと思いつめるくらい、命をかけられる相手と思っているなら、さらってでもその愛を貫いてみせなよ! 簡単に諦めるなんて、男じゃない!」
「だが、それがジュリエットにとって幸せなのか?
 ぼくは、彼女にそばにいてほしい、いつも一緒にいたいし、抱き締めて離したくないと思う!
 だけど今のぼくには何もない。彼女に与えられるはずだったものは何もかも失ってしまった。その上、父親からまで引き離していいはずがない…」
「んもう! なにくよくよ考えて弱気になってるのよっ。そんなの、分かるわけないっ!」
 ガタン。
 テーブルを押して椅子から立ち上がり、司は力説した。
「ロミ君、ひとがどう思うかなんて考えたって無駄! そんなの絶対他人には分かりっこないんだから! ジュリジュリがどう思うかっていうのは、ジュリジュリに直接訊かなきゃ駄目なの! あーでもないこーでもないと考えて勝手に結論出したつもりでいると、そっちの方がますます相手には嫌われちゃうよ!」
「は、はぁ…」
 女性とは、扇の向こう側で口元を隠しつつ話すか、はじらいつつささやくように言葉を返すかしかしないもの。ロミオは、こんなにポンポンものを言う女性に会うのは初めてだったため、どう返せばいいのか分からなかった。
(ハトが豆鉄砲くらったようだな)
 すっかり気圧されてしまっているロミオに、静麻はくつくつと含み笑う。
「死ぬ気になれば、何でもできる。そういうことだ」
 タイミングを見計らい、静麻はポケットからガラスの小瓶を取り出した。
「それは――」
「中身は空けさせてもらったよ。そして別の毒を入れておいた。これを持って、ジュリエットに会いに行きなさい。そして彼女の気持ちをたしかめたなら、これを用いればいい」



 時同じくしてヴェローナの町、修道院にて。
 愛するロミオを裏切ってしまった自責の念から、2人の思い出の修道院に足を運んだジュリエットは、そこで如月 正悟(きさらぎ・しょうご)扮するロレンスより、42時間仮死状態となれる毒薬を手渡されていた。