リアクション
巨大鯖を鯖折りで仕留めたイングリット・ネルソン(いんぐりっと・ねるそん)の前に、次に立ちはだかったのは巨大タコだった。
「これは……」
タコのぐにゃぐにゃした体に、イングリットはすぐに自身の不利を悟る。
「ですが、ここで引くわけにはいきませんわ! 不利な敵に勝ってこそ、成長があるのです!」
力強く地面を蹴り、イングリットは巨大タコに飛び掛かった。
どこを見ているのかわからない大きな目玉へ蹴りを放つ。
やはり目は弱点だったのか、巨大タコは丸太のような足をばたつかせてイングリットを叩き潰そうとした。
彼女は足の動きをよく見て身軽にかわしていく。
しかし、相手の攻撃の手は八本もある。
避けきれなかった太い足が、うなりをあげてイングリットに襲いかかった。
迫りくる吸盤に息を飲み、とっさに頭部をかばうような体勢をとる。
──が、覚悟した痛みは来なかった。
地面に転がったイングリットが不思議に思って体を起こすと、
「大丈夫か!」
イングリットを叩き潰すはずだった足は、マイト・レストレイド(まいと・れすとれいど)の戦闘用手錠・改によるワイヤーに絡め取られていた。
助かった、とイングリットは安堵した。
動きを封じられた巨大タコは、不満を表すように足を振ってワイヤーを解こうとした。
その力に振り回されそうになったマイトは、慌ててワイヤー巻き戻す。
と、隣にイングリットが身軽に寄ってきた。
「なかなか手ごわい相手ですわ」
「君にとっても俺にとっても、相性が悪い。極め、投げが効きにくいからな。どう攻める?」
「そうですわね……弱点の目玉を狙いましょうか。先ほどのように暴れられると厄介ですから、その辺は注意しないといけませんわね」
「遠距離攻撃だな。凶暴な足は俺が何とかしよう」
「では、行きますわよ!」
川で思う存分足を伸ばしてくつろいでいる巨大タコを仕留めるべく、二人は散開した。
マイトは今まで小猿の姿で好きにさせていた白猿太保を呼んだ。
白い小猿は、どこか明後日のほうを向いて尻をかきながらあくびをしていた。
「白猿太保、行くぞ!」
もう一度呼ぶと、小猿は飛び跳ねるようにしてマイトのもとへ戻ってきた。
「甲掛!」
走り出したマイトの足元にぴったり併走していた白猿太保がその言葉を聞くと、空気に溶けるように輪郭がぼやけ、呪文のような謎の文字に変形しながらマイトの足に絡みついていく。
マイトの靴がぼんやりと輝く呪文に覆われた。
そしてマイトは巨大タコの注意を引くように川に飛び込んだ。
白猿太保の能力により、マイトは水上を地上のように駆けた。
うるさそうに上げられたタコの足に、ゴルダを投げつける。
地味に痛かったのか、タコ足はビクッと引かれた。
さらに、他の足にも次々ゴルダを投げつけていき、いらだった巨大タコの注意がすべてマイトに向けられた時、イングリットが上空からタコの目に強烈な蹴りを落とした。
完全な不意打ちを食らった巨大タコは、痛みと混乱でめちゃくちゃに足を振り回そうとして──それができなかったことで、ますます混乱の度合いを増した。
「ただゴルダを投げていただけだと思うなよ……!」
戦闘用手錠・改から伸びたワイヤーを、力いっぱい引き絞りタコの足を封じるマイト。
「陸にあげてしまいましょう!」
イングリットは巨大タコから少し離れて精神を集中させると、残りの力のすべてを込めた闘気の塊を撃った。
闘気の塊をめり込ませた巨大タコは、ぐにゃりと体を曲げて陸へ打ち上げられた。
巨大タコはぐにゃぐにゃと体をくねらせて川へ戻ろうとする。
「そうはさせませんわ! あなたは神楽崎先輩に刺身にしてもらいますのよ!」
イングリットがタコの足を掴んで投げ飛ばそうとした時、潰された目玉の仇とばかりに突然巨大タコの動きが機敏になった。
その巨体でイングリットを押し潰そうというのか、巨大タコがジャンプした。
息を飲み、驚きに目を丸くするイングリット。
「危ない!」
完全に動きを止めてしまったイングリットを、飛び込んできたマイトが抱きかかえるようにして助け出した。
地面を転がる二人の背後で、ズシンッと巨大タコが落下した音が響いてきた。
タコ自身も衝撃で体がしびれたのか、しばらくボーッとその場にいたかと思うと、やがてのっそりと川に戻っていったのだった。
「イテテ……イングリット、怪我は……」
かすかな痛みに顔をしかめて体を起こしたマイトだったが、自身の体の下でくったりしているイングリットを目にしたとたん、何故か言葉を飲み込んでしまった。
今までまったく意識していなかった水着姿が、いやに心を騒がせる。
閉ざされていたイングリットのまぶたがゆっくりと開き、綺麗な赤い瞳がマイトを映す。
「……大丈夫ですわ。二度も、助けられてしまいましたわね」
この借りはどうのと話すイングリットの言葉も、マイトの耳を素通りしていく。
ぼんやりしているマイトを、さすがにイングリットも不審に思った。
「あなたこそ、どこかお怪我でもしましたの?」
心配そうに見つめられて、マイトはようやく自身を取り戻す。
「いや、平気だ」
「あの、それではそろそろ立ちませんか? いつまでもこのままというわけには……」
ここまでの巨大タコとの戦いを知らない者が見たら、マイトがイングリットを押し倒しているようにしか見えない。
マイトはハッとしてイングリットから離れた。
どうしてか、頭の回転が鈍くなっていたマイトだったが、身に沁みついた英国紳士の精神は自然にイングリットに手を差し伸べさせていた。
「ありがとうございます」
イングリットもごく自然にその手を取って立ち上がる。
「あのタコは仕留め損ねましたが、わたくし達、なかなかうまく連携できたと思いませんか?」
イングリット共に戦いの場にいる時、ライバルだったり共闘したりと関係はさまざまだったが、さて今回はとマイトは改めて思い返してみた。
そして、肯定の返事を返そうとした時。
イングリットの輪郭がぶれた。
目がおかしくなったのかと軽くこするマイトに対し、イングリットは似たような感覚が最近あったようなと思っていた。
その記憶は、ブルタ・バルチャ(ぶるた・ばるちゃ)の声ではっきりと思い出すことになった。
「この前は怖い思いさせてごめんね。今日は怖くないよ。巨大魚はまだ暴れてる。ボクも一緒に戦うよ」
「そう言いながら、今度は何なんですの!?」
「十年後のきみに会いたくてね」
魔鎧のブルタがニタリと笑ったのが気配でわかった。
……が、その気配はすぐに驚愕に変わる。
「イングリット……」
驚愕は失望へ。
前にタイムコントロールでイングリットを十年前の姿にしたブルタ。
十年後と言えばイングリットは二十七歳。
彼女の肉体は女性として立派に育っているだろう。
今はちょうど良いスクール水着も、成長した体にはきついはず。
小さな水着からはみ出しそうな胸やお尻を隠して羞恥に染まるイングリットは、きっと美しいに違いない……。
「ボクの眼福が……」
見るに堪えないと言わんばかりにブルタはイングリットに背を向けた。
「ちょっと、失礼じゃありませんの? ──マイトさん、あなたもどうして固まってますの?」
マイトもどう答えていいかわからず、そっと目をそらした。
背を向けたまま、ブルタが落ち込んだ声で言った。
「イングリットは武術が大好きだったね。その気持ちを、少しでもボクに向けてくれればこんなかわいそうなことにはならなかったのに」
「本当に失礼な方ですわね。……でも、おっしゃることがまったくわかりませんわ。何が言いたいんですの?」
ブルタは言葉を探すように沈黙した後、静かに、しかしはっきりと言った。
「そんなに腹筋が割れてちゃ、目のやり場に困っちゃうよ」
言われて初めて自身の体を見たイングリットは、その変わりように驚き息を飲む。
「こ、これが十年後のわたくし……?」
武術に明け暮れていた彼女の肉体は、すっかり筋肉質になっていた。
肩も二の腕も太ももも固く引き締まり、腹筋の逞しさは水着の上からもわかる。
イングリットの表情からは、失望も喜びも判断できない。
純粋に驚いているだけだ。
拳を閉じたり開いたりしてじっとそれを見つめていたイングリットは、不意に好戦的な笑みを浮かべた。
「この体の力、試してみたくなりました。きっと、あの巨大タコを仕留めてみせましょう」
自分に誓うように呟くと、イングリットは川へと駆けだしていく。
「せっかくだからボクも見ておこうかな。あれはあれで見所があるかもしれないしね」
妖しい笑い声をもらすと、ブルタもすぐに追いかけていった。
巨大タコと生き生きと戦うイングリットを見ていた百合園生は、これは何とかしたほうがいいのかしらと、学院の同胞の将来を心配したのだった。
○ ○ ○
ほぼ面識はないという姉妹を、
紫月 唯斗(しづき・ゆいと)はこの川原のパーティに誘っていた。
ハイナ・ウィルソン(はいな・うぃるそん)も
ルシア・ミュー・アルテミス(るしあ・みゅーあるてみす)も人見知りするタイプではないため、ふつうの友達のような感覚で接していた。
三人は今、唯斗の提案で釣りをしている。
「何が釣れるか楽しみですねー。釣りは当たりがくるまでの待ってる間も……何だあれ?」
のんびりと話していた唯斗の表情が、川の河口を見ると訝しげに歪んだ。
ハイナとルシアもそちらに目を向ける。
「魚でありんす」
ハイナは見たままを言った。
「大きな魚ね。何ていう名前なの?」
ルシアも現実をそのまま受け入れた。
それで納得できないのは唯斗だけだ。
「いやいや二人共。あんな巨大なサバはいませんからね。タコもイカも明らかに異常ですから!」
「でも、魚類であることには間違いないでありんす。あれは捕まえがいがありんす」
「味はどうかな? 大きすぎるものはたいてい大味だというけれど」
「それも、捕まえてみればわかるでありんす」
「そうね」
ハイナとルシアは急に意気投合すると、すっくと立ち上がった。
「捕まえるって……あれをですか?」
苦笑して唯斗が指さす先には、ドバーンズバーンと暴れる巨大魚と紙屑のように吹っ飛ばされる人間達。まともに相手ができているのは契約者だけだ。
その契約者もずい分苦戦している様子。
しかも、こちらに接近している。
できれば相手したくない……。
そう思う唯斗だった。
しかし、遺伝子上の姉妹はやる気満々だ。
傍観者ではいられそうにない。
「唯斗、ぬしの出番が来いしたよ」
たくらんでます、という笑顔のハイナに唯斗は本能的な危険を察知し、逃げようとした。
が、それよりも早くハイナに襟首を掴まれ、釣竿に引っかけられる。
「あれくらい大きいなら、餌は人の大きさがちょうどいいと思いなんしょ!」
「人の大きさっていうか、ヒトそのものですからー!」
という唯斗の叫びは、ハイナが力いっぱい振った釣り竿の勢いにより、ドップラー効果を伴って遠くなっていく。
矢のように空中を飛ぶ唯斗の正面で、巨大サバがガバッと口を開いた。
こんな死に方は嫌だと、唯斗はとっさに不可視の封斬糸を取り出すと、巧みに操って巨大サバの口から全身を拘束した。
その際、水しぶきを浴びて可視化したがそれは気にしない。
丸飲みにされずにホッとしたのも束の間、ハイナは唯斗が巨大サバを拘束したと見るや、投げた時以上の力で釣り竿を引いた。
いきなり後ろへ引っ張られ、唯斗の首が絞まる。
一瞬後に地上に(乱暴に)下ろされたものの、しばらくは咳込んで文句の一つも言えなかった。
「ようやったでありんす! ぬしも見なんし、この活きの良さ!」
上機嫌のハイナを恨めしげに見ても、のれんに腕押し、糠に釘だ。
ふと見れば、ルシアがいない。
「ルシアはどこです?」
「きゃあ〜!」
唯斗の問いに答えたのは、ルシア本人だった。
悲鳴のしたほうを見てみれば、巨大タコに捕らえられてもがいていた。
タコの足がルシアの腰や足に絡まり、何だかエロチックな眺めだった。
「眼福ありがとうございます!」
唯斗は手を合わせて礼をする。
その尻をハイナが蹴り飛ばした。
「早う助けに行きなんし!」
ハイナも両手に刀を構えるとルシアを助けに向かった。
疾風突きによりハイナが巨大タコの体勢を崩すと、間髪入れずに唯斗が不可視の封斬糸で九十九閃を放ち、ルシアを掴む足を細切れにした。
宙に投げ出されたシルアはハイナに助けられた。
巨大タコは怒り狂って三人に丸太のような足を振り回し、強烈な連打を浴びせてくる。
三人は呆気なく吹っ飛ばされたが、これが闘志に火をつけた。
まるで長年トリオで組んできたように見事な連携プレイだった……と、数十分後に巨大タコを調理しながら唯斗は思ったのだった。
同時に、もうないかもしれないなとも思ったが。