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――2階 ロビー


 彼らは病室を抜け、2階へ続く階段へ向かった。
「ハリールさん、元気になったようですね」
 前を行くハリールを見ながら、エオリアはとなりのエースにだけ聞こえる声でつぶやく。
「ああ。あの様子だと、襲撃してきた敵に対して怖がっていたわけではなさそうだ。どうやら暗いのが駄目なようだな。何があったか知らないが、気をつけておいてあげよう」
 エースは面を上げ、踊り場に設置された蛍光灯に視線を向ける。ジジジと虫の羽音のような音をたていて、今にも球切れを起こしそうだった。単なる接触不良か配電に問題があるのかは分からないが、いつまた消えてもおかしくない不安を感じる。
「そうですね」
 うなずくエオリア。彼は気付いていないようだったが、ハリールを心配する以上にエースは彼のことを心配していた。何を目撃したのか分からないけれど、青白い横顔はまだ動揺を静め切れていないように見える。気配りに長けた彼の意識がハリールへと向いて、ほんの少しでも気をまぎらわせることができるように、という配慮だった。
「たしか音がしたのはこの辺だったと思うんだけど…」
 美羽に続き2階へ下り立ったコハクがきょろきょろと辺りを見回した。病室ばかりだった3階と違い、2階は診療科の札がかかった部屋が左右、正面と続いている。
 このとき。もしも彼が振り返っていたならば。
 1階へと続く踊り場を、チラとでも視界に入れていたのであれば。あるいはこの先は、また違った展開を見せていたかもしれない。
 しかしその動作を彼がとる前に、美羽の発した言葉が彼の注意を前方へと引きつけた。
「いた! お医者さんだよ!」
 ロビーの入り口で、美羽は快哉を上げるようなはしゃいだ声でコハクを振り返った。つられるようにそちらを向いたコハクの前、白衣を着ただれかが『家族控室(談話室)』と書かれた札のついたブースの角を曲がって奥の廊下に消えようとしていた。3階同様2階もまたしんと静まり返っていて、針を落としただけで端から端まで響きそうな無音だったが、なぜか美羽の声は医師の興味を引かなかったようだ。
 全くの無反応。そのことにも違和感を覚えずにいられなかったが、ひるがえった裾に、コハクはぎくりとなった。
 あきらかに焼け焦げたあとだ。そしてあちこちににじんでいるのはもしかして……血?
「先生、待ってください! ちょっと聞きたいことがあるんです!」
「あ、美羽! 駄目――」
 コハクが制止するより早く、美羽は角に手をかけ奥の廊下へ飛び込んだ。
 てっきり前方を歩いていると思った医師が、すぐそこに立っていた。今にも鼻先を触れ合わせるほどの近距離で、にたりと不気味なうす笑いを浮かべて――。
「!!」
 次の瞬間、バチバチバチっと音をたて、頭上の蛍光灯が消える。その一瞬に、美羽は見た。
 医師は1人じゃない。
「きゃああっ!!」
「美羽!!」
 美羽の悲鳴にコハクはバーストダッシュで角を曲がった。直後、光術の光があとに続いていたエースの目を射る。
「くそ…! エオ、ハリールを頼む!」
 周囲から明かりが消えたことで立ちすくんでしまったハリールをエオリアに任せ、エースはスキルの発動を試みた。グラウンドストライク、群青の覆い手、ホワイトアウト――どれもうまくいかない。発動する前に力が手のなかから霧散していくのが感じられて、ぎりりと奥歯を噛む。
 角を曲がった先では、美羽とコハクが白衣を着た医師たちと接近戦をしていた。
「その手を放せ!」
 美羽の両腕を掴み、引き寄せようとした男をコハクが殴り飛ばす。美羽の寝間着のそでがビリっと破けた。そでを掴んだまま吹っ飛んだ男はすぐ後ろにいた女医にぶつかり、もろともに倒れたが、だれもそのことに関心を示す者はなく、すぐ両脇にいた医師たちが美羽やコハクに手を伸ばし、彼らを捕まえようと前進してきた。なかには顕微鏡のような物を持ち、それで殴りかかろうとしている者もいる。
「危ない!」
 呼吸器内科から出てきた医師が美羽の頭めがけて花瓶か何かを振り下ろそうとしているのを見て、エースがとっさに割り入った。交差させた腕で受け止め、室内へ蹴り飛ばす。
「ありがと、エースくん。
 ……んもー! あったまきた!」
 美羽は怒りを爆発させた。この病院の医師で一般人と思えばこそこちらは手加減をしていたのに、鈍器で襲いかかってくるとは。一歩間違えば死んでいたところだ。否、彼らは殺す気でいるのだ。なら、こっちが手を抜いてやる必要なんかない。
「いくよ、コハク!」
 それは2人にとって、もはや慣れ親しんだ合図だった。何がどうと打ち合わせることもなく、自分たちを捕まえようとする医師へ2人は真っ向から突っ込んでいく。武器がなくとも、スキルが使えなくとも、美羽は全く気にしなかった。彼女には鍛え抜かれた黄金の足がある。そしてコハクとの息の合った連係技が。
「やああっ!!」
 美羽は一分の無駄もない動きで洗練された足技をたたき込み、次々と周囲の医師たちをダウンさせていく。それでもまだこのとき、美羽のなかにはどうにかして彼らを拘束し、情報を得たいという考えがあった。だがやがて、残念ながらそれが不可能であることに美羽は気付くことになる。
「駄目だ、美羽……彼ら正気じゃない」
 同じ結論をコハクも出したようだった。どれだけやられても、彼らは立ち上がる。壁にたたきつけられ、殴り、蹴り飛ばされても、前進をやめなかった。コハクや美羽、エースは息を切らせているのに、彼らはただうす笑いを浮かべているだけだ。
 どう見ても常軌を逸している。
「ここは退いた方がいい」
 あり得ない方に曲がった足首で平然と歩いてくる医師を見て、エースは目を細く引き締めると2人に言った。もはや2人にも異論はなかった。
「皆さん、こっちです!」
 後ろでエオリアが3人を呼んだ。彼が手をついた壁には、この階の地図らしき物がぼんやりと見える。
「こっちに非常口が――」
「エオ、伏せろ!!」
 振り返ったエースが血相を変えて叫んだ。
「え?」
 反射的、彼の指示に従ったエオリアの髪先を何かがかすめる。しゃがみかけたエオリアの流した視界の隅に、空を切った太い腕が入ると同時に、その腕に飛びつこうとするハリールの姿が映った。
「エオリアくん、逃げて!!」
 しがみついてきたハリールの頭を四角頭の怪人の手がわし掴もうとする。その腕を反対に掴み、ハリールは投げ飛ばそうとしたが、あまりに体勢が悪すぎた。体格差もかなりある。バランスを崩したハリールは怪人にぶつかるかたちでもつれ合ったまま床をすべり、エレベーターへと激突した。
「ハリールさん!!」
「ハリール!!」
「うう…。――はっ」
 背中を強打した痛みに顔をゆがめたハリールのうなじに怪人の手がかかる。そのまま骨を折られるかに見えたが、美羽とコハクが一手早かった。
 2人が同時に放った光術の強い光がぶつかった次の瞬間怪人の姿は掻き消えて、床にうつ伏せになったハリールだけがその場に残る。
「一体何が…」
「あれは……あれは何者なんだ? あんなの現実にいるはずないだろ!」
 初めて目にした人としてあり得ない様相に、エースはうわずった声で叫ぼうとした。しかし恐怖にカラカラになったのどからはしゃがれた声しか出ない。必死に衝撃を押し殺そうとする彼の背中を、どんっと美羽が突いて正気づかせた。
「2人ともそういうのはあとあと! 今は逃げなくちゃ!」
 あの医師たちが手に手に得物を持って、すぐ背後まで迫っていた。痛みを感じていないふうに見えてやはりダメージは蓄積されているのか、走ろうとはしておらず、歩いてだが、しかし暗いなか、ゆらゆら前後左右に揺れながら前進するその緩慢な動きがますます不気味さを醸し出している。
「みんな、こっち!」
 美羽は手を振って促すと、率先してエオリアが指差していた東側廊下へ向かって走る。そのすぐ後ろにコハク、そしてハリールを助け起こしたエースとエオリアが続く。
「美羽さん、足元に気をつけてください!」
 エオリアに注意を促された美羽は、床から数センチの高さでピンと張られている黄色いロープのような物を見つけて飛び越した。病室から出る際、持ち出していた点滴チューブだ。これを、彼は美羽やエースたちが戦っている隙に仕掛けていたようだった。
「よくやった、エオ」
 引っかかって転倒し、折り重なる医師たちを肩越しに振り返り、エースが褒める。
「本当は、彼らを捕獲できたらと思って張った罠なんですけどね」
 落胆をにじませた声でそう答えつつも、エオリアは満更でもなさそうだ。
「しかたない。捕まえたところで、情報を引き出せるような相手には見えないからな」
「そうですね」
 会話する彼らの前を走っていたコハクは、非常口との距離を目算していた。暗くてドア自身は見えないが、廊下の突き当たりの壁には緑の非常口ランプがぼんやりと灯っていた。距離はあるものの、決して遠いと言えるほどではない。エオリアの罠のおかげで医師たちとの差は相当開いているから、追いつかれる心配はないだろう。しかしもう1人の謎の敵、あの白い四角頭の怪人がいた。
 先刻、彼と美羽はありったけの力で生み出した光術をぶつけた。だがやっつけられたとは、どうしても思えなかった。死体はなく、苦しんでいる様子もなかった。悲鳴もない。とすると、あれは一時的に撤退しただけと考えるべきだろう。
(あいつは今もどこかにいて、きっと僕たちの様子をうかがっている)
 そうすると、このまま非常口へ向かうのはあまりに見えすいてはいないか?
 まっすぐ敵の手のなかへ飛び込んでいるように見えて、コハクは横の窓を見た。逃げる自分たちの影がうっすらと映っているガラスを引き開ける。
「コハク!?」
 覗き込んだ下は暗かったが、うっすらと地面が見えた。芝生のようだ。大きな影は巨木だろう。それさえ避ければたとえ転ぶ結果になってもダメージはそれほど負いそうにない。そう判断したコハクは、驚いている美羽をすくい上げるように抱きかかえた。
 自翼を広げ、窓から外へ飛び出す。
「待ってコハク! ハリールたちが!」
「美羽を下ろしてから戻るよ。それより美羽、光を絶やさないで」
 1階との高さを往復するのはほんの数秒。美羽を下ろしてすぐ戻ればいい。コハクはそう考えていた。
「早く戻って」
 最後の数十センチを自ら飛び下りた美羽は、やわらかな土草を踏んで少しよろける。彼女の肩に、何かが触れた。
 何? とそちらを振り仰いだ美羽が目にしたものは、想像を絶する光景――まるでミノムシか何かのように病院のシンボルツリーからぶら下げられた者たちの姿だった。
「――ひっ…」
 何より恐怖だったのは、彼らがまだ生きていたことだ。頭部に何か袋らしき物をかぶせられていて顔は見えないが、手足を縛られ、どうすることもできない絶望のなか、苦しみもがいている。しかしそのもがく揺れすらも彼らの首をさらに締める結果にしかつながっていない。
 ギシギシときしむ枝の音。
 眼前の光景を拒絶する思い、恐怖が、美羽とコハクの背筋を凍りつかせた。そしてまたたく間に、それを上回る熱い怒りがそれを氷解させた。
「彼らを助けなきゃ!」
 美羽は咆哮し、シンボルツリーへ猛然と突進する。この瞬間、激怒に駆られた彼女は全くの無防備状態だった。その未熟さを突くように、ぬっと横の暗闇から突き出た腕が美羽の首をわし掴んで引き寄せる。
「美羽!!」
 闇のなか、コハクの声に重なって、骨の折れる鈍い音が起きた。一瞬だった。何をどうする暇もない。美羽自身、何が起きたか悟ることもできなかっただろう。
 うす闇のなか、抱き締められた人形のような美羽の小さな体がずるずると怪人の体を伝って地面に落ちる。まるで眠っているようだった。面は地に伏せられて、コハクには見えない。
「美羽!! ――き、さまあああああーーっ!!」
 憎悪にとらわれたコハクが全身を震わせながらこぶしで打ちかかる。
 数秒後、彼のものらしき苦鳴の声が、階上のエースたちの元まで届いたのだった。
「あれは……コハクくんでしょうか?」
 蒼白したエオリアからの問いに、エースは何も答えられなかった。ただじっと、まるで2人を吸い込んだかのような下の暗闇を凝視し続ける。けれど、いくら見守っていても、もうだれの声も聴こえてこなかった。ただかすかに、草の上を何か引きずって行く音だけがして…。
「美羽! コハクくん!!」
 ハリールが窓枠に飛びついた。足をかけ、そのまま飛び下りようとした彼女の口を、後ろから伸びてきた手がおおう。
 がっしりとした岩のような男の手。彼女に感じられたのはそれだけだった。
「ハリール!!」
 なすすべなく闇に引きずり込まれた彼女を見て、エースは驚愕する。駆け寄ろうとした彼を無数の手が掴み、後ろへ引っ張った。
「エース!?」
 悲鳴をあげることもできず。否応なく引き倒され、あお向けになった彼に、あっという間に大勢の医師がむらがる。まるで砂糖水にたかるアリのようだった。1秒と経てず彼らにおおい尽くされ、エースの姿は見えなくなる。愕然となりながらも救い出しに行こうとしたエオリアは、次の瞬間凍りついた。
 窓ガラスにうっすらと、自分のすぐ後ろに立つ四角頭の怪人が映っていた。いつからそこに立っていたのか。存在に気付いた今も、全く気配を感じない。
 やがてのろのろと立ち上がった医師たちの下に、なぜかエースの姿はなかった。引き裂かれた寝間着の破片が数枚散らばるだけだ。
 ここにいるのは彼1人。ハリールも無事ではいないだろう。真っ暗な絶望がエオリアを頭から飲み込む。伸びてくる腕に対し彼にできることはもはや、目をつぶって立ち尽くすことだけだった……。